第九章 後半(現在)
【1】
ライは包丁を握ったまま、しばらく動けずにいた。
指先が思っていたより冷えていることに気づく。
ドアの向こうで語られる過去に、気づけば自分を重ね合わせていた。
―大切な人
その言葉を聞いて、自分の中にあった何かが揺らぎ始めたのを感じた。
―そうか…わたしも…
そっとドアに耳を当てると、向こう側にいる彼の息遣いが聞こえてきた。
その音は頼りなく、彼女の鼓膜を震わせる。
すっと、手の力が抜けた。包丁が音を立てて床に落ちる。
「ドア…開けるね」
ライはゆっくりとカギを開け、ドアノブを手前に引いた。
廊下側で、母親と睦歩さんの声がした。
「きゃっ」
それと同時に、全身水びたしの鳴海が前かがみに倒れてきた。気を失っているようだった。
反射的に、ライはその身体を受け止める。
思ったより、軽い。
それよりも、冷たい。
それでも、濡れた服越しには彼の体温が伝わってくる。
「ごめんなさい…」
その感触に、思わず語りかけていた。
「鳴海…!」
倒れた鳴海の身体を、ライの代わりに睦歩が抱える。
そして今度は、母親がライの身体を抱きしめた。
「ライ…ライ…ッ!」
ライは強く抱きしめられながらも、母にかける言葉を見つけられなかった。
それよりも母の肩越しに見える、睦歩に抱えられた鳴海の安否を気にしていた。
「…突然押しかけて、勝手な真似して、すみませんでした」
鳴海をライの部屋に寝かせたあと、睦歩は母親に一度だけ頭を下げた。
「でも、あのままだったら、本当に取り返しがつかないところでした。たまたま間に合ったからよかったけど…」
その目線は母親だけでなく、ライ本人にも注がれていた。
母親が何か言おうとする前に、続ける。
「問題は、まだ何も解決してません。鳴海が目を覚ましてから、もう一度、ちゃんと話しませんか」
外では、相変わらず強い雨が降っていた。弱まる気配は、当分なさそうだった。
【2】
鳴海が目を覚ますと、そこは知らない空間だった。
「気がついた?」
隣から、聞き慣れた声がした。睦歩の声だ。
「…ライは」
そう問いかけたことで、ぼやけていた記憶が一斉に蘇った。
身体がベッドから跳ね起きる。
「あ…」
起き上がった目線の先、勉強机の前の椅子に、その姿はあった。
「ライ…」
「鳴海くん…その…」
ライは椅子から立ち上がったが、気まずいのか目線だけを床に落として言い淀んでいた。
「…よかった」
鳴海も、それだけ言って後は続かなかった。
「身体は、大丈夫そう?」
睦歩はこのあとの話し合いの予定について、鳴海に説明した。鳴海は当然のように頷いた。
「じゃあひとまず、シャワー借りてきて」
気づくと、睦歩はスウェットを着ていた。鳴海が起きない間に、ライの家のシャワーと着替えを借りたようだった。
シャワーを浴びながら、鳴海は起こった出来事を思い返す。
ライが生きている。
その事実だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
―じゃあ、次はどうすればいい。
シャワーの水音に紛れて、心臓の音が鼓動する。
胸の奥に残るざらつきは、まだ消えていなかった。
鳴海がシャワーを終えて戻ると、他の三人はすでにテーブルを囲っていた。
食卓は二人掛けだったため、鳴海と睦歩の椅子はダイニングソファのものを持ってきて置いた格好だった。テーブルが小さいため、自然と4人の距離が近くなる。
全員が座った後、誰も視線を上げないままで数秒が過ぎた。
「…では、全員揃ったので始めたいと思います」
睦歩は一度、全員を見渡した。
「まずは…今日何が起きたかを整理しませんか」
そう切り出すと、睦歩はまず鳴海へ話を振った。
「鳴海と私は、ライちゃんからのLINEをきっかけにこちらに来ました」
睦歩はそう前置きしてから、鳴海の方を見る。
「鳴海、LINEをもらったのは、いつ頃だった?」
「たしか…14時過ぎくらい」
鳴海が答えると、次に睦歩はライの方を見る。
「ライちゃん、その時間に連絡をしたのは覚えてる?」
「…はい、覚えてます」
ライは少々気まずそうに答えた。
「ちょうど私が外してた時間ね」
そう言ってから、母はライを見た。
「その隙にスマホを持ち出したんでしょう」
ライは俯いて「はい」とだけ答えた。
睦歩は数秒待ってから、次の言葉を発した。
「そのLINEは、いつ送ろうって決めたの?」
「…ちょっと前、です」
「何かきっかけがあったのかな」
「それは…」
そう言った後、ライは首を縦に振るかたちで回答した。
「どんなきっかけかな」
睦歩の問いに、ライが言い淀む。
そのうちに、母親が口を挟んだ。
「ねえ、こんな回りくどいことしてる場合じゃないでしょ」
母は、思わず言葉を継いでいた。
どこか焦っているようにも見えた。
「どうしてこんなことになったのか、ちゃんと話さない?」
その発言を聞いて、ライが不安そうな表情を強める。
睦歩はそんなライを目の端に捉えつつ切り返す。
「今はまず、ライちゃんの話を聞きたいです」
母は苦い顔で宙を見た。
そのあと、しばらく沈黙が続いた。
ライは何度か息を吸ってから、ぽつりぽつりと語り出した。
きっかけは、母との会話だったこと。
鳴海との関係を一方的な押し付けのように言われ、苦しくなったこと。
自分も鳴海と同じ「終わらない償い」を抱えていると感じたこと。
それを終わらせる手段として、今日の行為に至ったこと。
その一連の説明を聞いて、鳴海は呆然としていた。
鳴海がライとの関係を望んでいない―それは事実とはかけ離れた解釈だった。
「どうしてそんな…」
「鳴海、待って」
言いかけた鳴海を、睦歩が止める。
それから母の方を見て、確認する。
「こういった会話があったのは事実ですか」
母は数回瞬きをしてから答える。
「そういう可能性もあると思って言っただけ。ライが心配だったの」
「なるほど」
睦歩は一旦呼吸を整えてから続ける。
「これについては、誰かが間違ってる、という話ではないと思います。同じ言葉でも、受け取る側で意味が変わることがあります」
そこまで言い終えたところで、もう一度睦歩は母に目線を向ける。
「ただ、これではっきりしたことがあります。鳴海もあたしも、ライさんとの交流を希望しているということです」
隣で、鳴海も頷いた。ライの方を見ると、彼女はまだ不安そうだったが、確かに目が合った。
「ライさんの過去の事件については、お聞きしています。だからそれが“守るため”だったことは分かります。でも今のライさんは、その結果として、とても追い詰められていました」
睦歩は母に理解を示しつつ、事実を整然と取りまとめていた。
それを聞いた母は、しばらく俯いていた。
「…分からないでしょうね」
やがてそう言葉を溢すと、睦歩たちに視線を向けて話し出した。真っ黒な瞳に吸い込まれそうな感覚を、鳴海は感じていた。
「この子の父親は、早くに病気で亡くなったの。生まれてすぐだったから、一緒に過ごした記憶もないはずだわ」
テーブルの縁に置かれた母の指先が、わずかに震えていた。
「それからずっと、私は一人で、この子を育ててきたの。それがどれだけ大変か、あなたたちには分かるはずない」
その後語られたのは、必死にライを思い、気にかけ、守ってきたエピソードの数々だった。
「この子が風邪を引くだけでも、ウチにとっては一大事だった。一晩中、付きっきりで看病した。でもそれが親でしょ?」
それは、ライが物心つく前から続いてきた、二人だけの時間だった。
「だから誘拐されたときは、生きた心地がしなかった。私が近くにいたから未遂で済んだけど、もしも同じ事が起こったら…」
母は、ライの方を見る。
その視線は責めるものではなく、存在を確かめるようなものだった。
「あなたは私のすべてなの。あなたがいなくなったら、私は…」
それから睦歩たちに向き直る。
「私は、大切な家族を失うわけにはいかないんです」
母は、そう言い切った。
「それだけは、譲れない」
しばらく、鳴海も睦歩も返す言葉を失っていた。
「それだけのことを、一人で背負ってこられたんですね。あたしたちには、確かに想像しきれないことだと思います」
やがて、睦歩はそう口にした。その声には、母への敬意が感じ取れた。
母は何も言わなかった。
ただ鳴海には、テーブルに置かれた母の手の力が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
