第十一章(現在)

【1】

【3月31日】

 昼過ぎの電車は、思っていたより空いていた。

 窓際の席に座った人たちは、それぞれスマホを眺めたり、目を閉じたりしている。

 列車の走行音だけが、一定のリズムで車内を満たしていた。

 鳴海と睦歩は、並んで座っている。

 車窓の外には、もう緑が多い。低い建物と、畑の名残みたいな空き地。遠くには、山の輪郭がぼんやりと重なって見える。山の上の方は、まだ雪が残っているのか白かった。

 いつの間にか、街を抜けていた。

 さっきまでは、駅も建物も、人の流れも、どこか見覚えのあるものばかりだった。

 けれど今は違う。

 景色が、明らかに変わっている。

 二月の終わりに、あの夜があって。

 そこから今日まで、ほぼ一ヶ月。

 高校一年の冬が終わり、春休みに入った。

 暦だけ見れば、区切りのいい時期だ。

 けれど鳴海にとってこの一ヶ月は、ずっと同じところを行き来しているような時間だった。

 行くべきか。

 行かなくていい理由はないのに、行けない理由ばかりが浮かぶ。

 その思考を、何度も繰り返してきた。


—それでも、今日はここまで来ている。


 行く、と決めた。

 決めたはずだった。

 なのに、胸の奥が、まだ落ち着かない。

 鳴海は、スマホを取り出して路線図を確認した。

 何度も見たはずの表示なのに、指が止まる。

「…もう、乗り換えないよな?」

 独り言みたいな声だった。

「うん。あとはこのまま」

 睦歩は、即答した。

「次の次が、降りる駅」

 その言い方が、妙に現実的で、鳴海は一瞬だけ、視線を窓の外に逃がした。

 睦歩は、特別な顔をしていない。

 今日が何の日か、分かっていないわけじゃないはずなのに。

 普段と変わらない調子で、隣に座っている。

 鳴海は、流れていく景色を追う。

 けれど視線は、どこにも落ち着かなかった。

 思えば昔からそうだった。

 大事な日の朝に限って、気持ちだけが少し遅れる。

 予定は確実に進んでいるのに、自分だけが、まだその場に取り残されている。

 そんな感覚が、胸の奥に残っていた。

 どうして行くと決めたのか。

 理由はいくつも思い浮かぶ。

 でも、どれも決定打にはならない。

 ただ一つ、はっきりしているのは—

 あの夜、ライと美咲が向き合っていた光景が、頭から離れなかったことだ。

 間違っていたと分かっていても、それでも同じ場所に立とうとしていた姿が。

 成果のことを考えると、なぜか今のライの顔が重なった。

 自分は、何かをしてあげたわけじゃない。

 自殺を止めたと言えなくもないが、本当の問題はそのはるか先にあった。

 正しい言葉をかけられた自信もない。

 あの夜も、その前も、鳴海はそこにいただけだった。


—これで、よかったのか。


 そんな問いが浮かんでは、答えが出る前に、霧みたいに消えていく。

 確信には、まだ遠い。

「あ、そうだ」

 睦歩が、窓の外を見たまま言った。

「駅の中に、サーティワンあるよ」

「…なんで今それを言うんだよ」

「だってさ」

 少しだけ、声のトーンが軽くなる。

「今日はアイスの日でしょ?」

 鳴海は、思わず小さく息を吐いた。

「…まあ、そうだけど」

「じゃ、決まりね」

 軽い調子だった。それに鳴海は助けられた。

 覚悟は、もう少し先でいい。

 今はただ、知らない景色の中を、電車に揺られていればいい。

 行くと決めた。

 でも、行けるかどうかは、まだ分からない。

 その距離感のまま、

 電車は、次の駅へ向かって走り続けていた。



 改札を抜けると、駅構内の一角がやけに明るかった。

 甘い匂いがして、鳴海は無意識にそちらを見る。

 サーティワンだ。

「ほら、あったでしょ」

 睦歩が、当たり前みたいな顔で言う。

 ショーケースの中には、色とりどりのアイスが並んでいた。

 久しぶりに見る光景だった。

 列に並びながら、睦歩が前を向いたまま言う。

「着いてからさ、三人で食べようね」

 鳴海は、一瞬だけ言葉に詰まる。

「…三人?」

「うん」

 睦歩は、何でもないことのように頷いた。

「成果さんも一緒に」

 その言い方に、反論する余地はなかった。

 鳴海は、小さく息を吐いてから言う。

「…じゃあ」

 注文の順番が来る。

「ポッピングシャワーを一つ」

 言い切ると、睦歩がすぐに反応した。

「あ、それ好きって言ってたよね」

「うん、いつもこれだった」

 鳴海は短く頷く。

 成果といえば、その味だった。

「鳴海は何にするの?」

 続いて、自分の分を選ぶ。

 鳴海は、ほとんど反射みたいに口を開きかけた。

「俺も同じのを…」

 言いかけて、止まる。

 ほんの一瞬だった。

 頭の中で引っかかるものがあった。


『三人で食べようね』


 さっき睦歩が言った言葉が、遅れて胸の奥に落ちてくる。

 いつものアイスの日。

 いつもの償いの味。

 何も考えず、同じものを頼んで、向き合った“つもり”になる…それを、今日も繰り返していいのか?

 鳴海は、ショーケースの中を見る。いつも一種類しか見てなかったので、ちゃんと中を覗くのは久々だった。

 ケースの中では、色とりどりのアイスがキラキラと輝いていた。こんなに種類が多かったのかと、今さら驚いく。

 重なり合った色の向こうで、不意に、一番楽しかった頃の光景がよみがえる。

 二人で並んで、笑って、何も考えず―

 当たり前のように過ごしていた時間。


―ただのチョコレート?


