第十章(過去)
【1】
【12月】
成果さんの容態のことをはっきり知ったのは、11月の半ばくらいだった。
その少し前から、何かがおかしい気がしていた。前の週の途中から、なるちゃんが突然学校を休んだからだ。週のはじめには、成果さんと外出したことを嬉しそうに話していたのに。
クラスの保健日誌を見ると、欠席理由は「体調不良」だった。その時は、はしゃぎすぎて風邪を引いたんだなと思った。
でも、週が明けてもアイツは学校に来なかった。そこで、ようやく確かな違和感を感じた。
家が近所だったので、帰りにお見舞いに行くと、おばさんが迎えてくれた。本人は不在で、総合病院に行っているとのことだった。
驚いて「なるちゃん、そんなに重症なんですか」と聞くと、おばさんは顔を横に振った。それから、ゆっくりと事情を説明してくれた。はっきり聞き取れたけど、途中からおばさんの言葉が頭に入らなかった。
その話を聞くと、すぐに家に帰って病院に向かった。頭の整理をしている時間はなかった。ただ、何かまずいことが起こっているという焦りが空回りし続けていた。自分が悪い方向に勘違いしていて、病院に着いたら思っていたほどの状況ではなかった、という可能性ばかりに期待していた。
でも、そうではなかった。こんなときだけ、あたしは何も勘違いしていなかった。
いつもの病室に、成果さんはいなかった。ICUという、重症患者のための集中治療室に移されたらしい。その部屋はガラスで仕切られていて、中に入っての面会は出来ないと言われた。
その部屋の前に行くと、なるちゃんの背中が見えた。後ろ姿を見ただけで、心がギュッと締め付けられた。
なるちゃんは、ガラス越しの室内を見つめたまま動かなかった。
あたしは声をかけようとして、やめた。今は話しかける言葉を見つけられそうになかった。
ガラスの向こうには、白いベッドと、たくさんの機械があった。
成果さんはベッドで静かに眠っていた。酸素マスクをつけてはいるが、それさえなければこの間までと変わらないように見えた。
機械の音だけが、規則正しく耳に入ってくる。
しばらく、なるちゃんの隣から動けなかった。
「苦しくはないんだって」
なんの脈絡もなく、彼は言った。いつも診てくれているお医者さんから聞いたらしい。
その言葉は、救いを求めているようにも、自分を責めているようにも聞こえた。あたしはうまく返事ができなかった。
それからは、まるで時間が止まったかのような日々が続いていた。世間はクリスマスムードで染まりつつあったけど、それを一緒になって楽しむ気分にはなれなかった。
なるちゃんはしばらくして学校に来るようになったけど、表情はずっと暗かった。放課後は毎日、病院に通っているらしい。
「そういえば、これ」
ある日の教室で彼が手渡してきたのは、一冊の絵本だった。そういえばあのとき、「貸して」と言ったことを思い出した。そう言ったのは、仲直りさせる口実だったけど、とりあえず受け取ることにした。
この本は結局、ずっと成果さんの病室にあったらしい。近々病室が他の患者さんに明け渡されることになったため、引き上げてきたという。仲直りの後、成果さんがどうしてすぐに返さなかったのか理由は分からないけど、単純に忘れていたのかもしれない。
家に帰ってから、その絵本をパラパラとめくった。生まれつき目にキズがある黒猫の物語だった。大体の雰囲気は記憶にあったけど、ラストの展開だけがうろ覚えだった。
途中までは、懐かしい気持ちで読んでいた。昔読んだときの記憶も徐々に思い起こされる。
でも、ラストに差し掛かったところで、手が止まった。
文字を追っているだけなのに、胸の奥が落ち着かない。
…こんな話だったっけ。
もう一度、同じページを見る。
それでも違和感は消えなかった。
あたしは、そこで本を閉じた。しばらくそのまま動けなかった。
成果さんは、どんな気持ちでこの物語を読んだんだろう…
胸の奥に残ったざらつきが、どうしても拭えなかった。
『黒猫ルナと虹の架け橋』
生まれつき目のよくない、黒猫がいました。
名前はルナと言いました。