その沈黙を、睦歩は急かさなかった。
数秒置いてから、声の調子を変えずに続ける。
「一つだけ、確認させてください」
母は視線を合わせなかった。
「今までの話を聞いていると…お母さまはずっと、“ご自身が判断しなければ、この子は危険だ”という前提で動いてこられたように思います」
言葉を選ぶように、睦歩は一拍置いた。
「それ自体が間違っている、とは思いません。実際、その前提で守られてきた時間も、きっとあったんだと思います」
母の指先が、かすかに動く。
「ただ…」
睦歩は、そこで初めてライの方を見た。
「今日の出来事は、その前提が、少しだけ変わり始めているサインだったように、あたしには見えました」
母も、ハッとしたようにライを見た。
「この子…ライちゃんは、誰にも見られていないところで、自分で考えて、自分で選ぼうとしていました。結果は、とても危ういものでしたけど…」
そこで、睦歩は視線を母に戻す。
「それでも今日のライちゃんはもう、全部を誰かに決めてもらう状態ではなかったと思います」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
先に視線を落としたのは、ライだった。
テーブルの縁に置かれた自分の手を、じっと見つめている。
指先が、わずかに震えていた。
「…」
一度、息を吸う。
それから、絞り出すように口を開いた。
「ママ」
母の肩が、ぴくりと揺れた。
「わたしね…」
言葉を探すように、少し間が空く。
「守ってもらってるはずなのに…安心できなかった」
それだけだった。
説明も、理由もなかった。
声は小さく、感情も抑えられていた。
けれど、その一言は、静かに部屋の空気を変えた。
「大丈夫だよ、って言われてたのに…ずっと、落ち着かなかった」
ライはそれ以上、言葉を足さなかった。
「…」
母は、すぐに返事ができなかった。
視線がテーブルの上を彷徨い、指先がゆっくりと絡まる。
反論しようとしたのか、それとも否定しようとしたのか、鳴海には分からなかった。
ただ一つ分かったのは―
その沈黙が、初めて言葉を失った沈黙だったということだけだった。
沈黙は、思ったより長く続いた。
母は、テーブルの上に絡めた指先をじっと見つめていた。
ほどこうとして、できずにいる。
「…」
一度、喉が鳴る。
「安心できなかった、なんて…」
それだけ言って、言葉が途切れた。
誰も、続きを促さなかった。
睦歩も、鳴海も、ライも。
母は、深く息を吸い込む。
「そんなふうに感じてたなんて…思わなかった」
それは反論ではなかった。
否定でもなかった。
「私は…」
声が、わずかに揺れる。
「この子が、怖い思いをしないようにしてきたつもりだったの」
ライを見る。
けれど、その目はすぐに逸れる。
「一度、あんなことがあって…」
誘拐事件のことだと、誰もが思っていた。
「また失うくらいなら、嫌われてもいいって思った」
そこで、母は初めて唇を噛んだ。
「この子が生きていてくれるなら、それでいい。そう思わないと…私は、耐えられなかった」
それは正論でも、言い訳でもない。
ただの、正直な言葉だった。
「守ってたんじゃないのかもしれない」
ぽつりと、溢れる。
「手放すのが…怖かっただけなのかもしれない」
部屋の空気が、静かに沈む。
母は顔を上げなかった。
けれど、その声には、これまでになかった柔らかさがあった。
「この子が自分で何かを選んで、どこかへ行ってしまったら…」
言葉が詰まる。
「その先で、もし取り返しのつかないことが起きたら…私は、もう自分を保てない」
そこで、ようやく母はライを見る。
怯えた目ではなかった。
責める目でもなかった。
ただ、壊れそうな目だった。
「分かってるわ…自分勝手なことくらい」
小さく、首を振る。
「それでも、手放すのは、怖いのよ」
それが、母の“真実”だった。
部屋には、また沈黙が落ちた。
先ほどよりも、重たい沈黙だった。
母は、テーブルの上に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
指先が、何度も絡まっては、ほどけていく。
「…こんなふうに」
かすれた声が、静寂を破る。
「この子に、負担をかけていたなんて…」
自分に言い聞かせるような口調だった。
「守っているつもりで…一番、逃げ場のないところに縛ってたのかもしれない」
「…」
ライが、小さく身じろぎする。
それに気づいたのか、母は一瞬だけ言葉を止めた。
「そんなこと…」
思わず、鳴海が口を開きかける。
「いいの―」
母は、首を振って遮った。
初めて、はっきりした声だった。
「今は…言わせて」
鳴海は、それ以上何も言えなかった。
母は、深く息を吐く。
「やっぱり…無理があったのよね」
誰に向けた言葉でもない。
「母親になるなんて…」
「…ママ?」
不可解な発言に、ライが思わず声を出す。
けれど、母は顔を上げなかった。
「違うの」
震える声で、続ける。
「…私が」
喉が、ひくりと鳴る。
「私は…」
言いかけて、止まる。
その沈黙に、誰も口を挟めなかった。
彼女の目が、ライをまっすぐに見つめた。
「私は、あなたの母親じゃない」
静かな声だった。
打ち明けるというより、長い間、胸の奥で固まっていた事実を、ようやく外に出しただけのような言い方だった。
睦歩が、息を呑む。
「鳴海が感じてた違和感って…このことだったんじゃない?」
それは、以前河川敷で会った時に彼が感じた正体不明のモヤモヤのことだった。
「いや…でもそんなことって」
鳴海はあと少し考えがまとまっていないように答える。まだ状況が受け入れられないのだろう。
「あたしも、今日お会いしてからずっと不思議だったんです」
睦歩は続ける。
「13歳の子の親にしては、”あなたは若すぎる”」
睦歩にとっては、ずっと感じていた違和感をようやく口にした瞬間だった。
「あなたは一体…」
「言葉で言うより…見せたほうが早いわね」
その言葉のあと、母は一度だけ席を立った。
部屋を出て戻ってくると、手には古びた封筒と、星の形をしたヘアピンが握られていた。
「それって…わたしの…」
見覚えのあるヘアピンにライは反応しかけるが、止まる。それが自分の持っているヘアピンと同じデザインだったからである。しかし彼女のそれは、今まさに自分の髪に付いていた。
「あなたと同じものを、私ももらったの」
そう言うと、次に母は封筒から一枚の写真を取り出した。
それは一枚の家族写真だった。
そこに写っていたのは、大人の男女と、その腕に抱きかかえられた赤ちゃん。
そしてもう一人…学校の制服姿の少女の、4人が並んで写っていた。
その少女だけは写真撮影に乗り気じゃないのか、カメラとは別の場所にそっぽをむいて写っていた。
「これって…」
ライは、まだ意味が分からないまま、写真を見つめている。
彼女はまず、少女以外の3人を指でなぞりながら言った。
「この赤ちゃんがライ。そしてこの人たちが、あなたの本当の両親」
次に、制服姿の少女を指して告げる。
「そして…これが私。あなたの姉よ」
それは、母であろうとした人間の、ひとつの形だった。
【3】
【12年前 市ノ瀬 美咲(19)】
私には、父親の違う妹がいる。
玄関で靴を履いていると、背中越しに声が飛んできた。
「今日は、夜ご飯食べるの?」
返事はしなかった。
バッグの中身を確かめるふりをして、時間をやり過ごす。
玄関の鏡に、ふと自分の顔が映った。
髪の横で、小さな星形のヘアピンが光っている。
やっぱり取ろうかと思ったが、やめた。
代わりに、少しだけ位置を直す。
「遅くなるなら、連絡して」
母の声は、いつも通りだった。
「別に」
思わず、棘のある言葉が出る。
「いなくても困らないでしょ」
母は何も言わなかった。
その沈黙が、私の背中を押す。
ドアを開けながら思う。
この家の食卓には、私はいない方がいい。
新しい父と、母と、二人の間に生まれた妹。
血のつながった三人分の食器が並ぶ場所に、私の分だけが、いつも少し浮いて見える。
そこに座ると、母の幸せを、邪魔してしまう気がした。
父が倒れたのは、私がまだ中学生の頃だった。
国指定の難病だった。一行では収まらないくらいカタカナが並ぶ病名を、私はついぞ覚えることができなかった。
けれど病室の匂いと、白いカーテンの向こうで泣いている母の背中だけは、今でもはっきり覚えている。