 ううん、違うよ。

 あの時食べてたのは―

「…チョップドチョコレートをください」

 言葉にした瞬間、胸の奥で、確かに何かが動いた。

 選んだ、という感覚。

 今までほとんど使ってこなかった力を、久しぶりに使ったみたいだった。

 戻れるとは思っていない。

 でも、あのときと同じ場所に立ちたい。

「じゃあ、あたしは…」

 睦歩が、何のためらいもなく言う。

「ストロベリーチーズケーキと、抹茶。ダブルで」

「…え」

 鳴海は思わず声を出していた。

「ダブル!?」

「うん」

 睦歩はきょとんとした顔をしてから、すぐに肩をすくめる。

「だって、両方食べたかったもん」

 鳴海は、手元のメニューを見下ろす。

 最初から、ダブルなんて選択肢は頭になかった。

 好きな味を、一つだけ。

 選択を間違えないように。

 枠の中で。


―そんなふうに、ずっと生きてきたのかもしれない


 店員が手際よくカップを包み、保冷剤を添えて箱に入れていく。

「溶けないように、多めに入れておきますね」

「ありがとうございます」

 睦歩がそう返して、袋を受け取った。

 鳴海は、それを見てから言う。

「…ちゃんと、保つかな」

「大丈夫でしょ。まだそんな暖かくないし」

 睦歩は袋の口をきゅっと閉じる。

 鳴海は、その中に入れられた自分のアイスに思いを馳せる。

 昔と同じ味―

 今日は、これまでとは少し違う。

「じゃ、行こっか」

 睦歩がそう言って歩き出す。

 鳴海は、その隣に並んだ。

 袋の中のアイスは、まだ冷たい。




【2】

 駅を出たあたりから、鳴海の様子は少しずつ変わっていた。睦歩はそれを、隣で敏感に感じ取っていた。

 会話のテンポが遅くなり、相槌が返ってこない。

 歩幅が合わず、気づいたら彼だけ後ろにいる。

 視線が前ではなく、足元に落ちる時間が増える。

 さっきまでは、普通に話せていたのに…。

 二人がバスターミナルに着く頃には、鳴海はほとんど喋らなくなっていた。

 頭上の行き先表示を見上げたまま、じっと動かない。

 周囲の人の流れだけが、いつも通りに進んでいく。

 ふと、彼の額に脂汗が滲んでいるのに気づいた。

「鳴海…ちょっと休もうか?」

 彼は吐息交じりに頷くと、そのままトイレに入っていった。

 睦歩は、何も言わずに後を追った。

 少し離れた場所で、行き交う人の流れを眺めながら待つ。

 視線は何度も、トイレの方に向いていた。その表情には、隠しきれない不安の色が浮かんでいた。

 しばらくして、鳴海はトイレから出てきた。

 しかし顔色は、変わらず悪かった。むしろ先ほどよりひどくなっている気さえした。

 数歩進んだところで、彼はフラフラと壁にもたれかかってしまった。

「鳴海!大丈夫…!?」

 睦歩はすぐに駆け寄り、背中をさすった。

 鳴海は答えなかった。

 呼吸が早く、浅かった。

「…ごめん」

 ほとんど言葉にならない声で、鳴海は言った。



 身体が、昔の頃に戻ったみたいだった。

 喘息で咳き込んでいた、あの頃みたいに。

 息が苦しい。

 呼吸ができない。

 胸が、今にも潰れてしまいそうだった。


―あぁ、やっぱりダメなんだ…


 そんな考えが、頭によぎる。

 今日は、何かを変えられるかもしれないと思っていた。

 でも、結局自分は自分のままだった。

 電車に乗ったくらいで、

 アイスの味を変えたくらいで、

 たったそれだけのことで、何かを変えることなんてできるはずなかった。


―終わらない償い


 これからも、俺は俺のままだ。

 変わろうなんて、思っちゃいけなかった。

 この6年間、ずっとそうしてきただろうが。

 それを決めるのは…決めていいのは…


 そのとき、鳴海のポケットの中でスマホが震えた。

 最初は、気づかないふりをしようとした。

 でも、もう一度震えて、鳴海はゆっくり取り出す。