ルナの目には、生まれつきキズがありました。
そのせいで、目に映るものはみんな白か黒でしか見えません。
色のちがいが、うまく分からなかったのです。
そのせいで、ルナはいつもあぶない思いをしていました。
だから、あかるい昼間は外に出ず、
くらい隠れ家の中で、じっとして過ごしていました。
ルナが外に出るのは、夜だけでした。
どうしてか、夜の空に浮かぶお月様の光だけは、ちゃんと見ることができたのです。
ほかの猫たちは、そんなルナを見て笑いました。
「昼間は楽しいのに」
「日向ぼっこって、知らないの?」
そう言われても、
ルナには、とてもできそうにありませんでした。
ある日の昼間のことです。
ルナが、いつものように隠れ家で眠っていると、
仲間の猫が、あわてた様子で駆けこんできました。
「たいへんだ!」
「大雨で、みんなが動けなくなってる!」
突然の大雨と、激しい雷で、
何匹もの猫が、にげ場のない場所に取り残されてしまったのです。
ルナは、しばらく考えました。
こわくて、不安で、
足がすくみそうでした。
それでも、ルナは決めました。
ルナは、勇気を出して外へ出ました。
見えにくい目で、
雨の中を、必死に進みました。
すべって、ころんで、
たくさんからだをぶつけました。
それでも立ち上がって、
ルナは仲間を一匹ずつ助け出しました。
その頑張りのおかげで、無事仲間を助け出すことができました。
気がつくと、
みんながルナに感謝をしていました。
そして、今まで笑い者にしていたことを謝りました。
雨は、いつのまにかやんでいました。
雲のあいだから光がさして、
空には、大きな虹がかかりました。
七つの色がならんだ、きれいな虹です。
そっと顔を上げると、ルナはビックリしました。
その目には、虹の色がちゃんと見えたからです。
はじめて見る色でした。
でも、なぜだか、なつかしい気もしました。
そのとき、ルナは気づきました。
ルナは、目が悪かったわけではありません。
ただ、夜にしか外へ出ず、
色を見ようとしていなかっただけなことに。
ルナは、しばらくのあいだ、
その虹をじっと見ていました。
ルナの胸の内側は、
いつもより、
すこしだけあたたかくなっていました。
それがなぜなのかは、
ルナにもよく分かりませんでした。
ただひとつだけ、たしかなことがあります。
あの日のあと、
ルナはもうひとりぼっちじゃなかった、
ということです。
虹はゆっくり、空から消えていきました。
【2】
【3月】
長い冬がようやく終わり、学校は春休みに入っていた。
夕ご飯を食べ終わった頃、家の電話が鳴った。ママは出る気が無さそうだったので仕方なく受話器を取ると、相手は鳴海のお母さんからだった。
「睦歩ちゃん、最近病院行った?」
そう質問された瞬間、嫌な汗がおでこを伝うのを感じた。
この数ヶ月、成果さんの意識はずっと戻らずにいた。定期的にお見舞いをするようにはしていたが、春休みに入ってからはまだ行っていなかった。
「そう。ちょっと気になって」
「なるちゃん、何か言ったんですか?」
「何も…。ただ昨日から、少し」
それは親にしか気づけない、小さな違和感だったんだと思う。
春休みに入って、なるちゃんと毎日顔を合わせることがなくなっていた。でももし会っていたとしても、あたしに気づけたかは分からない。
「今でも…病院に行ってますか?」
そんな質問をしてみたものの、答えを聞く必要はなかった。
「明日、あたしも行ってみます」
そう言って電話を切ったあとも、なぜだか胸騒ぎは収まらなかった。
まだ午前中なのに、その日の病院はやけに騒がしかった。
お医者さんや看護師さんが、難しい言葉を話しながら慌ただしく動き回っている。
何が起こっているか考えないまま、成果さんのいる病室に向かった。考えると、足が止まりそうになると思った。
そう思ったということは、あたしはずっと前からこうなることに気づいていたんだ。けれど気づかないふりをした。恐くて、必死に耳を塞いでいた。
でももう、向き合うしかないところまで来てしまった。