闘病は短く、あっけないほどだった。
父は、何も言い残さずにいなくなった。
悲しかった。
それでも私は、泣き続けるだけの時間を、長く引きずることはなかった。
母の方が、ずっとつらそうに見えたからだ。
だから自然と、そう思った。
これからは、母と二人で生きていくのだと。
父のことを忘れるわけじゃない。
思い出しながら、支え合いながら、静かに暮らしていくのだと。
父が生きていた頃に住んでいたマンションを出て、私たちは少し古いアパートに移った。
部屋は狭くなったけれど、暮らせないわけじゃなかった。
母は変わらず家事をこなし、食事もきちんと作ってくれた。
私は思っていた。
このくらいなら、大丈夫だと。
再婚の話を聞いたのは、それから二年ほど経ったころだった。
詳しい理由は、説明されなかった。
ただ、「一緒に生きていこうと思う人がいる」とだけ言われた。
私には、その考えが理解できなかった。
生活のため、というなら分かるが、そうは思えなかった。
確かに余裕はなかった。けれど、食べるものに困っているわけでもなければ、着るものが足りないわけでもない。贅沢はできないけれど、ちゃんと暮らせてはいた。
だから、腑に落ちなかった。
この状況で、どうして再婚する必要があるのか。
理由を探して、行き着いたのは、とても単純な答えだった。
母は、ひとりでいるのが耐えられなかったのだ。
父を失って、空いた場所を、誰かで埋めたかったのだ。
その考えに辿り着いたとき、胸の奥がひやりとした。
じゃあ、私は何だったんだろう。
一緒に生きてきた娘じゃ、足りなかったのか。
新しい父親は、仕事のできる人だった。
会社を経営していると聞いた。
再婚してから、生活は目に見えて変わった。
引っ越したのは、都内に建つ一戸建てだった。
広くて、明るくて、庭まであった。
食卓には、少しだけ良い食材が並ぶようになった。
母の表情も、どこか余裕を取り戻したように見えた。
新しい父親は、悪い人ではなかった。
私に干渉しすぎることもなく、必要以上に踏み込んでくることもなかった。
それが、余計に居心地を悪くした。
拒絶されているわけでも、歓迎されているわけでもない。
ただ、最初から輪の中にはいない。そんな感覚を覚えた。
妹のライが生まれたのは、その少し後、今から1年前のことだった。
15歳以上年の離れた妹を、最初は可愛いと思った。
けれど、私とは父親が違うという事実が、彼女を愛でる心を複雑に捻じ曲げてしまった。愛おしいと思いながらも、私は一定の距離を保つようにライと接した。
反抗するようになったのは、その頃からだった。
門限を破り、連絡を無視し、わざと棘のある言葉を投げた。
母を困らせたかったわけじゃない。
ただ、私がまだここにいると、気づいてほしかった。
大学に進学したとき、私はよく「家を出たい」と口にしていた。
けれど結局、家は出なかった。
大学は家から通える距離にあった。
わざわざ一人暮らしをするほどでもない、と言われれば、それまでだった。
私自身も、それ以上強く言うことはなかった。
だから今は、朝と夜以外はなるべく外で過ごすようにしている。
駅のホームに立つと、冷たい風がコートの隙間に入り込む。
今日向かう場所は、家の外にある数少ない居場所だった。
何も聞かず、何も求めず、ただ隣にいてくれる人。
そこにいる間だけは、自分が余分じゃないと思えた。
電車が来る。
ドアが開く。
その向こうにあるのが、救いだと信じて―
今の私には、そこへ行く以外の選択肢が、見当たらなかった。
【4】
夜のホテルの一室には、静かな時間が流れている。
ようやく息が落ち着いてきた。胸の奥に残っていた熱が、ゆっくり引いていくのが分かる。
私は布団を肩までかぶって、横向きのまま天井を見ていた。
シーツは汗でまだ湿っていて、肌に触れる感触が気持ち悪かった。
佐伯さんは、ベッドから少し離れたところのイスに座って、電気式のタバコを吸っている。
吐き出された煙が、夜の空気に薄く溶けていく。
この間が、嫌いじゃなかった。何かを埋めるように話さなくてもいい、この時間が。
彼と最初に会った日のことは、ちゃんと覚えている。
大学に入ってすぐの頃、新しくできた友達に誘われて行ったライブハウスで、私たちは出会った。
初めてのライブハウスは最悪だった。音は大きく、人も多かったため、私は最初から居場所を見失っていた。
壁際に立ったまま、早く終わらないかな、なんて考えていた。
そのとき、仕事中の佐伯さんが声をかけてきた。
「大丈夫?無理してない?」
それが、最初だった。
どうして話しかけてきたのかと聞いたら、少し困ったように笑って、こう言った。
「初めてのライブを、嫌な思い出にしてほしくなかったんだ」
それだけだった。
佐伯さんは、映像やイベント関係のお仕事をしている。会社に所属しているのではなく、フリーランスらしい。
ライブの記録映像を撮ったり、設営を手伝ったり、仕事は不定期だと言う。
スーツを着るような人じゃないけれど、しっかりとした大人だと思えた。
それから、何度か会うようになった。
連絡は多くない。
でも、誘われるときはいつも、こちらの都合を聞いてくれた。
会った時には、彼は私の話を興味深そうに聞いてくれた。そしてお酒を飲むと決まって、自分の仕事の話をした。それを楽しそうに語る彼を、私は自然と尊敬するようになった。
身体を重ねるようになるのにも、あまり時間はかからなかった。
初めてではなかったが、年上の人とのセックスに緊張した私は、ほとんど流れに身を任せることしかできなかった。
それでも佐伯さんは、やさしく私を導いてくれた。
どちらかが告白をしたわけではない、少し曖昧な関係。
けれど私は、大人の恋愛はこういうかたちなんだと思っていた。
佐伯さんは、何も聞かない。
学校のことも、家のことも、過去のことも。
私が話さない限り、踏み込んでこない。
「…なんか」
佐伯さんが、タバコを握ったまま言った。
「今日はずっと、思い詰めた顔してたよね」
その声は、探るようでも、責めるようでもなかった。
「そう?」
私は天井を見たまま、曖昧に返す。
「うん。最初会った時から」
少し間があった。
言わなくてもいい、と思った。
でも、この苦しみを委ねてしまいたかった。
「最近、居づらくて」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
「…家に」
佐伯さんは、何も言わずに聞いている。
「私だけ、なんか浮いてる感じがして」
私は、少しずつ話してしまった。
母親が再婚したこと。
年の離れた妹ができたこと。
新しい父が、仕事のできる人だということ。
住む家が変わったこと。前より広くて、きれいな一戸建てになったこと。
別に自慢するつもりなんてなかった。
ただ、誰かに聞いてほしかっただけだった。
「家って、世田谷の方だっけ?」
佐伯さんが、思い出すみたいに言った。そういえば一度だけ、タクシーで送ってもらったことがあった。それで憶えていてくれたのだと、少し嬉しくなった。
「…帰りたくないな」
佐伯さんは、「そっか」とだけ言って、私の方に手を伸ばした。
髪に触れて、軽く引き寄せる。
キスをされて、私は目を閉じた。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
―あぁ、ここだ。
少なくとも今は、ここにいれば余分じゃない。
私はそう思いながら、彼の腕の中で、ゆっくり目を閉じた。
【5】
この日は、朝から何かがおかしかった。
目を覚ました瞬間、身体が布団に沈み込んだまま、動こうとしなかった。
起き上がろうとすると、全身に重たいものがのしかかる。
少しずつ身体が言うことを聞くようになっていき、ようやく起き上がれたのは、もう大学の講義が始まる頃だった。
その時点で、この日はもう、使える気力を使い切ってしまった気がした。
本当は外に出たかった。
でも、それすら面倒で、結局家にいることにした。
この家に来てから、一日家にいることなんて滅多になかった。
部屋に閉じこもれば少しは落ち着くかと思ったが、下の階からは、母とライの笑い声が途切れなく聞こえてくる。
私はそれを遮るように、ヘッドホンをつけて、適当に音楽を流した。
どんな切ないバラードも、今の私には、ただの音にしかならなかった。