 画面に表示された名前を見て、全身に悪寒が走った。

 それは、ライからのLINEだった。

 脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。

 また、何かあったんじゃ…

 指先が、わずかに震える。

 覚悟するように、鳴海は画面を開いた。



『部屋にゴキブリくんが出た!!!』



 その下には、『ガビ~ン』というスタンプが添えられていた。

「…最悪のタイミングすぎるだろ」

 鳴海は、思わず吹き出した。

 笑いを堪えきれず、鳴海は画面を睦歩に見せる。

「美咲さん、掃除サボったのかな」

 自分でも分かるくらい、間の抜けた声だった。

 睦歩は一瞬きょとんとしたあと、同じように吹き出した。

「あの子ったら…今日に限ってそれ送る?」

 肩の力が、すとんと抜ける。

 鳴海は、もう一度画面を見る。

 大した用事じゃない。

 緊急でもない。

 …ライにとっては、大ごとだっただろうけど。

 確かに“今”のライがそこにいる。

 生きて、困って、騒いでいる。

 鳴海は、ゆっくり立ち上がった。

「…ごめん」

 今度は、ちゃんと声が出た。

「少し…楽になった」

 睦歩は、何も聞かなかった。

 ただ、ほっとしたように息を吐く。

「バス、まだ間に合うよ」

 その言葉に、鳴海は強く頷いた。

 気づいたら、深く息を吸えるようになっていた。

 終わらない償いがあったとしても、

 それが事実だったとしても、

 今日ここに来ていることまで、否定する理由はない。

 少なくとも、今は立っていられる。

 バスが、ロータリーに滑り込んでくる。

 扉が開く音が、やけに大きく聞こえた。

 鳴海は、一歩、踏み出した。



 成果のお墓がある霊園は、バスで30分ほど街の郊外へ行ったところにあった。

 バスが市内から遠ざかるにつれて、街の景色も変わっていった。商業施設の立ち並ぶ街の中心部から昔ながらの住宅が並ぶ景色へと変わるのに、そう時間はかからなかった。

 車内には次のバス停のアナウンスとともに、地元の企業の宣伝文句が流れている。どれも知らない名前だった。

「着いたよ」

 そのバス停で降りたのは二人だけだった。

 降りた瞬間、空気が少しだけ変わるのを感じた。

 音が減った。というより、遠くなった気がした。

 車の走る音も、人の声も、なにか一枚幕を挟んだ向こうにある気がした。

 霊園の入口は、思っていたよりも普通だった。

 立派な門があるわけでもなく、案内板がぽつんと立っているだけ。

 春先の風が、低い木々の間を抜けていく。

 鳴海は、無意識に歩調を落としていた。

 ここまで来る間、何度も想像していたはずなのに、実際に目の前にすると、頭がうまく追いつかない。

 案内板で区画番号を確認して、砂利の道を進む。

 墓石が規則正しく並んでいて、どれも同じに見えた。

 誰かの名前。

 誰かの人生。

 どれも、今は静かにそこにある。


—あった


 不意に、視界の端で、動きが止まった。

 探していたはずなのに、見つけた、という実感はなかった。

 そこに、「月森家ノ墓」と彫られた墓石があった。

 鳴海は、足を止めた。

 胸が締めつけられるような感覚は、まだ来ない。代わりに、妙な空白が広がっていく。

 ここまで来たのに。

 来てしまったのに。

 何を思えばいいのか、分からなかった。

 睦歩が、鳴海の隣に立った。

 言葉はかけなかった。

 ほんの少しだけ、距離を詰める。

 隣の手に指先が触れた。

 握るほどではない。

 離すほど遠くもない。

 ただ、触れ合ったまま、そこにいた。

 鳴海は、深く息を吸おうとして、途中でやめた。

 胸の奥で、何かが軋む。


—まだ、だめだ


 一歩、踏み出そうとして、止まる。

 足が、地面に貼りついたみたいに動かなかった。