階段を一段ずつ上がっていくと、徐々に目線と上の階の廊下が水平になる。視界がひらけたその先に、彼の姿があった。
「鳴海!」
思わず彼の名前を呼んだ。
彼は振り返らない。
駆け寄って隣に立ち、ガラスの向こうの成果さんを見た。
身体には酸素マスクだけでなく、たくさんのチューブがつながれていた。その先につながっている機械から、いつもよりうるさい音が鳴っていた。
そしてその周りを、大勢の人が取り囲んでいた。でもそれはお医者さんではなかった。
成果さんのご両親をはじめとした親族、いとこ、同級生など、数多くの人が集まっていた。
彼らは集中治療室の中にいた。成果さんの手を握り、声をかけ、涙を流していた。
それを鳴海は、ガラス越しに虚ろな目で見つめている。その間には埋めようのない距離があるように見えた。
「アンタ…それ…っ」
それを見て、目の前が真っ暗になりそうだった。
彼の両手には、カップのアイスクリームが二つ握られていた。
その時はじめて、今日が31日だということに気づく。彼は今でも毎月、成果さんとの習慣を続けていたのだと分かった。
「鳴海くんたちも、そばに来てあげて」
成果さんのお母さんがそう言って、中に入れてくれた。
中に入ると、空気や音がより現実味を増した気がした。
「成果に、声をかけてあげて」
そう言われた鳴海にあたしがしてあげられたのは、そっと彼の手にあるアイスを預かることだけだった。
ベッドの脇に立った彼は、しばらく応えられなかった。
鳴海の性格は分かっていた。彼は言いたいことが無いわけなかった。でも言えないんだ。ここは彼にとって安全な場所ではないから。
ーごめんなさい
ただひと言、彼はそう口にした。
消え入るようなその言葉を聞いた時、何かがあたしの胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。
初めて会ったあの時の、成果の声だった。
「重荷を背負わせちゃうかもしれない」
あれは…こういうことだったんだ。
どうしてあのとき、深く考えなかったんだろう…。いや、考えたところで、断ることなんてできただろうか。
そんなどうにもならないことを、ずっと頭の中で転がし続けていた。
その後も誰かが何かを言ったりしているが、何も耳に入ってこない。
ふと、手に持ったアイスカップを覗き込む。アイスクリームはとっくに溶けてしまっていた。
たくさんの人に囲まれながら、成果さんは静かに息を引き取った。
【3】
【4月1日】
成果さんのお通夜には、鳴海と二人で行くことになった。
こういうときのためのちゃんとした服はなかったから、持っていた服のなかで一番暗い紺色のワンピースに着替えた。
「うん、可愛い」
娘の髪をピンで留めると、鏡越しのママは優しく笑って言った。笑顔を返したけれど、同じ鏡に映った自分の笑顔はぎこちなかった。
昨日のことは、まだ整理がついていなかった。思い出そうとしても、うまく一つにつながらなかった。病院の白さも、機械の音も、鳴海の細い声も…それぞれがバラバラのまま、胸の奥に沈んでいる気がした。
今すぐ、何もかも放り出してしまいそうだった。でもあたしにはできない。
ー小指に残った指切りの感触を、忘れたことになんて
「ただ、そばにいてあげればいいわ」
出かける前の玄関で、ママはそう言って抱きしめてくれた。
鳴海の家まで行き、車に乗せてもらって式場へ向かった。
車の中で、鳴海と短いあいさつを交わした。会話はそれだけだった。
式場に着くと、まだ式の30分以上も前なのにたくさん人が集まっていた。皆一様に、黒色の堅そうな服を着ていた。知らない顔がほとんどだ。
成果さんの親戚なのか、学校の人なのか、区別がつかなかった。
誰も騒いでいないのに、空気だけがざわざわしていた。
昨日の病院と、よく似ている気がした。
鳴海と並んで立っているはずなのに、周りから切り離されたみたいな感覚だった。
ここにいる全ての人が、自分たちよりずっと成果さんのことを知っている気がした。
じゃああたしたちは、どうしてここにいる…?
