第4話

「あ、そうだ。携帯! 俺、携帯あったんだ。充電とか出来ます? さくらさんに電話してる途中、電源、切れちゃって。これに実家の電話番号とか入ってる筈だから」

 ひでろうはふと思い出し、携帯電話をポケットから取り出した。


 さくらは、その携帯を手にとり、しげしげ眺める。

「へえ、携帯、ツルカメのに変えたんだね。私の、チョコモだから、充電できないわ。あ、でも、私の会社で使ってる携帯、ツルカメだから、きっと大丈夫よ。貸してくれれば、してきてあげますけど?」

「お願いします」

 ひでろうはにっこりと笑った。


 とりあえず彼は、今晩は行くところがないので、さくらの家に泊めてもらえることになった。

 さくらは、関係がなくなった今、ひでろうは客なのだからベッドで寝てくださいと言って、聞かなかった。どうやら筋を通したがる人のようだ。

 しかし、それは男としてどうかと思い、俺は玄関のところにでも寝るからと、ひでろうは主張した。


「いいじゃん、遠慮しないで。あなたが勝手に買ってきたダブルベッドなんだから。さすがにこれは捨てられなかったですよ。まったく、ただでさえ狭い部屋なのにさ」

 さくらの言葉に、ひでろうは赤くなる。

 え、俺って、そんな奴?


 さくらのマンションの部屋は、ベランダの手前が室内テラスになっていて、仕切りのガラス戸を閉めれば別の一室となり、そこに置いてあったソファでさくらは寝た。


「ちょっと変わってるけど良い子だなあ」と、ひでろうは、ガラス戸の擦りガラスを見つめながら思った。


 なんで別れたのだろうか。話からすると、俺の方から彼女をふったらしいが、どうしてそういうもったいないことをするのだろう。馬鹿な野郎だ。ていうか、携帯のメモリーに思いっ切り番号を残しているし、未練たらたらじゃねえか。


 ひでろうは、そんなことをつらつらと考えていたから、なかなか寝つけなかった。壁時計が朝の四時を指していたのを記憶している。それからうとうとして、ようやく眠った。


 だから、起きたのは、昼の十二時過ぎだった。

 ああしまったと悔んだ。

 一宿一晩の恩として、朝飯でも作ってあげようなんて洒落たことを考えていたのだが、逆に作ってもらってあった。

 ラップをしたご飯に味噌汁、あと目玉焼きの横に、書き置きと千円札が置いてある。


『携帯、充電してきてあげるから、待っててください。もしかしたら、部屋でごろごろしていれば、何か思い出すんじゃないかな。じゃ、お昼はコンビニにでも行って買ってきてください。六時頃には帰ります』

 と、几帳面な人らしい、丁寧な字で。


「あ、まだ、いてもいいのね」

 ひゃっほうとひでろうは、朝食兼昼飯を平らげると、好意に甘えてごろごろした。

 調子にのって、書き置きの上に置いてあった、さくらの眼鏡をかけてみたりなんかする。

 うわ、目がくらくらするよう。凄い近眼なんだな。会社にはコンタクトをはめていくのだろうか。

 こっちまで近眼になりそうだったので、慌てて外した。


 ひでろうは、もっと、さくらのことを知りたいと思う下衆な欲求に駆られ、部屋の中を物色しかけたが、さすがに理性が働き、やめておいた。


 俺はただ、彼女の好意によって一泊させてもらった、赤の他人に過ぎない。元カレという話だが、彼女と過ごした時間が全く思い出せなくて、なんだか悲しい。どのくらい、俺はどのくらい、彼女のことを思っていたのだろう。


「あ、ところで、俺の名前、なんだったっけ?」

 ひでろうは、覚書をしたメモ帳を開いた。


 佐野ひでろう。なんかいまいちしっくりこない名前だ。二十七歳。意外にいい歳だなあ。職業は、工場勤務ってことは、工員なのか。確かに、手の平を見ると、まめだらけの分厚い手ぇしてる。でもって、高卒。まあ、記憶がないくらいだから、頭は良くねえなウフ。


 その他にも、自分について分かったこと、例えば右利きだとか、頭は禿げていないとか、メモ帳に書き足していった。まるで観察日記のようで、結構、楽しかった。だから、夢中になってやっていたら、いつしか五時をまわっていた。


 そろそろ、さくらさんが帰ってくる頃だよなあなどと考えていたら、突如、ひとつの懸念が頭の中をよぎった。


「もしかしたら、今晩も、泊めてもらえるかもしれない。そうなったら、もしかしてもしかすると、もともと同棲していたくらいだから、ありえないでもない。そうなった場合、買ってこなければならないゴム製品があったはずだ!」

 そういう変なことは覚えていた。


 ひでろうは、弾むような足取りで、ベッド台の上に置いた財布を取りにいく。さすがに、さくらの用意した千円札には、手をつけなかった。


 すると、昨夜は気づかなかったのだが、そこに写真立てがあった。

 その写真の中の、妙にすました佇まいでいるさくらの隣にいる男は、明らかに自分ではなかった。


 それでも一応、洗面所の鏡で自分の顔と見比べてはみたが、似ても似つかなかった。


 そりゃあそう、別れたんだもんな、覚えてないけど。


 がっくりきたひでろうは、それでもむらむらくるだろう自分のエロスピリットを予感し、間違いがあってはならないと、テッシュを持って便所へ行き、しばらく立て篭もった。


 三十分ほどして、やつれたような顔で出てきた後、よけい切なくなった気持ちのまま、妙ちくりんなぬいぐるみを抱きかかえながら、テレビで大岡越前を見た。


 加藤剛。

 その俳優の名前は覚えていた。

 ひでろうはそれをもって、芸能人の名前は、知っている自分に気づいた。チャンネルをあちこち変え、出ている芸人の名前を言い当てる。どうやら、記憶が抜け落ちている部分は、自分の生い立ちに関することだけのようだ。


 ふと、ひでろうは妙なことを思いつく。

 例えば、とある人格が自分の体を離れ、ひでろうなる者の体に乗り移ったとしたら、こういう感覚に陥るのではないか。あった、確かそういう物語が、あった。まあ、あくまで、夢想。人格とて所詮、胃の蠕動ぜんどうや心臓の鼓動と同じく、脳という体の器官による働きに過ぎない。


 あ、俺ってリアリスト?

 ひでろうは、自分メモに書き足した。


 その時、外でぎゃああと鳴く声がしたので玄関を開けてみれば、くだんの黒猫のチャッピーがいて、ひでろうの脛に頭をぐりぐり押しつけてきた。

「猫ですら俺のことを覚えているのに、ということは、今の俺は猫以下の存在なのかな」

 ひでろうは苦笑しながら、猫と戯れ、さくらの帰りを待った。

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