第3話

 気がつけば男は、部屋のほぼ三分の一を占拠しているダブルベッドの上に寝かされていた。

 妙ちくりんなぬいぐるみが、不思議そうな顔でこっちを眺めている。


 しばらくぼんやりしていたが、やがて、ああそうかと思い出す。


 スタンガンを喰らった後、電気ショックで意識が朦朧もうろうとし、ふらふらしていたところ、さくらに肩を貸してもらい、このベッドまで運び込まれ、疲れも手伝ったのか、そのまま気を失ってしまったのだ。


 さくらは、テレビを見ながら、プラ容器に入ったパスタを食べていた。

「あの」

 男は、まだ思うように力が入らない体を励まし、半身を起こす。


「あ、起きた」

 さくらが、ダブルベッドの近くまで四つん這いでやってきた。

 度の強そうなセル縁の眼鏡をかけ、しかもすっぴんにジャージ姿の彼女は、さっきの会社員のイメージとはかけ離れて見えた。


「良かったわ。もし死んだら、人間の死体って、どのゴミに分類されるのか分からなかったから。とりあえず、生ゴミなのかしらね」

 ひどい言いようだ。


「……あなたは、僕に恨みがあるのですか?」

「だから、なんなのよ、その口の利き方は。気味が悪い」

「はあ、すいません。僕は、どうも記憶がないようなのです。もし、お気を悪くしたのでしたら、謝ります」

 言いながら男は、ベッドの縁に腰かけ、頭をぺこりと下げた。

 途端、さくらがささっとテレビの前まで戻り、食卓の上に置いてあったスタンガンを手にする。


「ちょっとお、変な真似したら、またびびっとやるからねえ」

「いえ、しませんよ。それより、それは何なのですか?」

「すたんがんよ、すたんがん。テレビとかで見たことない? 最近、なにかと物騒だし、護身用に買ったの。通販で」

「……護身用って。取り出すのにあんな時間かかってたんじゃ、意味ないじゃないですか」

「あったよ。現に、ストーカーを一匹、退治したじゃない」

「ストーカーって、俺?」

「当たり前じゃないか。とっくに別れた私の家まで来て、おまけにわけの分かんないことを呟いて、これがストーカーじゃなくて誰をストーカーだと言うの。警察に電話しなかっただけでも有難いと思いな。さあ、目が醒めたんなら、とっとと出てって」


「ふーん、そうかあ」

 男は、この女と自分はやはり付き合っていたのだなと察し、なにやら呑気に感動を覚えた。

 まあしかし、一緒の空気を吸っていると考えるだけで嫌になるくらいの、よっぽど酷い喧嘩別れをしたのだろう。

 そういう事情ならば、仕方がない。


「どうもご迷惑をおかけしました」

 男は、ベッドから立ちあがり、玄関へ向かう。またびびびとやられたらかなわないので、さっさと退散した方が良さそうだった。


 けれども、これだけは聞いておかねばなるまい。


「あのう、僕の名前、なんて言うんでしょう? それと、もしご存知でしたら、僕の住所や家族への電話番号なども、教えてください」

 すると、さくらは鼻元に皺を寄せ、怖い顔を作った。


「なに、記憶がないって、本当なの?」

「ええ、どうもそのようです」

「じゃあなんで、ここが分かったの?」

「はあ、仔細を省いて端的に言えば、さっきの黒い猫の後ろについてきたら、ここへ辿り着いたのです」


「チャッピーが? にわかには信じ難いな。確かにあんたに懐いてはいたが、所詮、畜生だぞ。だいたい一年も前のこと、覚えているはずがあろうか(いや、ない)。てか、不思議の国のアリスじゃないんだから。戯言ざれごともたいがいにするがいい」


「ですよね。いや全く。失礼しました」

 男は、このままだと本当に警察へ電話されかねないと危ぶみ、そうなると面倒そうだし、慌ててさくらの家から離れようとした……のだが。


「待って」

 さくらが追いかけてきて、男の腕を掴んで自分の方へ乱暴に向き直らせるや、その瞳をじっと見つめた。


 なんだ?

 もしかして目で嘘か本当かを見破ろうと言うのか。あなたは小学校の先生か。そんなんで人の心が分かるはずなかろう。まったく、女はこれだから参る。


 とか思いつつも、男は、目が思い切り泳いでしまうのだった。


 まずい。

 このままでは、記憶がなくなったなんて嘘をついて、情けなく復縁を迫る男、なんてものに断定されてしまい、ますますストーカー扱いに。違う。俺は、そんなに潔くない男ではない。多分。いや、自信はないが……。


「ちょっと、コーヒーでも飲んでく?」

 意に反し、さくらの言葉は優しいものだった。

「え?」

「だからあ、病人を無碍むげに放り出したなんて噂がたったら、私の評判に傷がつきそうじゃないか」

「でも俺、記憶がなくなったなんて、嘘をついているかもしれないですよ」


「それはないね。だってあなた、嘘をつく時は真面目な顔して、目がすわるじゃないですか」

 さくらは鼻で笑ってみせた。


 それでも尚も戸惑う男に、「いいから、私が知ってるあなたのこと、教えてあげるから」と苛立たしげに言って、半ば強引にテレビの前へ座らせた。


 それから男は、淹れてもらったインスタントコーヒーを飲みながら、さくらに教えてもらった自分のことをメモした。


 名前は、佐野ひでろう。二十七歳。とある高校を卒業した後、とある中小企業の工場で働いていた。さくらとは、去年の夏まで、この部屋に一緒に住んでいた。そんだけ。


――って、おいおい。


 仮にも付き合っていた男女が、相手のことをそれだけしか知らないのは、ちょっとおかしいだろう。


「だって、私たち、お互いの生活には干渉しないって、決めてましたし。それにあなた、県外から来た人だから、出身校の名前とか、いまいち覚えてないのよねえ」


「でも、僕の住んでる家の場所とか、電話番号とかは、知ってますよね……」

「知らないよ。だって、あなたが勝手にここから出てったんじゃないですか。いちいち調べてたりはしてないよ」

 さくらは、眼鏡の分厚いレンズ越しに、ちょっと責めるような上目遣いで、ひでろうを見た。


「え、でも、働いてる会社名とか、田舎の名前とか、本当に知らないの?」


「ごめんなさい、本当に全然、知らないの」

 さくらは、落ち着いた表情と真剣な眼差しで、断言した。


 その真摯しんしな瞳を見たひでろうは、ああ、これは嘘をつけるような人の顔ではないと得心し、あきらめて溜息をついた。


――ったく、最近の若いもんは、互いのことを詳しく知りもしないで、よく同棲なんか出来るもんだよな。

 実は我がことながら、ほとほと呆れ返った。

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