ここは私にとって、安全ではない。
そのとき、携帯の端で、メールの受信ランプが小さく点った。
手に取って確認すると、佐伯さんからのものだった。
『今日の夜、どうしても会いたい』
佐伯さんからの短いメッセージだった。
続いて、時間と待ち合わせ場所だけが書かれている。
本当は、今日はこのまま休むつもりだった。
それでも、『どうしても』という言葉を見た瞬間、気持ちが浮き上がるのを感じた。
いつもは、もっと遠慮がちな誘い方をする人なのに。
彼にとっての、必要な存在になれた気がした。
この家から出たいという気持ちも重なって、私は『行くね』と返事をした。
時計を見ると、もう夕方だった。
長く感じていた一日が、いつの間にか、こんな時間まで続いていた。
急いで部屋を片づけ、スウェットを脱ぎ捨てる。
クローゼットから服を選び、メイクをして、髪をセットする頃には、身体も心もすっかり軽くなっていた。
「こんな時間から、出かけるの?」
背中越しに母の声がしたのは、身支度を終え、玄関で履いていく靴を選んでいる時だった。
玄関の照明の下で、母と目が合った。
その視線が、一瞬だけ、私の髪の横で止まる。
小さな星形のヘアピン。
それに気づいたと分かった瞬間、私は無意識に顔を背けていた。
母は、何も言わなかった。
「関係ないでしょ」
その一言で、空気がぴんと張りつめるのが分かった。
「どこに行くの?体調、悪いんじゃないの?」
「ほっといてよ!」
思ったよりも強い声が出て、自分でも少し驚いた。
「…こんな家にいたくないだけ」
吐き出すように言うと、胸の奥がひりついた。
「どうしてそんな言い方…」
母の声が、わずかに揺れる。
それから一呼吸おいて、母は言った。
「新しい生活に変わって、美咲には色々負担をかけたと思ってる。でも、いつまでも立ち止まっていられるわけじゃないのよ」
言い聞かせるような口調だった。それが余計に、私を突き放すように聞こえた。
「…お父さんがいなくなっても、私たち、二人で生きていくんだと思ってた」
胸の奥にしまっていた言葉が、勝手にあふれ出る。
「それは―」
母が何か言いかけて、言葉を探す。
その言葉を待つ余裕を、私は持ち合わせていなかった。
「でも、お母さんはすぐお父さんの代わりを連れてきた」
「代わりなんかじゃない」
「私には、そうにしか見えないよ」
その言葉に、母は一瞬、息を詰まらせた。
「…生活のことも、考えなきゃいけなかったの」
ようやく絞り出すように言う。
「でも、別に困ってなかったよね?二人の時だって全然…」
続くはずだった言葉が、宙に浮いた。
母は何も言わなかった。
「新しい人のとこに来て、家がこんなに広くなって、ライが生まれて…」
一度外に出てしまった感情は、もう戻らない。
「そこで完成、でしょ」
言葉にした瞬間、自分の肌に刃をつき立てた気がした。
自分でも残酷だと思う言い方だった。
「そんな言い方やめてよ」
「じゃあ、なんて言えばいいの?」
喉の奥が、ひりひりと痛む。
「なんて言えば…私を見てくれるの…っ?」
その言葉が落ちた瞬間、リビングの方からぱたぱたと足音がした。
小さな身体が、母の足にぶつかる。突然の気配に、母の肩がびくりと揺れた。
「ライ…」
母は名前を呼んで、腰を落としかける。
けれど、途中で動きを止めた。
泣き出したライは、母の服を掴んだまま、不安そうにこちらを見る。
その顔を見た瞬間、胸の奥が、別の痛みで締めつけられた。
母の視線は、自然とライへと吸い寄せられていった。
「ねぇ…お母さん」
私の声は、真冬のように凍えていた。
震えて、言葉にならないほどに。
「私のこと、要らなかったんだよね」
言った瞬間、乾いた音が玄関に響いた。
痛みは感じなかった。頬に走った衝撃よりも、母の表情の方に意識が向けられていた。
とても、哀しそうな顔だった。
「…ごめんなさい」
母が慌ててそう言うと、表情が変わった。
自分のしたことに、怯えている顔だった。
「今のは…違うの。ごめんね、美咲…」
「来ないで!」
伸びてきた手を振り払う。
もう片方の手で頬を押さえたまま、母を見た。
涙は浮かんでいるのに、こぼれなかった。
「最低…っ」
それだけ言って、視線を切る。
靴を乱暴に履き、ドアに手をかける。
「待って美咲っ!!」
母が呼び止めたけど、振り返らなかった。
ドアが閉まる音が、外の空気を震わせる。
それは、思っていたよりも大きな音だった。
外に出た瞬間、夜の空気が肺に流れ込んだ。
冷たさが胸いっぱいに広がって、ようやく息ができた。
その冷たさに耐えきれず、涙が落ちる。
美咲は、走り出した。
もう戻れない、と分かっていた。
あの家には。
あの生活には。
今夜を境に、取り返しのつかない一線を越えてしまったことだけは、はっきりと分かっていた。
家を出てから、どれくらい走ったのか分からない。
駅へ向かう道を、私はほとんど駆け足で進んでいた。
息が、苦しい。
喉の奥が痺れて、うまく空気を吸えない。
胸が痛くて、でも立ち止まりたくなかった。
頭の中では、さっき言ってしまった言葉が、何度も繰り返されていた。
―私のこと、要らなかったんだよね。
言わなきゃよかった。
分かっていた。
分かっていたのに、止められなかった。
早く、ここから離れたい。
早く。
駅に着けば、
佐伯さんに会えれば―
少しは、息継ぎができる気がした。
歩道の端で立ち止まり、バッグの中から携帯を取り出す。
名前を選んで、耳に当てる。
コール音が鳴る。
1コール…
2コール…
出て。
お願いだから、はやく出て…!
3回目のコールが鳴り始めた、その瞬間だった。
自分のすぐ横で、車のブレーキ音がした。
「え…っ」
反射的に視線を向けるより早く、黒い影が視界を塞ぐ。
何かが、肩にぶつかった。
声を出そうとした。
でも、息が続かなかった。
埃臭い布の匂い。
圧迫される感覚。
頭の中が、真っ白になる。
最後に浮かんだのは、私のことを愛してくれていた頃の、母の顔だった。
【6】
目を開けたとき、そこがどこなのか分からなかった。
天井は低く、光は弱い。
ぼんやりとした明かりが、一定の距離で揺れている。
一瞬、夢の続きを見ているのかと思った。
けれど、後頭部に残る鈍い痛みが、その考えを拭い去る。
喉が苦しい。
息を吸おうとして、粘着テープか何かで口を塞がれていることに初めて気づいた。
舌に触れる、ざらついた感触。
剥がそうとして腕に力を入れるが、動かなかった。
両腕は後ろ手に拘束されている。
視線を落とすと、足元にも幾重に巻かれたロープが認められた。
床に倒されたまま、完全に身動きができない。
先ほどよりも呼吸が速くなる。
―なんで
―ここ、どこなの
考えがまとまらないまま、私は無理やり身体をよじった。
床に擦れる音が、思った以上に大きく響いた。
しばらくそうしていると壁の向こうから、声がした。
「…あ、起きちゃったよ」
ひそひそとした声。
すぐ近くなのに、こちらを気にしていないような調子だった。
「だから言ったじゃん。もうそろそろだって」
別の声が重なる。
低くて、少し苛立っている。
「いいから、静かにさせとけ」
短く、それだけ。
一拍おいて、足音が近づいてくる。
鍵の音。
小さな部屋のドアが、乱暴に開いた。
「静かにしろ!」
入ってきた男の声は、思ったより高かった。
余裕のなさが、はっきり分かる。
私はその言葉には従わず、大きく体を揺すった。
「だから静かにしろって言ってんだろ!」
男はしゃがみ込み、手を伸ばす。
肩を押さえつけようとして、力加減を誤り、身体が大きく揺れた。
恐怖で、さらに身体が暴れる。
声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。
「…っ、いい加減に…!」
苛立ちが、そのまま動きに出る。
殴られると思った。
「おい、手は出すなよ」
隣の部屋から、だるそうな声が落ちてきた。「静かにさせとけ」と指示したのと同じ声色だった。
「す…すみません」
男は素直に謝った後、私の方を見て小さく舌打ちした。
その直後だった。
別の足音が、はっきりと近づいてくる。
迷いのない足取り。
入ってきた男は、何も言わずにしゃがみ込んだ。
視線が合う。
その手に、鈍く光るものが見えた。
ナイフだった。
刃先が、ためらいなく喉元に向けられる。
ほんの数センチの距離。
「あんま調子乗るなよ?」
「―ッ!」
