第14話 杏子の左フック

「私は、あの時の御子柴先輩の左フックを目標に頑張ってきたんです」

 志津香がはっきりとそう言った。

「そんな・・・、そんな。私、別に狙ったわけじゃ・・・」

「ええ。私もそう思います。偶然の産物。ラッキーパンチだった」

「だったら・・・」

「でも、あれは元々狙って打てるパンチじゃないです。天性のもの。柔軟で軽快な体重移動の出来る柔らかい肢体。一瞬で打つパンチを切り替えられる反射神経。そしてパンチに体重を乗せ、大きな筋肉の動きで振り抜く、スピードとパワー。ボクシングの天才が放つことができるパンチだと思います」

「いやいや・・・。だって、結局私は負けたのよ」

 杏子が静かに反論した。そうなんだ、結果は負けだったのだ。

 2ラウンド。ダウンを認められず、藤島は立ち直った。と言うより、時間に救われた。すぐに終了のゴングが鳴る。杏子は2ラウンドを10対9と取ったものの、まだ2ポイントの差があった。

 3ラウンド。藤島はアウトボクシングに徹した。たまに繰り出すカウンターパンチでポイントを稼ぎ、最後まで逃げ切ってしまった。

 それで、試合判定は藤島の勝ちだったのだ。

「確かに、御子柴先輩は詰めが甘かったのかも知れない。でも、場内は藤島主将の卑怯な戦い方にブーイングだったでしょ」

「それは、そうだったかも」

「浦女実業は、あれで士気が上がりました。続く4番手、5番手を破って逆転勝利を収めたんですよ。浦女実業インターハイ3位は御子柴先輩のおかげです」

 あの時の熱狂をまざまざと思い出して、杏子は身体が熱くなった。だが、裏腹に心は冷めていく。

「まあ、どうでもいいわ。私は結局負けたのよ。いい試合だった、でも詰めが甘かったね・・・そういう人生なのよ、私は。あんたが羨ましくて、酒飲んで喧嘩して。仕事も無くした。ボクシングなんて、遠い昔のこと。全部なくしちゃったのよ」

 杏子はわざとサバサバした風を装って、静かに言い放つ。

 しばらくの沈黙があった。居酒屋の店主も何か言いたそうにしていたが、言わなかった。志津香は杏子から目を離さなかったが、やはり言葉を発しなかった。

 この間が重苦しく、杏子が絶えられなくなって、

「じゃあ。もう行くわ。さようなら」

 と言って、店を出ていこうとした。

「御子柴先輩。そりゃないですよ。私の憧れだったのに。私がここまで来たのは御子柴先輩のあの試合、あの左フックだったんですよ。放って行っちゃうんですか! 先輩は」

 志津香が半泣きしながら言った。

「そんなこと言わないでよ。私の高校時代の試合のおかげで、あんたはオリンピック候補にまでなったって言うの!? 違うでしょ。あなたの方が上なの、あなたは勝者よ! 一緒にしないで」

 捨て台詞を残して、杏子は川口を離れた。

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