 睦歩は、何も言わない。

 指先の感触だけが、変わらずそこにあった。

 鳴海は、視線を墓石から外せずに、

 その場に立ち尽くしていた。




【3】

 睦歩が「そうだ、アイス」と思い出したように言ったので、二人は袋から箱を取り出した。ほぼ原色の派手な箱が、明らかにその場から浮いていた。

 保冷剤のおかげで、アイスはまだ固形のままだった。

「これが、成果の分」

 鳴海は墓前に、そっとアイスカップを置いた。

 二人も墓石に並んで対面し、それぞれのカップを手に取った。睦歩の頼んだダブルのアイスは、上側がカップから大きくはみ出していた。

「食べ終わったら、お墓掃除しようね」

「そうだな」

 そんなやり取りのあと、会話は長続きしなかった。

 ここで話すべき話題には、どちらからも中々踏み出すことができないでいる。

「あの時の俺って、どんなだった?」

 しばらくの沈黙のあと、鳴海が切り出した。目線はずっと、前を向いていた。

「…あたしに聞いてるよね?」

「他にいないだろ?」

「いや…お墓を前にしてセンチメンタルに語り出したのかと…」

「そんな恥ずかしいことしないって」

「そう。…どんなって?」

「ウザかった?小5の時の俺」

「はあ?なに急に」

「正直に言えよ」

 鳴海はスプーンでアイスを掬う。

「…まあ、ちょっと」

「だよなー…俺もそう思う」

「だって毎日成果さんのことばっか話すんだもん。アンタ興奮すると話すのヘタになるし」

「興奮…してたか」

「してたしてた、めっちゃ前のめりで」

 そう言って睦歩が横を見ると、鳴海はしゃがんだまま首をガクンと下におろしていた。

 彼の傷口を抉ってしまったことに気づく。

「俺さあ…、めっちゃ楽しかったんだ」

 鳴海は、スプーンを動かす手を止めたまま言った。

「成果と会うようになってから、毎日放課後が楽しみで。嫌いだった学校も、頑張れた」

 一息ついて、続ける。

「全部、成果のおかげだった」

  視線は、墓石の方を向かない。

「…でもあの日、成果を、すごく遠くに感じた。親とか高校の友達とか、たくさんの人に囲まれてる成果を見て…急に、怖くなった」

 笑おうとして、失敗する。

「勝手にさ、俺も成果を支えてる気になってて。一番近い存在だって、思い込んでたんだと思う」

 声が、少しだけ低くなる。

「それが違うかもしれないって思ったら…認めたくなくて」

 鳴海は、手にしたアイスを見る。

「だから、今もこうしてアイス食べて」

 小さく息を吐く。

「思い出だけ触って…向き合った“つもり”で」

 鳴海は、それ以上言葉を続けなかった。

 少しの沈黙が落ちた。

 風が墓地の中を抜けていく音だけが聞こえる。

「…遠くに感じた感覚、分かるよ」

 睦歩が、ぽつりと言った。

 鳴海の方は見ない。墓石の向こう、同じ方向を向いたまま。

「成果さんさ、ホントみんなに愛されてた」

 スプーンでアイスを一口掬いながら、続ける。

「友だちも多かったし、親戚の人も、先生みたいな人まで」

 鳴海は何も言わなかった。

 否定も肯定もできないまま、ただ聞いている。

「私ね」

 睦歩は少しだけ間を置いた。

「二日目のお葬式も行ったんだ」

 鳴海の指先が、わずかに止まった。

「そのときね、少しその人たちと話したの。成果さんについて」

 小さく息を吐く。

「みんな口を揃えて言うの。優等生だけどちょっと抜けてるとか、意外とわがままだったとか、面倒なことは後回しにするタイプだったとか」

 鳴海は、思わず眉をひそめた。

「…それ、本当か?」

「本当に。最初、あたしもびっくりしたよ」

 少しだけ、苦笑する。

「あたしね、成果さんのこと完璧な人だと思ってた」

 鳴海は、返事をしなかった。

 否定しなかった、ということだけが答えだった。

「でもね、そうじゃなかった」

 睦歩は、アイスのカップを見下ろす。