低く、落ち着いた声。
それだけで、身体が固まった。
「静かにできるよな?」
刃が、わずかに近づく。
答えられない。代わりに全身の力を使って、首を大きく縦に上下させた。
男はゆっくりナイフを下ろした。
「そうそう、やっぱいい子ちゃんだねえ」
男は、まるで子どもを諭すみたいに言う。
「静かにしてな。そうすりゃ、そのうち迎えが来るさ」
その言葉に、胸が跳ねた。
―迎え
母の顔が、浮かぶ。
「親父さんとお袋さんがな」
男は、世間話みたいに続ける。
「えらい金持ちらしいじゃん、アンタのお家。見たぜ、家も車も」
耳鳴りがする。
「たっぷり絞らせてもらうよ」
少しだけ、間が空く。
「まぁ親父さんの方は…血ぃ繋がってない娘に、どこまで出すかは微妙だけどな」
胸の奥が、ひどく冷えた。
「実の娘だったらさ、あと二千万は上乗せできたと思うんだよなぁ」
そういうと男は、軽く肩をすくめた。
―違う。
頭の中で、声がした。
血が繋がってるとか、繋がってないとか、
そんなこと、関係ない。
血の繋がっている母親にすら、私は―あんなことを言ってしまったのだから。
助けなんか、来るはずがない。
「そういうことだから、大人しくしてろよ」
そう言い残して男が立ち去ったあとも、私は恐怖が抑えられずにいた。
しかしそれは、先ほどまでのものとは別種の、冷たい恐ろしさだった。
―誰も助けに来ない
そう思った瞬間、別の顔が、浮かんだ。
―佐伯さん…っ
名前を呼んだのは、声じゃなかった。
喉は塞がれたままで、音にはならない。
それでも、はっきりとその名前が浮かんだ。
分かっていた。
私は彼にとって、そんな大した存在じゃない。
何も聞いてこないのは、そんなに興味がなかったから。
踏み込んでこないのは、面倒なものを背負いたくなかったから。
やさしくしてくれるのは、立場が対等じゃないから。
都合のいい時だけ会って、身体を重ねて、欲しいものをやり取りするだけの関係。
それ以上でも、それ以下でもない。
助けに来る理由なんて、ない。
危ない目に遭う価値も、ない。
それでも―
『どうしても会いたい』
今日だけは、そんな風に言ってくれた。
あの一文だけが、胸の奥で淡い光を放っていた。
―もしかしたら
私が来なかったことを、気にしてくれるかもしれない。
連絡が取れないことを、不思議に思うかもしれない。
そんな「かもしれない」を、必死にかき集める。
馬鹿みたいだ。
それでも今の私には、その小さな可能性にすがることしかできなかった。
お願い。
助けになんて来なくていい。
ただ、私に気づいて―
声にならない祈りを、胸の奥で何度も繰り返しながら、美咲は、固く目を閉じた。
【7】
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。
眠っていたのか、起きていたのかも曖昧だ。
意識は途切れていないはずなのに、何も考えられず、ただ時間だけが流れていった。
呼吸をするたび、胸の奥がひりつく。
喉はからからで、唾を飲み込もうとしても、うまくいかない。
身体の感覚が、少しずつ遠のいている気がした。
動こうとしたのか、しなかったのかも覚えていない。
気づいたときには、手足は鉛のように重く、床に投げ出されたままだった。
力を入れようとしても、どこから力を入れればいいのか分からない。
このまま、ずっとここにいるのかもしれない。
そんな考えすら、はっきりとは浮かばなかった。
―そのざわつきに気づいたのは、だいぶ後になってからだった。
壁の向こうで、複数の声が重なっている。
低く、落ち着かない調子。
笑っているようにも、焦っているようにも聞こえる。
「…なあ、これ」
「は?」
「ちょっと来いって」
短い言葉が、途切れ途切れに耳に入る。
意味は分からないのに、嫌な予感だけが、じわじわと広がっていった。
しばらくして、部屋の鍵が音を立てた。
ドアが開く。
「おい」
男が近づいてくる気配。
しゃがみ込み、私の目の前に、画面を突き出した。
「これ、お前んちの車じゃねえか」
画面には、ひしゃげた車体の写真。
夜の道路。
赤色灯。
ぼやけた文字。
―事故
―死亡
理解するより先に、視界が揺れた。
「なあ」
男の声が荒くなる。
「お前の親、死んだかもしれねえぞ」
心臓が、止まりそうになった。
声を出そうとしても、何も出ない。
ただ、目を見開いたまま、画面を見つめる。
「答えろよ!これ、お前んとこの親か!?」
肩を掴まれ、乱暴に揺さぶられる。
恐怖と混乱で、頭が追いつかない。
それでも、ゆっくりと――
ほんのわずかに、頷いてしまった。
「…マジかよ」
空気が、一気に変わった。
「おい、どうする?」
「冗談じゃねえぞ」
「今、こいつ持ってたら、俺ら終わりだろ」
犯人たちの声が、次々と重なる。
苛立ちと焦りが、露骨に滲んでいた。
「返すしかねえだろ」
「でもよ、下手したら―」
私の前に戻ってきた男が、顔を近づける。
「いいか、サツには言うなよ」
低く、詰めるような声。
視線が、逃げ場を塞ぐ。
「言ったらどうなるか、分かってるよな?お前の名前も、住所も、全部知ってんだからな」
何度も、何度も頷いた。
それしかできなかった。
ロープが解かれる。
テープが乱暴に剥がされる。
「いいな、お前は今日朝帰りだったんだ。家に帰るまでは何も知らなかったふりをしろ。携帯は…そうだ壊しちまったんだった、悪ぃな」
床に突き放されるようにして、放り出された。
立とうとしても、足に力が入らない。
感覚が、戻ってこない。
床に手をつき、這うようにしてドアへ向かう。
その背中に、あざけるような笑い声が浴びせられた。
逃げなきゃ。
それだけが、頭の中を埋め尽くしていた。
外に出ると、そこは廃倉庫のような建物が立ち並ぶ辺鄙な場所だった。
真夜中の空気が、容赦なく肺に流れ込む。
足がもつれて、転びそうになったが、それでも止まれなかった。
両親が死んだ。
突きつけられた現実を、受け止める余裕はなかった。
―ライも…きっと、一緒に
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥から壊れた音が響いた。
美咲は、逃げるようにその場を離れた。
何も振り返らず、ただ、生き延びるためだけに。
【8】
明け方、まだうす暗い中を、落ち着かない足取りで歩いていた。
夜通し歩いて、何とか家の近くまで来ることができた。
拘束されていた場所から大きな国道へ出るまでは、そこがどこだか全く分からなかった。国道の看板を見て、そこが川崎の外れだということを知った。
そこからはひたすらに都心方面を目指して歩いた。普通に考えたら、歩くわけない距離だった。しかし、男に言われたことが頭にあった私は、人目を避けなければいけなかった。今の私がタクシーに乗ってしまったら、通報されてしまうかもしれない。そうなれば、今度は誘拐では済まないかもしれなかった。
背後からエンジンの音がするたび、全身が強ばる。
もう追われていないことは分かっているのに、足が勝手に止まってしまう。
何度も振り返りながら、やっと見たことのある道に出たときには、体力も気力もとっくに限界だった。
靴擦れで、一歩ごとに足が痛む。夜とはいえ真夏なので、全身が汗まみれだった。額に張り付く前髪が、不快感を増大させる。
そんな満身創痍な状態だったが、ようやく家の前にたどり着くことができた。
見慣れた外観に、安堵の息が漏れる。
しかしそこで、ピタリと動けなくなった。
鍵を取り出しても、差し込むことができない。
ここに入ってしまえば、全部が現実になる気がした。
逃げていたい。
このまま、外に立っていたい。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
夜明けの気配だけが、少しずつ周囲を薄くしていく。
やがて、諦めるように鍵を差し込んだ。
回す指が震えて、金属が小さく鳴る。
ドアが開く。
玄関は、静まり返っていた。
建物自体は、昨日と全く変わらないはずだった。
スリッパも、傘も、そのままなのに。
音だけが、きれいに消えていた。
そこで、ようやく実感が追いついた。
―もう、帰ってこない
母も。
父も。
私は靴を履いたまま、玄関に立ち尽くした。
身体の中が空っぽになったみたいで、息の仕方が分からない。
泣くこともできず、考えることもできず、ただ立っていた。
