第9話 事件

 杏子の身体が音もなく動き出した。素早く、しなやかに、そして力強く。杏子は身体を立ち上げる。と同時に右拳を男の顎に突き上げていた。音もなく、そして声もなく、男の身体は宙に浮いたように後方へ倒れていった。

 杏子は更に今消えた男の右側にいた、もうひとりの男の前に身体を移動させた。軽快なステップでわずかに2歩で男を射程に捉える。アッパーカットからの腕を素早く引き戻すと男の顔面を狙った。男が危ないとばかり、上体を右に動かす。

 右ストレートはフェイクだった。大きく身体を捻った杏子の左フックは男の横面を撃ち抜いた。出会いがしらだ。ゲスの連れはもんどり打って床に転がる。

 ふたりの男を沈めるのに一体何秒かかっただろうか。ものの2〜3秒のことだった。だが、それからのことは覚えていない。

 杏子が気が付いた時には、誰かに付き添われて警察署を出て行くところだったのだ。ただ、気が付きはしたものの、眠くて仕方なかった。それで車に乗せられると再び眠りに落ちてしまった。


 翌日目が覚めたのは昼過ぎだ。

「やば!」

はっとする杏子。慌ててジムへ電話を入れる。

「杏子か・・・」

三反薗の声が震えている。

「店長、す、すいません。すぐ行きますから。お客様に・・・」

「来なくていい!」

「え? でもレッスンが・・・」

「お前はクビだ!」

「そんな、どうして・・・? 私は組合員だし、簡単にはクビなんて・・・」

 杏子はもそもそと言うと、三反薗が勝ち誇ったように言い返してきた。

「警察沙汰を起こすようなやつは当然クビにできるからな!」

「警察沙汰・・・」

 ここでようやく昨夜の川口でのことを思い出した。あのチンピラふたりを殴ってしまった・・・。ボクサーなのに。いや、杏子はただのボクササイズ・インストラクターなんだが。

「どうしよう・・・」

「どうしようじゃない。今日はもう来なくていいから。後日私物を取りに来なさい」

 それで三反薗の電話が切れた。

 杏子は途方に暮れた。いったい何がどうなってるのか・・・。だが、昨晩のことがだんだんと明白になっていく。はっきりと記憶が蘇って来た。

「正当防衛だ・・・」

 そうだ、社長が抗弁してくれたんだ。

「社長が・・・?」

 杏子がふたりのチンピラを一撃で伸ばした後、店は大騒ぎになって警察が来た。それで杏子は川口警察署へ連行されて・・・。

「私は、とにかく酔っ払ってて、ろくな答えも出来ず・・・」

 そこへTSCの神木こうのき社長が現れて・・・。とにかくほっとしたことを覚えている。そうだ、お巡りさんも店の客から証言を得て。私があいつらに絡まれていたことも。そうだ、胸に、胸に水を流し込まれたんだ。

「それで、私は切れちゃったのか・・・」

「でも、社長が来てくれたってことは・・・私のクビも、社長が・・・ああ、どうしよう」

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