「弱いところもあったし、至らないところもあった。それに多分…寂しがりだったと思う」

 それから、静かに続けた。

「それを知ったとき、少しだけ楽になった」

 鳴海は、ゆっくりと視線を落とした。

「だからさ」

 睦歩は、言葉を選ぶように、慎重に言う。

「今日のことも、無理に意味付けなくていいと思うんだ」

 強制でも、説得でもない声音だった。

「向き合えたとか、向き合えてないとか、そういうの、今は決めなくていい」

 少し間を置いて、続ける。

「…今日はさ、こうやって話せただけで、十分なんじゃない?」

 鳴海は、答えなかった。

 けれど、スプーンを握る手に、さっきより力が入っていた。

 それを見て、睦歩はそれ以上何も言わなかった。

 今日は、ここまで。

 そう決めたみたいに。




 アイスを食べ終えた後、二人は黙々と墓石を洗った。

 水をかけ、布で拭き、花の位置を整える。

 やるべきことを一つずつ終えていくうちに、さっきまで張りつめていた空気が、少しずつ緩んでいった。

 手を合わせるときも、鳴海は言葉を口にしなかった。

 ただ、目を閉じて、深く頭を下げる。

 それだけで、今は十分だった。

「行こっか」

 睦歩がそう言って歩き出し、鳴海もその後に続く。

 来た道を引き返すとき、霊園の空気は行きよりも静かに感じられた。

 出口が見えてきた、そのときだった。

「あ…」

 向こうから歩いてくる一人の女性が、二人の前で足を止めた。

 一瞬、迷うように視線を彷徨わせてから、ゆっくりと口を開く。

「…鳴海くん? それに、睦歩ちゃん?」

 鳴海は、言葉を失った。

 記憶の中の面影と、目の前の現実が、うまく重ならない。

「…成果の、お母さん…」

 女性は、ハッとしたように目を見開いたあと、小さく息を吸った。

「…まあ」

 一拍置いてから、信じられないものを見るみたいに続ける。

「こんなところで会うなんて…」

 視線が、二人の間を行き来する。

 そして、ゆっくりと微笑んだ。

「来てくれたのね、ありがとう」

 それだけ言って、深く頭を下げる。

 鳴海は慌てて首を振った。

「いえ…その…」

 言葉が続かない。

 母親は、そんな鳴海の様子を見て、少し考えるように視線を落とした。

「…あの」

 控えめに、けれどはっきりと言う。

「少し、時間あるかしら」

 霊園の出口の方へ、そっと視線を向ける。

「実はね、渡したいものがあるの」

「ここで立ち話をするより…うち、すぐそこだから」

 一瞬、迷うような間があった。

 それから、付け足すように。

「無理にじゃなくていいのよ」

 断る理由は、なかった。

 三人は並んで歩き出した。

 道すがら、母親はぽつぽつと話した。

 今日が命日であること。

 いつもこの時間帯に来ることが多いこと。

 特別なことは、何も語らなかった。

 家の前に着いたところで、母親は足を止めた。

 玄関の方を一度だけ振り返り、それから二人に向き直る。

 お母さんは、家に上がって、とは言わなかった。

 睦歩には、鳴海を気遣ってあえて言わなかったように思えた。

 それから「ちょっと待ってて」と言って、家の中に入っていく。

 玄関の扉が静かに閉まった。

 数分もしないうちに、母親は戻ってきた。

 手には、小さな封筒を一通持っている。

 白くて、何の飾りもない封筒だった。

「これね」

 差し出しながら、ぽつりと言う。

「成果から…あなたとお出かけした次の日に預かったの」

 鳴海の胸が、小さく跳ねた。

「“鳴海くんが、私より年上になったら渡して”って」

 少し困ったように笑う。

「それまでは絶対に渡しちゃだめ、って念を押されたわ」

 封筒を持つ指先に、わずかに力がこもる。

「だからね、ずっと持っていたの。でもあなたの誕生日も分からなかったから…新年度に入ったら、送ろうと思ってた」