しかし、そのとき家の奥からかすかな物音がした。
はじめは気のせいだと思った。
けれど、もう一度。
今度は、はっきりと。
小さな足音。
私は、反射的に顔を上げた。
「ママ…ママぁ」
玄関から続く奥の部屋から、確かにそう聞こえた。
それを聞いた瞬間、私は即座に靴を脱ぎ捨て、脚の痛みも忘れて部屋の前まで走っていた。
部屋の扉を開ける。
「どうして…っ!?」
「ママ!」
開けるとそこに、いるはずのないライがいた。
私の姿を見た瞬間、ライの表情がくしゃりと崩れる。
私は反射的に身を屈め、泣き出したライを抱きしめた。
「ライ…どうして…っ!?」
当然、返事はない。泣き声だけが静かな家に響く。
両親が事故をしたと聞いた時、当然ライも車に乗っていると思っていた。誰もいない家にライを一人で置いていくことなど、これまでではあり得ないことだった。
ふと、つけっぱなしになっていた部屋のテレビが目に入る。
ニュース番組だった。
落ち着いたアナウンサーの声が告げる。
『今日未明、神奈川県川崎市で乗用車がガードレールを突き破り、崖下に転落する事故があり―』
私はライを抱きしめたまま、ゆっくりと視線を向けた。
映像が切り替わる。
夜の道路。
赤色灯。
ひしゃげた車体。
説明を聞く前に、理解してしまった。
あの場所。
見覚えがある。
私が、閉じ込められていた場所の、すぐ近くだ。
『車には夫婦とみられる男女2名が乗っており、その場で死亡が確認されました』
喉が、ひくりと鳴った。
画面に映る車は、紛れもなく父の車だった。
ライを抱いた腕に、力が入る。
『警察によりますと、法定速度を大幅に―』
事実を受け止めきれず、ニュースの声が遠くなる。
二人は急いでいた。
それだけは、はっきり分かった。
―迎えに来ようとしていたんだ、私を
胸の奥が、音を立てて崩れる。
視界の端に、部屋の様子が映る。
脱ぎ捨てられた部屋着。
置きっぱなしのスマートフォン。
途中で止まったままの生活。
―ライを置いてまで
私は、ライを抱いたままその場に座り込んだ。
―私は愛されていた
それを、今さら思い知らされる。
どうして、あんな言葉をぶつけてしまったんだろう。
どうして、最後に―
母の顔が浮かぶ。
平手打ちをしたあと、すぐに怯えたように謝った、あの表情。
新しい父の顔も、重なる。
距離を保ちながら、それでも家族であろうとした人。
どうして、あの人まで。
―私のせいだ
そう思わずにはいられなかった。
両親が死んで。
私は、生きている。
そして―
腕の中には、ライがいる。
―この子から両親を奪ったのも、私だ…っ
言葉にならない呻き声が喉から漏れ、私は項垂れた。
涙が、止めどなく溢れてくる。
「…っ?」
そのとき、小さな指がそっと私の服を掴んだ。
顔を上げると、ライが、不安そうにこちらを見ている。
少し間があってから、ぽつりと、一言。
「…おしょろい」
自分の頭を指差しながら、ライは舌足らずな言葉を話した。
視線が、自然とライの髪に向かう。
彼女の髪には、星形のヘアピンが付けられていた。
「おそょろい」
ライがもう一度繰り返す。今度は私の頭を指差しながら。
そのヘアピンと同じものが、今私の髪にも付いている。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
―そうか…
母はこの子に、何度もそう言っていたんだ。
「お姉ちゃんと、”おそろい”だよ」って。
それは、母の中に最後まで私がいたということだった。
ちゃんと並べられていた。
―私は母にとって、要らない存在なんかじゃなかった。
それと同時に、静かな考えが浮かぶ。
ライの中には、まだ母が生きている。
声も、顔も、思い出も。
それを、途切れさせてはいけない。たった一度でも…。
母をこの子の中で、死んだことになんてさせられない。
母は生き続けなければならない。
そのためには…
「ライ…私を励ましてくれたのね、ありがとう」
私は、ライを抱き寄せる。
強く。
「大丈夫…大丈夫だよ」
震える声で、続ける。
「…”ママ”が、ちゃんと守るからね」
逃げ場のない言葉が、口をついた。
それは、決意だった。
ライの母が生き続けるためには、誰かが母に成り替わるしかない。
それは、私にしか出来ない使命だった。
そしてそれは、以前の母と決別する行為でもあった。
触れてはならない、思い出して泣くことすら、今後私には許されない。
本物の母がするはずのないことは、してはならない。
私は、その温もりを確かめるように、何度も、何度も、ライを抱きしめた。
―母は、ここにいる
そうでなければならないと、自分に強く言い聞かせながら。
【9】
そこまで話して、美咲はようやく言葉を止めた。
写真はもう見ていなかった。
テーブルの上に置かれたままのそれから視線を外して、遠くを見つめている。
誰も、すぐには何も言えなかった。
鳴海は、膝の上で組んだ手を見つめたまま、動けずにいた。
頭の中で言葉を探しているのに、どれも軽すぎる気がして、口にできない。
睦歩は、深く息を吸ってから、何も言わずにそれを吐いた。
言葉を挟むことが、今は逆に危ういと分かっていた。
そして…
ライは、美咲の方を見ていた。しかし、視線の焦点は定まっていない。
語られた内容を、頭ではまだ整理できていないだろう。
それでも、胸の奥に引っかかっていた何かの輪郭に、ほんの一瞬だけ触れてしまった―
そんな表情だった。
部屋には、時計の音だけが流れていた。
その音に後押しされるように、美咲はゆっくりと口を開いていく。
しばらく言葉を選んでいる。
思い出を辿っているというより、自分がしてきたことを、順番に確認しているような顔だった。
「…そのあと、警察から連絡が来たわ」
美咲は、そう前置きしてから続けた。
「事故のことを聞かされて…病院に呼ばれて。そこで初めて、ちゃんと向き合うことになった」
両親が亡くなったという事実と。
それが、もう覆らないという現実と。
「警察に…誘拐のことは?」
睦歩が静かに聞く。
美咲は、すぐには答えなかった。
驚いた様子も、戸惑った様子も見せない。
「…聞かれなかったし、私からも言わなかった」
淡々とした声だった。
「そのまま、明るみに出なかった。だからたぶん…犯人も捕まっていない」
睦歩が、言葉を失う。
鳴海も、思わず視線を落とした。
「私がいなくなってた時間は、“説明のつかない空白”のまま、終わった」
美咲は、そう言って小さく息を吐いた。
「だから残ったのは、両親の事故だけ。
向き合うしかない現実は、それだけだった」
美咲は、そこで一度だけ息を吐いた。
「…そのあとも、落ち着く暇はなかった」
静かな声だった。
「取調べとか、手続きとか、相続とか…気づいたら、毎日どこかに呼ばれてた」
事故の説明を求められ、書類に目を通し、名前を書いて、判を押す。
それを何度も繰り返した。
「考える時間は、あまりなかった」
事実だけが、次々と並んでいった。
「保険は下りたし、相続も思ったより早く終わった。
だから、しばらく生活に困ることはなかった」
それは救いだった。
同時に、誰かに頼らずに済む理由にもなった。
「父の会社もね…共同でやってた人がいたの。私が何か判断しなくても、うまく引き継いでくれた」
そこには、感謝も後悔も混じっていない。
ただ、そうなった、という事実だけが語られる。
…でも。
問題がなかったわけじゃない。
「この時点で、私が不安だったのは二つ」
そう前置きしてから、美咲は話し出す。
「一つは…私を誘拐したあの人たちが、捕まっていなかったこと」
声は落ち着いていたが、その言葉の裏にある緊張は隠せていなかった。
「当時の私は、ずっと怯えてた。また、あの人たちが来るんじゃないかって」
偶然すれ違っただけの車。
少しスピードを落としただけの影。
それだけで、心臓が跳ね上がった。
それは、理屈の恐怖ではなかった。
身体が先に反応してしまう、逃げ場のない感覚だった。
「自分の誘拐のことを警察に話していなかったから、彼らが捕まる可能性は低いって分かってた」
淡々とした言い方だった。
「でも、それでも」
美咲は、ほんの少しだけ間を置く。
「毎日ニュースを見てた。小さな事件欄も、地方の記事も…全部」
そこに載るはずがないと分かっていながら、
それでも確かめるのをやめられなかった。
「捕まった、って文字が出るかもしれないって…そんな都合のいいこと、あるわけないのにね」
