第2話:可愛がり
三浦は思わず視線を逸らした。
草津は息を呑んだまま固まり、動きを止めた。
山田は表情を変えぬまま、脊梁に凍てつく緊張を奔らせた。
音が消えたスローモーション。
ビー玉か石ころでも掴んだかのように魔人の手が開かれる。
カラン。
小料理屋個室に乾いた金属音が穿った。
その音は焼酎グラスの底に放り込まれたロレックス。秒針が、グラスの中で律儀に歩を進める。
その歩みが僅かに静寂の中に歪んだ時を刻む。
魔人の皺深い手がとくとくと、独特の音を鳴らしながら、無色透明の焼酎をグラスに注ぐ。
焼酎の器に焼酎を入れるのは道理、ここにロレックスの焼酎漬けが完成した。
三浦が視線を離脱させた先の窓からは、夜の闇と同化したドブ川が、通りすがるタクシーの光跡を反射する。腐敗による気体が揺洩する水面は、変わらず緩慢な振動を続けている。
魔人佐々木が山田を見据えた。
悲劇はその佐々木が「見せろ」と山田に命じたことから始まった。
それは小一時間前のこと。
数日後に控えたバイパス利権に関する会議、その首尾の経過報告を兼ね、打ち合わせに本日密室の小料理屋にて山田は部下の三浦を伴い佐々木の元を訪れていた。
佐々木。
壁に染みを作るかのような禍々しい空気を震わせ、時間経過で血管が縮んでいくような錯覚を覚える異質な存在。
三浦は、小洒落た料理屋の雰囲気に頬を上げ、出迎えた青年ーー草津の爽やかな雰囲気に、ここ数日の山田の随行で磨り減った精神の疲れを少しだけ忘れた。
美人女将の愛嬌が和やかな会食と豪華な食事の期待を持たせ、二階への階段を軽くさせる。電灯の光を反射するワックス塗りの床に、三浦は朝日を反射する水面を歩いているような感銘を受けた。
が、襖を開けた瞬間、来るべきでは無かったと奈落の底に落とされた。佐々木の眼光が三浦の骨まで射抜いたのだ。
この場からの逃避を絶望しつつ、山田の影に隠れるように座った三浦であったが、終始、存在感の隠蔽に必死であった。
山田は通常通りの平静さで佐々木に経過報告たる悪行の数々を並べた。その一つ一つが三浦を共犯者であると定義しているようであった。爽やかな草津の顔面にも怪訝さが露呈し、この個室内に別の時空のような歪みが漂う。
戦中戦後の混沌を暴力と叡智だけで生き抜き、異常な圧を醸し出す魔人佐々木は低い声で短く応答するばかりであった。
そして、山田が口に咥えた煙草に火をつけようとした時、悲劇の幕は開いたのだ。
泥濘から成り上がった獣の眼が黄金クラウンの光を獲物だと認識した。
三浦は随分と左手首が軽くなった山田の顔を視界に収めた。この異常事態に当の本人は顔色一つ変えずに対応をしている。しかし、スーツの下の心臓だけは既に限界に近かった。
この佐々木の行為が意味するところは、「これ以上の獲得」という権威者からの屈辱的な叱咤であると、山田は理ことわりをもって判断していた。いや、判断するより他なかった。
この時、感情を面おもてに出さないほどには、山田は歴戦の猛者である。
だが、その冷静沈着な猛者の内側では、心臓が限界を越え本日最も速い鼓動を打っている。
老いてなお絶対的な眼力を持つ佐々木は、ただの時計を「権威という名の檻」へと変容させる。
これは、怒りでも、恐怖でもない。
これは、この男が定める「世界のルール」そのものなのだ。
山田はグラスを掴んだ。震えはしない。ただ、理不尽さを、喉の奥深く飲み干すのみ。
三浦は、この屈辱的な「可愛がり」を意識が遠のくような状態に陥りながら眺めていた。グニャリと視界が歪むほど、この部屋の緊張は極限まで高かったのだろう。
草津に至っては開口したまま傍観するしかなかった。
山田は歯に当たった金属の感触と共に妙な既視感を覚えた。
いや、佐々木絡みの修羅場は何度も経験している。過去にも似たようなことがあったのだろう。
飲み干すのだ、何もかも、今は…
女将の見送りを辞し、店の前で山田はタクシーに向かって緩慢に左手を上げる。
向かってくるヘッドライトの光が暗闇に紛れた三つの影を薄く引き伸ばす。店から出てきた三人の影が、そのまま消えることのないアスファルトの染みになってしまいそうだと、山田の随分と軽くなり輝きを失った左手首を見ながら、三浦は身震いした。
タクシーに乗り込む三名は誰もが沈黙していた。濃密すぎる時間が過ぎ去った安堵と、犠牲になった山田の勲章。言葉は不要なのである。
タクシーのライトがドブ川を照らすと、一瞬、硬質な光がこちらを突き刺した。
それは浮遊する一斗缶に当たった反射光であった。
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