 視線を上げ、鳴海を見る。

「でも、今日ここで会って」

 一拍置いて、静かに続けた。

「あなたの顔を見て…もう、いいのかなって思ったの」

 封筒を、両手で差し出す。

「無理に、今すぐ読まなくてもいいわ」

 でも、と付け足す。

「これは…あなたのものだから」

 鳴海は、しばらく動けなかった。

 手紙を受け取ることが、何か決定的な一線を越える気がして。

 それでも、ゆっくりと手を伸ばす。

「…ありがとうございます」

 声は、震えていなかった。

 母親は、ほっとしたように息を吐く。

 鳴海は、封筒を握りしめる。

 まだ、開けることはできない。

 それを持っているだけで、胸の奥が、少しだけ重くなった。

 ここまでバスで来たと話すと、成果の母は「駅まで送る」と言った。

 鳴海と睦歩は、そのまま車に乗せてもらうことにした。

 車の中では、ほとんど会話はなかった。

 ラジオの音量は低く、流れているのは知らない曲ばかりだった。

 沈黙は長かったが、居心地が悪いわけではない。

 母は、無理に話題を探さなかった。

 鳴海も、何かを聞こうとはしなかった。

 ただ、窓の外を流れていく景色を見つめていた。

 駅前に近づくと、母はハンドルを切りながら言った。

「…今日は、ありがとうね」

 それだけだった。

 それ以上の言葉は、必要ない気がした。

 車は駅前に差しかかり、アーケードの入口手前で減速した。

 夕方の時間帯だったが、人通りは思ったほど多くない。

 母はハザードを点けて、路肩に車を寄せる。

「ここで、いい?」

 鳴海は小さく頷いた。

 母が指差した先に、小さな公園が見えた。

 夕方の光が落ちてきて、遊具の影が長く伸びている。

 ベンチがいくつかあるだけの、静かな場所だった。

「…駅の真ん前より、落ち着くと思って」

 母は前を見たまま、さらりと言う。

「静かでいい場所よ」

 その言葉に、鳴海は封筒の重みを握り直した。

 まるで、ここで読むことまで見越しているみたいだった。

 でも、問いただすほどの余裕はなかった。

 車が止まり、二人が降りる。

「…また、顔を見せてあげて」

 そう言って、母は小さく微笑んだ。

「…はい」

 鳴海は、深く頭を下げた。

 ドアが閉まり、車が走り去る。

 テールランプが角を曲がって消えるまで、鳴海はその場に立っていた。

 それからようやく、手の中の封筒を意識する。

 白くて、軽い。

 それなのに、やけに存在感があった。

「…今、読む?」

 睦歩が、様子をうかがうように言った。

「…うん」

 そう言いながら、足は自然と公園の奥へ向かっていた。

 夕方の公園は、人影がまばらだった。

 子どもも、犬を散歩させている人もいない。

 ベンチに腰を下ろすと、鳴海は封筒を膝の上に置いた。

 まだ、開ける気にはなれない。

 怖い、と思った。

 でも、それだけじゃなかった。

 ここまで来た、という感覚も、確かにあった。

 睦歩は、何も言わずに隣に座っている。

 視線は前を向いたまま、距離も詰めすぎない。

 鳴海は、ゆっくりと封筒を手に取った。

 指先が、わずかに震える。

 深く息を吸ってから、封を切る。

 まだ、中身は見ない。

 紙の感触だけを確かめるように、手の中で一度だけ整えた。

 そして―

 鳴海は、目を落とした。



【16歳の五和 鳴海くんへ】


お久しぶりです。成果です。

この手紙は、なるちゃんが私と同じ高校生になったときに渡してもらおうと思っています。


そんな時まで私のことを覚えていてくれているか、少し不安だけど…

今書いておかないと、きっと後悔するから、書きます。



16歳になった鳴海くんは、どんな高校生になっていますか?


部活には入りましたか?

身長は伸びましたか?

睦歩ちゃんとは、今でも仲良くしてますか?