自嘲するような笑みが、ほんの一瞬だけ浮かぶ。
「それに…少なくとも、私たちの住所や、父の会社のことは筒抜けだった。そういう言い方をしてたから」
あの場所で聞いた言葉。
軽く、世間話みたいに投げられた情報。
「知られてるって分かった上で、同じ場所に住み続ける選択肢はなかった」
美咲は、そう結論づけた。
「当時の家には、どのみち住み続けられなかったの」
権利の関係でね、と美咲は小さく付け足した。
逃げるため。
守るため。
そして何より、
「この子まで、危ない場所に置きたくなかった。だから、この街に来たの」
そこまで言って、美咲は言葉を切った。
決断を説明する声には、もう迷いは残っていない。
それが“正しかったかどうか”ではなく、
そうするしかなかったという事実だけが、そこにあった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「その…」
鳴海が、言葉を探すように口を開く。
「どうして誘拐犯に、そこまで知られてたのかって…」
住所や、父親の会社のこと。
偶然にしては、揃いすぎていた情報。
美咲は、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ視線を伏せる。
「…考えたことはある」
短く、でも曖昧には聞こえない声だった。
「少なくとも、偶然じゃないってことは」
それ以上は言わなかった。
鳴海も、その一言で十分だと感じて、口を閉じた。
その沈黙を、睦歩がそっと掬い上げる。
「二つ目の不安について、お聞きしてもいいですか」
美咲は、すぐには答えなかった。
拒むような間ではない。ただ、決意する時間が必要だった。
「…もう一つは」
ようやく、声が落ちる。
「この子と、離されること」
その一言で、部屋の空気が静かに張りつめた。
「両親が亡くなって、私が未成年だったから…この子をどうするかって話は、当然出たわ」
親戚も。
役所も。
善意を名乗る第三者も。
『施設に入れた方がいいんじゃないか』
『一時的に預けるだけでもいい』
「支援はするから、任せてほしいって……何度も言われた」
どれも、正論だった。
どれも、間違ってはいなかった。
「でも…私には、それが全部」
美咲は、言葉を探すように一度息を吸う。
「“この子から、家族を取り上げる”って言われてるようにしか聞こえなかった」
預けること。
委ねること。
管理を任せること。
それらはすべて、美咲の中で同じ意味を持っていた。
―家族じゃなくなる。
―母親が、ライの人生から消える。
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
「…私はね」
声が、少しだけ震え始める。
「母親でいなきゃいけない、って思い込んでた」
思い込んでいた、というより、縋りついていた。
この子の中から“母”を消さないためには、私が母になるしかないって。
そうしないと…全部、壊れる気がして」
それは外側から見れば、限りなく小さく囲われた線の内側に過ぎなかった。
しかし彼女にとっては、その内側だけが全てだったのだ。
「だから…全部断った」
美咲は、はっきりと言った。
「助けてくれようとした人たちも、
信頼してくれてた大人も、
…正しい選択肢も」
不義理だと、分かっていた。
間違っていると、言われることも。
「それでも、この子を“誰か”に渡したくなかった」
「施設に入れるくらいなら…家族じゃないって言われるくらいなら…」
言葉が、途中で詰まる。
「…私が、全部背負う方を選んだ」
その瞬間だった。
「ごめん…」
美咲の声が、はっきりと震えた。
ライの方を見る。
「ごめんね、ライ。
あなたの人生を…私が縛ったの」
張りつめていたものが、そこで切れた。
「守ってるつもりだった。
母親でいなきゃ、って思ってた。
でも…それが、あなたを苦しめてた」
視線が揺れ、声が掠れる。
「今まで隠してて…ごめんなさい」
初めて、涙が落ちた。
沈黙が続いた。
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
美咲は、しばらく俯いたまま動かなかった。
肩が、ほんのわずかに上下している。
「全部…隠してた。
過去のことも、
本当の関係も。
それから…」
言葉が、途中で詰まる。
「あなたが苦しんでる理由も、ちゃんと見ないふりをしてた」
声が、掠れた。
そこで初めて、美咲はライの方を見る。
「守ってるつもりだった。でも…違った」
一度、息を吸おうとして、うまくいかない。
「…私が、怖かっただけ」
溜め込んできたものが、そこで限界を越えた。
「あなたを失うのが…私の人生から、ライがいなくなるのが」
言葉が、バラバラに落ちる。
「“この子から家族を取り上げる”って言われてる気がしてた。でも…本当は…」
視線が揺れる。
「私からライが取り上げられるのが…怖かった」
その一言で、空気が変わった。
「一人になるのが…また、全部、空っぽになるのが」
唇を噛みしめる。
「母親みたいに振る舞って…強い大人のふりをして…」
声が、震え始める。
「…本当は、ずっと余裕なんてなかった」
ぽつり、と水滴がテーブルに落ちた。
一つ。
それから、もう一つ。
泣き声は上げなかった。
ただ、抑えきれなくなった涙が、静かに零れていく。
「…ごめんなさい」
それだけだった。
言い訳も、続きもなかった。
ライは、すぐには動かなかった。
椅子に座ったまま、美咲を見つめている。
その目には、戸惑いも、混乱もあった。
怒りも、悲しみも、きっとある。
けれど―はっきりした答えは、まだ形になっていなかった。
「…分かんない」
ライの声は、小さかった。
「全部は分かんないよ…。
急に、こんなにたくさん話されて。
今まで、ずっと黙ってたくせに…」
言い切ったあと、自分でも少し強く言いすぎたと気づいたのか、視線を落とす。
「…頭が、追いついてない」
赦しでも、拒絶でもない。
ただの、正直な言葉だった。
少し間を置いて、ライは続ける。
「でも…ママが、嘘ついてたってことは、分かった」
美咲の肩が、びくりと揺れる。
「それと…怖かったんだってことも」
一度、息を吸う。
「それに…そばにいてくれたことまで、嘘だったとは思ってない」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「ずっと一緒だったのは…ほんとでしょ?」
美咲は、何も言えなかった。
それから、ライは静かに言った。
「前みたいには戻れないと思う」
美咲の目から涙が溢れる。
「でも…一緒にいるのが、嫌になったわけじゃない」
それは、優しさでも妥協でもなかった。
ただの、現時点での事実だった。
美咲は、何も言えずに頷いた。
泣きながら。
何度も。
赦しは、まだない。
けれど、明確な断絶もない。
それが、この日の終着点だった。
【10】
玄関へ向かう途中で、鳴海はもう一度リビングの方を見た。
彼らがさっきまで話し合っていたリビングが、今は静まり返っている。それが不思議だった。
あのあと、いくつかの話がされた。
感情をぶつけ合うようなやり取りではなく、必要なことを、必要な分だけ確認する会話だった。
そのうちの一つが、ライのこれからについての話題だった。
しばらく閉じたままにしてきた外の世界に、少しずつ触れていく方向で考えていくこと。
学校に戻るかどうか、今すぐは決めない。
期限も、目標も設けない。
ただ、「戻れなくする選択」だけはしない。
行けるかどうかは、そのときのライの状態を見て判断する。
今は準備段階に入る、という認識で一致した。
美咲は、即答もしなかったが、反対もしなかった。
「考えてみる」とだけ言って、話は終わった。
合意というほどはっきりしたものではない。
けれど、これまで避け続けてきた話題が、初めて“選択肢”としてテーブルに乗った。
それだけで、空気は少し変わった気がした。
外に出ると、すっかり雨も風も止んでいた。嵐はとっくに去っていたようだ。
湿ったアスファルトと夜の空気だけが、昼間が嵐だったことをかすかに物語っていた。
「…長い時間、すみませんでした」
鳴海は美咲の方を向いて言った。
美咲は何も言わず、静かに頭を下げた。
それから鳴海は、ライの方に向き直る。
ライも鳴海を見つめていた。
