第5話
書き置きにあった通り、さくらは午後の六時頃、部屋へ帰ってきた。
「のり弁で良かったよね」
聞きながら、弁当とお茶の入ったコンビニの袋を食卓へ置く。
ありがとうございますと、ひでろうは頭を下げた。
「留守中、誰か来なかったです?」
さくらは、その瞳をふっと覗き込む。
「あ、そういえばついさっきまで、あの黒猫が来てました」
ひでろうがおどけ、招き猫のようなしなを作った。
「ああ、それはきっと煮干を貰いにきたんですよ。チャッピー、近所の人が飼ってる猫なんだけど、うちの煮干が好きで。なんせ、ばあちゃんちから送ってくる産地直送の煮干だから。残念、貰い損ねたな」
さくらは目を細め、にっこりと
「それは悪いことをした」
「もしかチャッピー、煮干欲しさにあなたをここまで連れてきたのかも。うん、ありえるな、食い意地の張った子だから」
「美食家ですね」
「そりゃあーた、瀬戸内の煮干は日本一じゃけ。それでダシをとってるから、朝のお味噌汁もうまかったろ。それはそうと、なんか思い出しました?」
「ああ、うん、これ」
ひでろうは、さっきの自分メモを見せた。
「俺、自身の生い立ち以外は、案外、覚えているようです」
「ほう」
さくらはそれを読みながら、のり弁をレンジに入れる。
てか加藤剛ってだれ? と顔を
その姿にひでろうは、少しドキっとして……フェチの一種だろうか、それはともかく、何か信仰をお持ちなのかと察した。
見られたことに気が付いて一瞬、さくらの顔から表情が消えたのだけれど、すぐに取り繕うよう鼻元へ皺を寄せた。
「違う違う、熊川家の習慣だから。べつに怪しい宗教に入ってるわけじゃないですよ」
それより食べましょう、もうお腹すいちゃって――と、チンされたのり弁を食卓へ並べる。
「あ、いただきます」
ところでお代の方は……ひでろうは気を遣うが、いいから、とにべもなくあしらわれた。
食べながら、さくらが尋ねる。
「ね、ちょっと質問していいです?」
「ええ」
「信号機があります。青は進め、黄色は注意、じゃあ赤は?」
「がむしゃらに走れ」
「道を歩いていたら、向こうから凄い勢いでトラックがやってきます。どうしますか?」
「しゃにむに立ち向かう」
「歩道橋でおばあちゃんが、両手に荷物を抱えて、階段を登れず困っています。さあどうする?」
「ナンパする」
「……そういう、人を食ったところは、相変わらずだなあ」
「なんのテストですかそれ?」
「常識的な判断力は大丈夫かなあと思って。まあ、心配いらないみたいだね」
半ば呆れた顔でさくらは。
「それより、携帯の方、どうでした?」
ひでろうが聞けば、さくらは「おお」と大仰に頷き、例のださいデイバッグを手元に引き寄ると、中から携帯を探りだして渡した。
電源を入れると、しばらく間を置いてから画面が光る。
「おお」
ひでろうは微笑み、さっそくメモリーされている電話番号を表示させようとしたが、機械は、メモリーされている番号は何ひとつありません……と。
「え、これって、どういうこと?」
ひでろうは、さくらに携帯を見せる。
「どれどれ」
さくらは、しばらく携帯のボタンをあれこれいじくっていたが、やがて、ばつの悪そうな顔をつくってみせた。
「ごめん」
「え?」
「事務所で、うっかり手が滑って落としちゃって、そのせいかも……」
しゅんとしたさくらの言葉に、ひでろうは怒りよりも、逆に、ほっとしたような気分になる。
元来、呑気な性格なのか、それとも。
「まあ、電源さえ入ってりゃあ、べつにこっちからかけなくても、身内からでもかかってくるでしょう。とにかく、ありがとう」
さくらは「ごめんなさい」と――心底申し訳なさそうな表情で、頭を下げた。
「お詫びといってはなんだけど、もう一泊してく?」
その申し出は、ひでろうにとっては願ったり叶ったりだったが、すんなり受け入れるのはいやらしい感じがして、一応、
「……でも、過去に付き合ってたっつっても、仮にも男と女だから、あの写真の彼に申し訳なくないですか」
ひでろうはベッド台の写真立てを指差す。
さくらの返答は早かった。
「ああ、あれは兄」
「ああ、お兄さんか」
そんなわけねえ。
もっとも、兄妹で禁じられた恋に走っているのならば話は別だが、そうではなく、変な気を使わせないための方便なんだろう。記憶喪失でも、それはひでろうにも分かった。だから、さくらに対し、ますます良い人だなあという気持ちを強くしたのだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お願いします」
「うん、いいよ。あ、そうだ」
さくらは弾むように立ちあがると、本棚を漁り、何冊かアルバムを取りだした。入れ替わりに、さりげなく兄の写真をしまう。
アルバムといっても、写真屋さんで現像した時にサービスで貰う、小冊子のような写真入れだ。表紙には、撮影した場所がマジックで書いてある。
中身は、さくらとひでろうのスナップ写真だった。
「私、着替えついでにシャワー浴びてくるから、それ、見てるといいよ。なんか、思い出すきっかけになるかもしれないから」
覗くなよと嬉しそうに捨て台詞を残し、さくらは、フローリングの開き戸をぴしゃりと閉めた。
ひでろうは「北海道」のアルバムをぱらぱらとめくる。
牧場と思しき美しい場所を背景に、不自然なくらい、さくらは写真の中ではしゃいでいた。どうやら彼女、表情を作る時、鼻元に皺を寄せる癖があるようだ。犬みたいだ。ひでろうも真似してみるが、出来なかった。
それはそうと、そのさくらの肩に手をまわしたり、やたらと親密さをアピールする馬鹿野郎に対し、とても腹が立った。おい、汚い手をどけろ。にやけたツラしやがって。
――って、自分に嫉妬する奴があるか。でも、どうも赤の他人に思えて仕方がない。写真のこいつは、さくらとの楽しい思い出があると思うと、何やら悔しさが込みあげてくるのだ。
「ち、馬鹿らしいや」
舌打ちと共にアルバムを放り出し、あ、それよりも一宿一晩の恩、洗物くらいはしてやろうかと、弁当の空箱をビニール袋に突っ込み、流し場へ向かった。
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