第2話

 景色はもうすっかり暗くなった。

 いきおい、通りすがりの家に灯る明かりがとても暖かく見え、歩きながら男は無性に寂しさを覚えた。

 ちなみに、今まさにその家の中ではドメスティックバイオレンスが行われている最中なのだが、無論、彼の知るところではない。


 とりあえず腹が減ったので、通りがかったコンビニへ入ってパンを買い、ちょっと行儀が悪かったが、駐車場のところでむさぼるように食べた。

 と、その前をフルフェイスの白いヘルメットをかぶった野郎が横切り、店内に入っていく。


 おやおや、メットをしたままコンビニへ入るのはご法度なのだがなと男が苦笑を洩らせば、ほどなくして野郎が店から飛び出してきて、どうやら強盗だったようだ。

 包丁を剥きだしたまま、あろうことか、男の方へ向かってくる。


 ひいと男はおののき、パンをくわえたまま、懸命に逃げた。

 しかし強盗は、実は店員の反撃にあって退散してきただけであった。

 すなわちガチギレして強盗を追う店員と、半べそかいて逃げる強盗と、殺されると勘違いした記憶喪失の男と、追いつ追われつ、やがて友情が芽生えるかと思いきや、強盗が夜のとばりの中へ消え、見失った店員は憤りのあまりに別のコンビニへ客として押し入った末にあんまんと肉まんを購入し、その隙に男はどうにか逃げおおせた。

 建売住宅に囲まれた小さな公園へ入り、息をつく。


 しかしながら、これから僕はどーすれば良いのかしら。

 遊具のゾウが不気味に笑っていた。下にばねのついたぐらんぐらんするやつだ。とりあえず男はそれにのってぐらんぐらんする。

 結構、楽しい気分になってきた。


 そうしたらにゃーと猫がやってきて、黒い猫だ、男のすねに頭をぐりぐりと押しつけた。

 今の時期はまだ発情期と思え、するとこの黒猫は俺を襲いにきたわけか、ダメー、赤ちゃんが出来ちゃう!

 男は必死に抗い、具体的にはぐらんぐらんを激しくさせ、赤ちゃんが出来ることを防げば、黒猫はあきらめたのか、少しだけ距離をとった。その位置で男の方へ振り返り、にゃーと鳴く。街灯の光を受け、瞳が不気味なエメラルドに輝いた。


 なんて人相の悪い猫なのだろう。

 きっと呪い殺さんとしているに違いなく、男が見て見ぬフリをすれば、黒猫はまた男に近づいてそのすねに頭をぐりぐり押しつけてから、同じように距離をとって振り返るのだった。


――もしかして俺についてこいということか。しようがない。どうせ記憶のない身のうえ。このまま野良猫の男娼として生きるもまた一興か。


 男は、黒猫についていく決心を固めた。

 黒猫は尻尾をぴんと立てて意気揚揚と歩き、ああなんて素敵な後ろ姿なのかしら、さすがは私のご主人様だわと男がほれぼれしているうち、猫がとあるワンルームマンションの一階の玄関先で立ち止まり、物欲しそうな顔で男の方に振り返った。


 その部屋の表札には「熊川」と書かれてある。

 男はしばらく呆然とした後、ようやく、ああ俺の家はここなのだと理解した。ということは、この黒猫は俺を見初めたわけではなく、飼い猫なのか。そうか、俺は熊川さんなのか。


 男は忠猫に感謝尊敬を捧げつつ、ずぼんの後ろポケットから、先のキーホルダーを取り出した。鍵は二つ付いている。どっちかが家の鍵なんだろう。細い方からドアノブの鍵穴に差し込んでみた。


 しかし、どっちも駄目だった。


「あれえ?」

 やがて思い違いだと気づき、歩き疲れたせいもあって、へなへな、崩れ落ちるように座り込んだ。

 その横で黒猫がぺろぺろと己の体を舐めまわす。

 どうやらこいつは人違いをしたらしい。


 男は苦笑し、黒猫をしばき倒そうとしたその刹那、猫が立ちあがり、とことこと通路を走っていく。

 向こうからやってきた人影が、やあチャッピーと言いながら黒猫を抱きあげると、それから男の方を見て怪訝な声をあげた。


「ちょっとあんた、何してんの?」

 人影は、春らしい薄色のスーツを着た若い女性だった。仕事帰りの会社員だろう。多分、彼女が「熊川」さんなのだ。

 男は、何と説明したら怪しまれずにすむか、はっきりしない頭で考えた。


 女は、お構いなしに勝手に話を進める。

「さっきは変な電話かけてくるし、かと思えば、今度は私の家に来るなんて、あんた、いつからストーカーになったの。いったい、なに考えてんの。いまさら、なんの用なの」

「……え? あなた、もしかして、さくらさん」

「なんで、さんづけなのよ。馬鹿じゃない」

 さくらは毒々しく言うも、男は自分を知ってくれている人間に会えた喜びで一杯になり、ゾンビの如くよたよたと近寄った。


「ちょっと待った!」

 さくらは、男を手で静止させると、黒猫と次いで担いでいたデイバッグを地面に置き、ごそごそと何かを探し始める。

 彼女、着ているスーツとかは、何気に出来る人間のばりばり感を漂わせているのだが、そのデイバッグは貧乏学生が担いでいそうなそれで、なんだか妙にアンバランスだった。


「なに探してるんですか?」

「いや、ちょっとね。ああ、あった、これ」

 さくらは、護身用のスタンガンを取り出し、身構えた。


「変なことしたら、痺れさすからね」

 しかし男は、それをスタンガンだとは認識できなかった。記憶のあるなしに関係なく、スタンガン自体を知らなかったのだ。


「なんなんですか、ひげそり?」

 言いながら、不用意にもスタンガンを指でつついてみようとする。

 さくらは、それを取りあげる行為と早とちりし、きゃあと叫んで、電源を入れてしまった。


 びりびり。


 うわあ。

 男は、下半身の力が抜け、腰が折れたように倒れる。

「……うーんなんでこんな目に」

 断末魔の叫び。

 黒猫が嬉しそうにニャオと鳴いた。

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