「…また、河川敷で」
短い一言だった。
確認というより、約束に近い響きだった。
「うん」
ライも、そう短く返した。
それで十分だと、お互いに分かっていた。
最後に一度だけ、振り返る。
ライは玄関に立ったまま、小さく手を振っていた。
鳴海は、初めて会った日の彼女を思い出していた。あの日も、こうやって振り返ってライを見た。
あの日のライよりも、少しだけ大きく見えた。
「…すごい話だったな」
鳴海がそう言った瞬間、張りつめていた空気が、ふっと緩んだ気がした。
家の前を離れて数歩、靴底がアスファルトに馴染む。その感触が、ようやく現実を連れてくる。
「ほんとにね」
睦歩はそう答えて、息を吐いた。
夜の空気が胸いっぱいに入ってくる。
数歩、無言で歩く。
「ねえ」
睦歩が、少し早口で言う。
「あたし、まだドキドキしてるんだけど」
鳴海は思わず横を見る。
「え? さっきまで、めちゃくちゃ冷静だったじゃん」
「は?冷静なわけないじゃん!」
即座に返ってきた。
「必死だっただけだよ」
言いながら、睦歩は自分の胸元を軽く押さえる。
「今になって、心臓が追いついてきた感じ。遅いよね」
「…ああ、終わってから来るタイプ」
「そう、それ」
鳴海は、思わず小さく笑った。
「情報量、多すぎじゃなかった?」
「うん。盛りだくさんすぎ」
「後半とか、俺もう脳みそ追いついてなかった」
「誰でもそうなるよね、あれは」
しばらく歩く。
さっきまでの軽さが、少しずつ足元に沈んでいく。
「…正直さ」
鳴海が、ぽつりと切り出した。
「親戚とか、頼れなかったのかなって……思っちゃった」
責める響きではなかった。
ただ、理解しようとする声だった。
「力になってくれる人は、いたと思う。父方の方も、ライは血縁関係なわけだしさ…」
睦歩はすぐには答えなかった。
数歩分の間を置いてから、静かに言う。
「ダメだったんだと思うよ。あの人にとっては」
「え?」
「“母親”って前提を、守るためには」
一拍、間を置く。
「誰かが入ってきたら、それは崩れちゃうから」
「そうか…」
鳴海は、すぐに返事ができなかった。
少し考えてから、ゆっくり言う。
「…でもさ、あの状況で、いきなり一人になったら…怖くなるのも、分かる気がする」
その言葉は、美咲を擁護しているわけではなかった。
ただ、自分なら正しく在れたかを問いかけているようだった。
「分かる。うん、分かるよ」
睦歩は、小さく息を吐いた。
「でも、それと“正しい”は別」
声は落ち着いていた。
突き放すでも、責めるでもない。
「結果的に、ライちゃんは追い詰められた」
鳴海は、視線を落としたまま歩く。
「…だから今日、ああなったんだと思う」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
重たい沈黙ではない。
飲み込むための、間だった。
「ライ…アイツ、頑張ったよな」
鳴海が言う。
「うん」
睦歩は即答した。
「大人でも、あの場でああいう言葉は出せない」
少し間が空く。
「まだ大丈夫かは、分からないけど」
「…でも、逃げなかった」
鳴海のその言葉に、睦歩は何も言わず、ただ頷いた。
夜道は静かで、街灯の間隔だけが一定だった。
ふっと、張りつめていた何かが切れたようだった。
小さい悲鳴とともに、彼女の身体が傾く。
「おい」
鳴海が反射的に腕を伸ばす。
睦歩の肘を掴んだ。
「…あ」
一瞬、体重が預けられる。
「ごめん…大丈夫」
そう言いながらも、睦歩はすぐには離れなかった。
鳴海の腕に触れたまま、ゆっくりと呼吸を整えている。
あの部屋で、誰よりも冷静でいようとしていた反動だった。
感情がぶつかる場で、誰かが崩れないように。
言葉が刃にならないように。
自分の感情を、後回しにしたまま。
「ずっと気持ち、張っててくれたもんな」
「さすがに…疲れちゃったかも」
「…ありがとう」
鳴海は、腕を下ろさなかった。
睦歩は視線を合わせたまま、少しだけ間を置いてから言う。
「…このまま…手、握ってていい?」
いつもより歯切れが悪かった。
鳴海は一瞬、言葉に詰まる。
「…うん」
指先が触れて、ためらいが伝わる。
そのあと、睦歩がそっと指を絡めた。
強くもなく、縋るほどでもない。
ただ、今は一人で立ちたくない―そんな握り方だった。
「…ありがと。すぐ離すから」
照れ隠しみたいに、前を向いたまま言う。
まるでその言葉が聞こえなかったように、鳴海は絡み合った手を深く握り直していた。
二人は、そのまま歩き続けた。
いつも別れる交差点が、近づいてきていた。
睦歩と一緒に帰る時、そこを意識しない日はなかった。
―そろそろ、か?
鳴海の意識は、ずっとそこに引っ張られていた。
繋いだままの手。
どのタイミングで離すべきか、さっきからそればかりを考えている。
出来ることなら、ずっと繋いでいたかった。
でも遅すぎると、変だし。
自然な流れで…という言葉が一番あてにならないことを、今さら思い知る。
足取りは普通のはずなのに、頭の中だけがやけに忙しい。
胸の奥が落ち着かない。
先ほどまでとは全く別の緊張感を感じていた。
交差点に着く。
街灯の光が、白く歩道を照らしている。
―今だ
鳴海は、そう思った。
思った、はずだった。
けれど、睦歩の手は離れなかった。
一拍。
もう一拍。
遅い。明らかに不自然だ。
「…睦歩?」
違和感に耐えきれず、鳴海は横を見る。
不意に、目が合った。
街灯に照らされた睦歩の顔は、真剣な表情をしていた。
照れも、戸惑いもない。
さっきまでの柔らかさが消えて、何かを決めた人の目をしている。
鳴海は、何も言えなかった。
手を離すことも、視線を逸らすこともできない。
その沈黙を破ったのは、睦歩だった。
「あのさ…」
声のトーンが、少しだけ変わった。
さっきまでの真剣さとは違う、探るみたいな響き。
「来月なんだけど、ちょっと行きたいところがあって…」
鳴海の心臓が、分かりやすく跳ねた。
「…え?」
不意を突かれて、間の抜けた声が出る。
「え、なに、急にどうした?」
睦歩の方は、何でもないことみたいに続ける。
「日程はまだ全然決めてないし、一日だけでいいんだけど」
繋いだ手が、微妙に熱を持つ。
「…鳴海、予定空いてる日とか、ある?」
質問の形をしているのに、妙に距離が近い。
街灯の下で見る睦歩の表情は、いつもより少しだけ艶っぽかった。
「…いいよ」
自分でも驚くくらい、即答だった。
「え、ほんと?よかった!」
睦歩が声を弾ませる。
「じゃあさ、行き先なんだけどね―」
そこで、ほんの一拍を挟んで睦歩は言う。
「…成果さんのとこ」
鳴海は、ぴたりと足を止めた。
「…は?」
その名前がどうして出たのか、理解ができなかった。
「ちょ、ちょっと待って!それはズルいよ」
思わず、そんな言葉が口をついた。
「デートっぽく誘っといて、それはないだろ」
睦歩は、少し困ったように笑った。
「だって、こうでもしないとちゃんと聞いてくれないでしょ?」
「だからってさ…」
鳴海は、視線を逸らす。
「ライちゃんと美咲さん、今日ちゃんと向き合ってたでしょ。だから思ったの」
手も、離さない。
「…私たちも、そろそろいいんじゃないかって」鳴海は、視線を落とす。
「…今だって、向き合ってる」
絞り出すような声だった。
睦歩は、少しだけ首を傾げる。
「ずっと、そのままでいいの?」
鳴海の喉が、詰まった。
「俺、酷いこと言ったんだ、アイツに」
「うん。知ってるよ」
「だったら…取り返しつかないって、分かるだろ」
睦歩は、静かに言う。
「いつまで続くの?」
鳴海は、首を横に振った。
「…終わらない」
小さな声だった。
「俺の中では、ずっと」
少しだけ、風が吹く。
街灯の光が揺れる。
「でもさ」
睦歩は、優しくも強くもない声で言った。
「美咲さんとライちゃんは、今日それを終わらせたよ?」
鳴海が、ハッと顔を上げる。
「間違ってたって分かってても、それでも、全部抱えたまま、向き合った」
睦歩は、鳴海を見る。
「考えるだけでもいいから」
鳴海は、黙っていた。
繋いだ手に、力がこもる。
「…答え、待っててもいい?」
鳴海は、静かに頷く。
睦歩は、それ以上何も言わなかった。
ただ彼の手を、ほんの少しだけ強く握り返していた。
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