アカシック・ロード
@janpon
第1話:ドブ川と一斗缶
ドブ川に浮遊する一斗缶が夕陽を反射し、硬質な光を目に突き刺してくる。腐敗した気泡が不規則な揺れを作り、まるで何かの信号のようである。
その揺れる一斗缶をぼんやりと眺めながら、三浦は橋の欄干に体を預け、紫煙を上空に飛ばしていた。車両の通過音に紛れながら黄色い声が通り過ぎていく。
風に乗る香水の芳香が定時を過ぎたことを伝える。指にテーピングを巻いた彼女達は、電子部品工場からの帰路に就いていた。
三浦は二本目の煙草に火をつける。ソフトケース内の残数を、薄汚れた袖口を剥き出しにしながら数えていると、視界の端で山田の人影を捕捉した。
慌てて三浦は煙草をドブ川に投げ捨てた。それは吸い込まれるように水面に飲み込まれ、汚泥の一部へと成り果てる。一斗缶は沈んだのか、流れ去ったのか、もうすでに消えていた。
山田は三浦の眼前に一枚の書類を差し出すと、顎先をドブ川脇の工事現場へと向けた。その意味を理解した三浦は、胃の腑にドブ川の水が流れ込んだような感覚に襲われ、それは即座に頬を痙攣させるほど表情筋を固くさせ、血の気を引かせる。
満足気に山田は口角を歪ませ、胸のポケットを探った。風除けを手で作り、マッチで煙草に点火しようとしたその仕草に、袖口から黄金クラウンの機械式時計ロレックスが露呈する。時を刻むその輝きは、競争社会を登り詰めた山田の絶対的な優位性を誇示していた。
山田は無造作に手を握りしめ紙を丸めると、紫煙と共にドブ川に投棄した。
ドブ川は用済みとなった残骸の終着地点。
かつての清涼な流れは人々の欲望と廃液で黒く飽和し、今も土管の口から溢れ出る生活排水がドブ川を満たしていた。
三浦はそのドブ川に飲み込まれる紙から目を逸らすように上空に向けた。それが持つ意味に視線を向けられなかったのだ。
上空にはこれから立ち上がるビルディング。そのタワークレーンが夕日に染まり見下ろすように威圧を放っている。
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時は高度経済成長期、狂熱の時代である。
経済の爆発的発展は、膨大なる富を創出し、次いで到来する泡沫の絶頂――バブルへのインフレーションの真っ只中。
この狂気を伴う上昇気流は、苛烈なる嵐の如く、社会の最弱者に容赦なき犠牲を強要した。権威と資本を握る者たちは、その犠牲こそ発展のための許容コストであると冷徹に容認する事態であった。
その嵐の中で、三浦のような男達は押し流される存在。抗えぬ時代に飲まれ辿り着くのはドブ川か、それとも…
日本列島という巨大な龍は、急激に膨張する躯体に生命線たる血流が追従せぬと悲鳴を上げていた。
即ち、動脈硬化を起こした 物流の停滞は国家にとって由々しき問題であると同時に、成長痛の悲鳴でもあった。それは、市場の精神が陥った内部破裂にも似た、悦楽を伴うマゾヒスティックな悲鳴である。
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