第3話:運命のトリガー

 会議室の空気は澱み濁り、狂気的様相を呈していた。煙草の煙と怒号が同じ速度で上昇し、灰皿は小高い山を築き上げている。


 山田は烏合の衆の叫びに口角を緩め、何人かに目を配った。顔を伏せる者、狼狽する者、その配置は全て山田の目論見通りの状況であった。先日の「注意喚起」が功を奏したようだ。山田は満足感と共に紫煙を吐くと、積み上がった山に煙草を追加した。

 新しい灰皿を持った若造が鼠のようにせかせかと、この喧騒の間を縫う様に立ち回り、各机の山を片付けていく。


 三浦は部屋の隅に立ち、ただその光景を見ていた。


 怒鳴り合う声は内容を失い、もはや「音量の競争」だけが空間を支配している。拳で机を叩く音、椅子を蹴り飛ばす音、誰かの意思というより空間の癇癪そのもの。それは会議というより、獣同士の縄張り争いである。


 その中に、突出して場違いな男が三浦の視界に入った。中肉中背。冴えないスーツ。地味で、目立たず、場に溶けて消滅しそうな男。

 叫び続ける獣たちとは対照的であった。


 名を田中。


 手元の名簿に目をやると、佐々木とは敵対する陣営の若い男。灰皿の転倒音に肩を跳ねさせ、書類をめくる指は落ち着かない。極限の緊張を抱えた常人の姿。

 その姿は三浦を安堵させた。平凡な人間がいる事実により、空間に満ちる暴力の濃度がわずかに低下する。

 三浦は同情しながらも、自身に近しい存在の確認はこの世界を少しだけ暖かくさせた。

 その時だ。


一斗缶が飛んだ。


 投射元は、三浦の観測範囲外。

 怒号と紫煙の渦の中、突如として視界の端を銀の光が横切る。放物線を描いた一斗缶は「メキ」という接触音と共に、頭部へ着弾した。


 三浦は息を呑んだ。


 それはあの地味で冴えない田中の後頭部への着弾。椅子に座した状態の目視できぬ背後からの一撃である。

 次の瞬間、頭蓋骨を共振させるような衝撃音が室内に拡大した。



それはとてもステキな音だった。


 

 テーブルごと倒れ込んだ田中は、頭部をさすり、前方に飛散した眼鏡を再装着すると、緩慢な動きで立ち上がった。三浦は見た。一瞬の反射光によりレンズへ異質な情景が映り込んだのだ。


 田中は直立後、身体を小刻みに揺らした。声を発する者は誰一人としていなかった。

 それは、田中が立ち上がる光景があまりにも神々しかったからだ。


 田中の瞳が、ゆっくり持ち上がる。

 世界の音が止まった。


******

田中はアカシックレコードにアクセスした。

******


 その顔を見た瞬間、三浦の背筋を氷柱でなぞられたような悪寒が走った。田中の瞳に恐怖、怒り、痛みの感情的な要素は観測できない。ただ異様な静寂。


 それは理解でも混乱でもない超越した言語化不可能な空白。


 田中は直立したまま、虚空を凝視していた。それは周囲に他者が存在しないかのような振る舞い。


 三浦は直前の会議室の怒号を、遠くのことのように感じられた。現実が遠ざかり、田中のみが異常な鮮明度である。それは三浦の主観的感覚か、あるいは田中の内部の変化なのか。


 田中の視線が空間を一周し、三浦の位置へゆっくり移動した。三浦の肌は泡立ち尖った。視線が交差した瞬間、脳が灼けるような高熱の感覚が奔ったのだ。それは日常の延長線上に配置されない世界の疾走であった。


 田中はその後、何事もなかったかのように書類へ視線を復帰させ、静まり返った世界はすぐにまた荒れ狂う喧騒の会議室へと戻った。三浦はこの現実味のない状況に困惑していた。そしてチラリと山田の存在を視界の端に捉えた。


 山田は山盛りの灰皿に灰を落としながら、事態を冷静に見極めようと観測していた。喧騒が回復したことにより、イレギュラーは発生したが今回の議会は目論見通りである。あの不可解な現象は何であるか。

 田中。聞いたこともない若造。年齢は草津と同じぐらいか。


 山田は懸念を偽装し、田中と同じ陣営の人物へ情報収集の為接触した。若い人の負傷を案じるという穏便な会話で田中のことを聞き出そうとしたのだ。


 山田は喉元に不可視の刃物を突きつけられているような冷たさを体感した。田中の名を口にした瞬間、対話者の血走った眼球は白く濁り、言語の順序を忘れ、唾液だけが言葉の代わりに溢れたのだ。生理的な異常を呈している。それは二人目も三人目も同様。涎を垂らし、口角を歪めるのみ。一体何が起きているのか。

 咥え煙草の煙が僅かに視界の解像度を下げる。右手の指が左の袖口を捲り、戻す。今は正確な時を刻む勲章が無いことを、山田は失念していた。


 山田が左手首から視線を田中に向けると、地味な男が書類を閲覧している状態にしか見えなかった。


 異常な気配を感じ、山田は視線を変える。

 

 草津が驚愕の表情を制御できず、田中を凝視していた。擦り潰される者の恐怖の顔貌ではない。


 しかしそれは何かに対する恐怖を隠しきれていない怯えが存在していた。

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