気になることが多すぎて、質問ばかり書いてしまいました。

きっと、私が想像できないくらい素敵な未来があるんだろうなぁと思います。


大変なことはいっぱいあると思いますが、

楽しいこともいっぱいあります。

これからも鳴海くんらしく、生きてください。

…なんて、年下の私が説教しなくても大丈夫だよね。



ここから先の内容は、どうしても伝えたかった私の気持ちです。

でも、今のあなたに伝えると、きっと負担になっちゃうから…


私は3月生まれでまだ15歳なので、16歳になったなるちゃんは、もう年上です。

年上になった鳴海くんに、伝えます。



まずは、謝らなければいけません。

たぶん私は、とつぜんいなくなっちゃったよね。


私は生まれつき免疫力が弱くて、喘息のほかにも合併症がいくつもあって、治る見込みがないと言われていました。


伝えなきゃって、何度も思ったけど、

このことを伝えてしまうと、最後まで笑っていられなくなるのが怖くて、どうしても言えませんでした。

自分勝手で、本当にごめんなさい。


あなたが来てくれる前、私は生きてることの方が辛く感じていました。


毎日がつまらないことの繰り返しで、親や友達には気を遣わせてばっかりで、何の役にも立たないなって…

病気のせいで何も出来ないと文句ばかり言いながら、その病気を口実にラクをしようとする自分がいて…そうする度に、どんどん自分が弱くなっていくのが分かって…


私が生きていても何もいいことがないって、ずっと思っていました。

そんなふうに思ってしまう自分が大嫌いでした。



でもあの日、あなたが私を見つけてくれて、会いに来てくれて、励ましてくれて、笑わせてくれて、

たくさんのやさしさをくれたから、、、


今は、まだ生きていたいです。

もっともっと、あなたと一緒にいたいです。


そう思えたとき、チグハグだった毎日が、意味のある時間へ変わっていきました。

あんなにイヤだった検査や治療にも、向き合う勇気が持てました。

嫌いだった自分のことも、ちょっとだけ好きになれました。

全部、あなたのおかげです。



あなたのおかげで、はじめて生きててよかったと思えたんです。

今日まで、生きるのを頑張れたんです。



本当に、ありがとう。



あなたと出会えたこと、忘れません。

あなたがくれたやさしさも、忘れません。

だから…もしよかったら…


私のことも、時々思い出してください。


最後に、

なるちゃんと睦歩ちゃんに、たくさんの幸せがありますように。


【月森 成果】




【4】

 車窓から夕焼けが見えたことで、一日の終わりを実感する。

 電車は空いていて、二人はロングシートに並んで座っていた。

 肩同士が、ほんの少しだけ触れるくらいの距離だった。

 左右のスペースにはまだ余裕があったが、自然とその距離で、座っていた。

 鳴海の手には、折りたたまれたままの手紙があった。

 封筒にしまい直して、大事そうに握っている。


「成果らしいな」


 鳴海がこの手紙を読んだあと、唯一言葉にした感想だった。

 彼は手紙を読んでいる途中から、大粒の涙を流していた。それでもその目は、まっすぐと次の文字を追っていた。

 最後の一文字まで読み終えた後、彼は手紙を胸に押し当てながら嗚咽した。ずいぶん長い間、そうしていた。

 ようやく落ち着いたところで、隣に座った睦歩にも手紙を手渡した。

 睦歩が読み終わるのを待ってから、涙声の鳴海がポツリと言ったのが、「成果らしいな」だった。


「『時々思い出してください』ってさ。相当なわがままだ」

「…本当だね」

「言われてみれば、確かにわがままだった。アイス一口ちょうだいとか、急にプリクラ撮りたいとか」

「鳴海に甘えてたんじゃない?」

「5つも年上なのにさ」

「だからこの手紙は、鳴海が年上になってから渡してほしかったってことか」

「…時々とか、言うなよな。…忘れたことなんか、ないって」

「…そうだね」


 さっきまで、あんなに泣いていたのが嘘みたいだ。

 今は静かに、前だけを見つめていた。


「俺さ…」

 電車の揺れに合わせて、鳴海が小さく息を吐いた。

「ライのことで、ある人に相談したんだ」

 唐突だったけれど、睦歩は何も言わずに聞いた。

「その人に言われたんだ。

 “お前の役割は何なんだ?”って」

 鳴海の手が、膝の上の封筒に触れる。無意識に、指先で端をなぞっていた。

「正直、それをずっと考えてた。俺、何をすべきなんだ?って」

 少しだけ、間が空く。

「最初は、“助ける”とか、“救う”とか…そういう言葉が浮かんだ。でも、それは違うって言われた。それは俺の役割じゃない、って」

 鳴海は、苦笑いみたいに口元を緩めた。

