第3話 酔いどれインストラクター

 ある日の夜、と言ってもほぼ毎日のことなのだが・・・。杏子は行きつけのスナック躑躅つつじで大騒ぎしていた。

「ママ!ママ!あれ、私も欲しい!」

 杏子が別のテーブルの皿をみて、美咲ママに声を上げた。それは甘辛いタレの付いた手羽先だ。美咲ママが最近開発した新メニューである。

「杏子ちゃん、食べれるの? もう随分頼んでるわよ」

 美咲ママは隣で黙々と酒を作っているバーテンダーの顔を覗き込みながら杏子に言った。バーテンダーは何も言わない。

「食べる! 食べる! 問題なし!」

と杏子。

 すると誰かが入れたカラオケの曲が鳴り出す。

「あ〜、これ。私が歌う!」

 そう言って杏子がカウンターの上に置いてあったマイクを取ろうとした。

「だめですよ。これはあちらのお客さんのだからね」

「いい。私が歌う!中森明菜、得意!」

杏子は腕を伸ばしてマイクを奪おうとした。その手をバーテンダーがピシャリと叩いた。

「痛! 何すんのよう」

バーテンダーに絡む杏子。

「止めなさい。店の邪魔をしない。営業妨害だよ」

バーテンダーは杏子に顔を近づけるとドスの効いた声で注意した。その声にシュンとなる杏子。

 結局この日も杏子は躑躅のカンバンまで粘り、周囲の客に愛嬌と迷惑を振りまいて騒いでいた。先日入れた焼酎のボトルが半分空いた。

 そして客が全部引けて片付けを始めた店内で杏子はひとりテーブルに突っ伏して眠っている。

「杏子さん。帰りますよ」

佐山が杏子の腕を掴んだ。

「やだ、中森明菜・・・!」

杏子が呟いたが、既に酒に飲まれている。

「飲み過ぎだぞ。毎晩毎晩、そんなことしてて・・・」

佐山はその次の言葉を飲み込んだ。身体に悪いに決まっている。

「さ、帰ろう。行くよ」

 無理矢理立たされた杏子は、佐山にもたれ掛かりながら店を出た。

 赤羽の繁華街を抜けると住宅街が広がっている。その一角にある軽量鉄骨のマンション、そこが御子柴杏子と佐山真二の住まいだった。但し、先月までである。

 佐山真二は脱サラして、躑躅でバーテンダーとして働いている。将来は自分の店を持つことが夢だ。その夢を実現するために杏子との同棲を解消し、今は王子権現の近くにひとりで住んでいた。

 足がもつれだした杏子を佐山は抱え上げると、ベッドへ運んだ。

「じゃあ、俺は帰るぞ」

すると杏子が佐山の手を掴んで、頬を寄せる。

「帰っちゃやだ・・・」

 杏子はそう言うととろんとした目を向ける。だが、佐山は、

「俺は自分の家に帰る。杏子さんとの同棲は解消しました」

そう答えると、手を引き上げてしまった。

「なんで? いいじゃない。別に喧嘩したわけじゃないのに・・・」

「夢のためだよ」

佐山は諭すように答える。

「夢なんて・・・、夢なんて・・・」

「努力しなくちゃ、かなわない。絶対に」

「それがどうして、同棲解消なの? ふたりで居た方が経済的じゃないの?」

杏子が言い募る。

「杏子さんと遊んでいるうちは良かったんだけどさ。夢が出来たから。昼間仕事するにはあっちの方が便利なんだって、言ったよね」

 杏子は黙って頷く。それは知っている、知っているけど・・・。

「最近全然泊まっていってくれない」

「まあね・・・」

 佐山ははっきりと答えないまま、手を引き、身を引いた。そして玄関を出て行った。杏子は泣きながら眠り込んでしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る