たぶん鳴海も、似たようなことを感じていたと思う。
時間がきて式が始まっても、その感覚は消えなかった。
遺影に写る成果さんは、高校の制服を着ていた。それは、あたしたちの知らない成果さんだった。
周りから浮いている気がして、なるべく目立たないようにふるまった。お焼香のやり方も、前の人を参考にしてそつなくこなした。そうしているうちに、何も残らないまま時間だけが過ぎていった。
「二人とも、来てくれてありがとう」
通夜の後、成果さんのお母さんが話しかけてくれた。
あたしたちは、そろって頭を下げた。
「成果ね、あなたたちの話をよくしてたの」
そう言って、お母さんは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「二人の学校のこととか…あと、アイスのこととかね」
鳴海はそのあいだ、ずっと俯いていた。
「前より笑うことが増えた気がして」
思い出をそっとなぞるみたいな声だった。
「ありがとう」
お母さんは、静かにそう言った。
鳴海の肩が、わずかに揺れる。
「…これから、つらいと思うけど。いっぱい食べて、ちゃんと寝て。元気でいてね」
少し間があって、鳴海はほんの一瞬だけ顔を上げた。
「…はい」
声は小さくて、かすれていた。
返事というより、形だけの音みたいだった。
すぐにまた、視線は下に落ちた。
顔を見てあげて、というお母さんの言葉を受けて、二人で棺の前に立った。
棺の中では、静かに成果さんが眠っていた。
真っ白な肌は、病室のベッドで寝ていたときと変わっていないように見えた。少し肩を叩けば目を開けて、「おはよう」って…。
とうとう我慢できなくなった。顔を手のひらで隠して、なんとか声を出さないように頑張ったけど、こみ上げてくるものを抑えることはできなかった。
服の袖で涙を拭うと、鳴海の横顔が目に入った。
彼は泣いていなかった。まばたきもせず、ただ棺の中を見つめていた。
まるで、そこにしか世界が残っていないみたいに。
「カフェオレなんて混ぜたからだ…」
彼が呟いた言葉の意味を、理解することはできなかった。
そのあと、二人で静かに式場を出た。
外に出ると、空気がひんやりしていた。敷地内に植えられた桜はまだ開花してなくて、蕾のままだった。
迎えが来るまで、少し並んで待つことになった。
「カフェオレなんて混ぜたからだ」
棺の前を離れてからも、さっきの言葉が頭に残っていた。
意味は分からない。でも、聞かなかったことにはできなかった。
「さっきのさ…」
そこまで言って、言葉が続かなかった。
鳴海は、あたしを見なかった。
足元を見たまま、ぽつりと言った。
「アイスに、カフェオレをかけるんだよ」
「カフェオレ…?」
その話し方は、どこか淡々としていた。静かだったけど、間違いなく何かが崩れていくような。
「最後まで、美味しくないって言ってたよ」
鳴海は、自分を嘲るように小さく息を吐いた。
「美味しいわけないよな…甘さと苦さなんて、真逆の組み合わせだ」
独り言みたいだった。でも、それはたぶん、ずっと胸の中で繰り返してきた言葉だった。
「最初から混ざっちゃダメだったんだ。白いままで、よかったんだよ」
この4ヶ月間、何度も何度も…。
「…俺が、無理やり混ざったんだ」
声が、かすれた。でも、止まることはなかった。
「俺がアイツを苦しめたんだ。同じような顔して近づいて…希望なんて見せるべきじゃなかった」
そこで、鳴海は一度言葉を切った。
これ以上続けたら、壊れると分かっているみたいに。
「見当違いな本なんて貸してさ…虹が見える話なんか…」
「それはちがう!あれは…!」
思わず言い返そうとするが、言葉に詰まる。今はどんな言葉も、彼には届かない。
「俺…『すぐ治る』って言っちゃったんだ」
最後にそれだけは、はっきり聞こえた。
鳴海は、やっと顔を上げた。でも、あたしを見ていなかった。
これからずっと彷徨う夜の、空に浮かぶ月を見つめているようだった。
次の日の告別式に、鳴海は来なかった。
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