「じゃあ何なんだって考えてさ…そのときに浮かんだのが、“ただ、そばにいること”くらいで」

 一瞬、言葉を切る。

「そのときは、自分でも思ったよ。それじゃ、ダメだろって。成果の時から、何も成長してない気がして。必死に違う答えを探してた」

 鳴海の声は、静かだった。

「でも…今ならさ、それでよかったんじゃないかって思える。

 何かを変えなくても、何かを解決しなくても、そばにいたこと自体が、ちゃんと意味だったんだって」

 言い切りではなかった。

 しかしその言葉はもう、確かに彼自身の言葉になっていたように感じた。


 しばらく、電車の走る音だけが続いた。

 鳴海の言葉が、まだ空気の中に残っている。

「…それ、さ」

 睦歩が、静かに口を開いた。

「あたしも、ずっと考えてた」

 視線は前を向いたまま、鳴海の方は見ていない。

「あたし、成果さんに言われたんだ」

 鳴海の肩が、ほんの少しだけ強張るのを感じた。

「『睦歩ちゃんにも“重荷”になる』って」

 睦歩は、淡々と言った。

「そのときは、正直よく分かんなくてさ。深く考えずに、流しちゃった」

 一拍置く。

「でもそのあと成果さんが倒れて、鳴海が自分のことばっか責めるようになって」

 声が、少しだけ低くなる。

「そのときに、やっと分かった」

 睦歩は、膝の上で指先を重ねた。

「鳴海が苦しんでるのを少し離れたところから見続けることが、あたしにとっての“重荷”だったんだって」

 鳴海は、何も言わない。

「目を逸らしちゃダメなんだ、って思ってた。

 だから、なるべく鳴海が苦しまないようにって」

 一瞬、言葉を探す。

「…ライちゃんのこと、最初反対したのも、そういう理由」

 小さく息を吐いた。

「でもね、違ったの。あれは、ただの逃げだった」

 睦歩は、ようやく鳴海の方を見た。

「近づくのが怖かっただけ」

 電車が揺れ、二人の肩が軽く触れ合う。

「だから、考え方を変えたの」

 声は、驚くほど落ち着いていた。

「鳴海の隣に並んで、一緒に背負うことにした」

 少し間を置いて、続ける。

「鳴海の役割が“そばにいること”なら―

 あたしの役割は、”隣に並ぶこと”だったんだと思う」

 少しの沈黙のあと、鳴海が口を開いた。

「ずっとさ、重荷を背負わせてたよな…ごめん」

「…」

「目、逸らさないでくれて、ありがとう」

 睦歩は、すぐには返事をしなかった。

「俺が“向き合ったつもり”でいる間も、睦歩はずっと向き合ってたんだな」

 電車が揺れ、車内アナウンスが遠くで鳴る。

「…毎年、行ってくれてたんだろ。お墓参り」

 睦歩の肩が、ほんのわずかに跳ねた。

「…知ってたの?」

「いや」鳴海は、首を振る。「今日の感じ見てたら、さすがに分かる」

「…」

「道案内も、乗り換えも迷わないし。お墓掃除も慣れてるしさ…。そこまで鈍感じゃないよ」

「気づかれちゃってたか」

 睦歩は、照れたように指で頬をかいた。

「…でもね」

 小さく、でもはっきり言う。

「成果さんに言われたから、とかじゃないよ」

「え?」

「お墓参りも、隣にいたのも…全部、あたしがそうしたかっただけ」

 言い終わると同時に、恥ずかしそうに口を結ぶ。 頬が、わずかに赤くなっている。

「…それだけっ」

 今度は、鳴海の方が言葉に詰まった。

 視線を前に戻し、耳まで赤くなる。

「そ、そうか…」

 少し気まずくなって、鳴海は咳払いをひとつした。

「…あ、そうだ。そういえばさ」

 鳴海がわざとらしく言う。

 話題を変えたいのが、あからさまだった。

 睦歩はそれに気づいて、くすっと笑う。

「ライにLINE返さないと」

「あー…ちゃんと退治できたかな?ゴキくん」

「どうだろうな。でもあのLINEには本当助けられたよ」

「ライちゃん、いいキャラだよね。空気読めるんだか読めないんだか」

「学校行っても、ドタバタしてそうだよな」

「そういえば、来月からもう通い始めるんだよね」

「この間、制服着た写真見せてくれたよ」

「え、どれどれ…?」

そう言って、二人はスマホを覗き込む。

 画面の中のライは、少し大きめの制服を着て、満面の笑みを浮かべていた。

 他愛もないやり取りだった。

 特別な意味も、深い話もない。

 それでも、その時間は、確かに地続きだった。

 今日という一日と、これから先の日常とを、静かにつないでいる。

 電車はゆっくりと減速し、車内の灯りが窓に映り込む。

 最寄駅に着く頃には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。

 車窓から見える満月が、これから帰る街をぼんやり照らしていた。

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