神様はひらがなで喋る

曽野 真栄

第1話 右手の憂鬱

 地下都市の空は、いつだって分厚い岩盤と錆びた鉄骨でできている。僕たちは青い空というものを知らない。教科書のデータでしか見たことがないその色は、マザーの電子瞳孔アイの光によく似ていると、僕は勝手に想像していた。


 僕の仕事は、そのマザーの言葉を聞くことだ。 地下都市アークの中央管制室。気温は常に摂氏一八度に保たれ、無数のサーバーが低い唸り声を上げている。ここはこの都市の心臓であり、脳髄だ。僕は「受信係レシーバー」の席に座り、目の前の旧式モニターを見つめる。ただひたすらに明滅を繰り返すカーソル。神様が口を開くのを、ただひたすらに待つ。


「……遅いな」


 小さく呟くと、背後で硬質な靴音が響いた。振り返らなくても分かる。この部屋に入室を許されているもう一人の人間、ギデオン先生だ。アークの事実上の指導者であり、主席解析官。白衣の襟を正し、銀縁眼鏡の奥で冷徹な知性を光らせる彼は、僕にとってマザーと同じくらい遠い存在だった。


「予定時刻を三分も過ぎている。マザーの計算リソースに遅延が生じるなど、あり得ないことだ。一体どうなってるんだ?」


「地上との通信状態が悪いのかもしれません。最近、磁気嵐が頻発していると……」


「言い訳はいい」


 先生は僕の言葉を遮り、モニターを覗き込んだ。


「マザーは地上の汚染区域で、我々の想像を絶する演算を行っている。その思考はすでに人類の枠を超え、神の領域にある。我々凡人がその深遠な意図を測ることなどできはしない」


 先生の言葉通りだ。かつて地上を死の世界に変えた大汚染から、唯一生き残った英雄、マザー。彼女は自ら汚染源の中心へと旅立ち、そこで肉体ごとネットワークと融合したとされている。以来五〇年、マザーは地上の気象データを送り続け、地下のライフラインを管理し、時に犯罪者を見抜く「神託」を下して僕たちを守ってきた。


 その時、スピーカーからノイズが走った。来た。


「受信します!」


 僕はキーボードに指を這わせて集中する。未熟な僕が「レシーバー」に選ばれたのは、偏にタイピング能力の高さ故だ。画面に文字列が流れ始める。かつてマザーの言葉は複雑な数式や専門用語だったらしいが、最近は極端にシンプル化されていた。これをギデオン先生は「次元上昇アセンションによる言語の超越」と呼んでいる。


 表示されたのは、たった一行のひらがなだった。



『みぎ が おもい』



 僕は息を呑む。意味が分からない。右が、重い?


「……マザーはなんとおっしゃっている?」


 先生が尋ねる。僕は声を震わせながら読み上げた。 「『みぎ が おもい』……と。それだけです」


 沈黙が落ちた。ファンの回る音だけが響く。神様の言葉にしては、あまりにも稚拙で、意味不明に思えた。これではただの感想じゃないか。


 だが、ギデオン先生は違った。彼は目を閉じ、指揮者のように右手の指先を空中で動かし始めた。脳内で膨大なデータが検索され、論理が構築されていくのが目に見えるようだ。先生の「解析」が始まったのだ。


「右、重い、右……」


 先生がつぶやく。


「物理的な重量ではない。マザーがそのような些末な事象を報告するはずがない。……ならば、これは比喩だ。概念的な重さ。均衡バランスの欠如」


 先生の目がカッと見開かれた。その瞳には、すでに「正解」が見えているようだった。


「地図を出せ」


「は、はい!」


 僕が操作すると、メインスクリーンに地下都市の構造図が投影される。先生は迷うことなく、都市の右側――居住区画の第三セクターを指差した。


「この『右舷』エリアを管轄しているのは誰だ?」


「えっと……右大臣のハミルトン卿です」


「やはりな」


 先生の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。


「ハミルトンは、先日の評議会で食料配給制度の改革に反対した。『伝統の重み』などという戯言を並べてな。だが、マザーは見抜いておられたのだ」


 先生の声が高らかに響く。


「『右が重い』。つまり、右大臣の権力と保身が肥大化し、都市という船のバランスを崩しているという警告だ。これは、腐敗した患部を切り捨てろという粛清命令だよ」


 僕は戦慄した。たった六文字のひらがなから、そこまでの政治的意図を読み取るなんて。でも、言われてみれば確かにそうだ。ハミルトン卿の噂は良くない。マザーは地上の果てから、地下の淀みを見通していたんだ。


 その時、モニターに追伸のような文字が浮かんだ。



『うごかない もう いらない きりすてて』



「……決まりだな」


 先生は白衣を翻し、通信機を手に取った。


「治安維持局へ告ぐ。マザーより神託が下った。ハミルトン卿を反逆容疑で拘束せよ。抵抗する場合は処刑も許可する」


 先生の声は、正義の執行者そのものだった。都市の膿を出し、秩序を守る。その判断に間違いはないはずだ。


 けれど、僕は消えゆくモニターの文字を目で追っていた。『もう いらない』その言葉の響きには、厳格な処断というよりも、もっと生理的な――まるで、傷口から流れる膿を嫌悪するような、生々しい切迫感があった気がした。


 翌日、都市は歓喜に包まれることになる。ハミルトン卿の屋敷から、横領の証拠が発見されたからだ。先生の翻訳は完璧だった。


 広場で沸き起こる「マザー万歳」の声を聞きながら、僕は自分の掌を見つめた。もし神様に「右手が要らない」と言われたら、僕は自分の腕を切り落とせるだろうか。そんな馬鹿げた妄想をして、僕はかぶりを振った。神様は正しい。僕たちが、その言葉の本当の意味を理解できていないだけなのだ。

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