第九章 前半(現在)

【1】

【2月2日】

 非常階段の踊り場で、二人は並んで立っていた。

 コンクリートの壁が冷たく、話し声は自然と低くなる。

 鳴海は、手すりに指を掛けたまま、視線を落としていた。

「…そんなこと、あったんだ」

 睦歩が、ぽつりと言う。

 驚いたというより、飲み込むまでに時間がかかった声だった。

 週末の1月31日に河川敷で起きたことを、鳴海は淡々と並べた。感情を挟む余地がないくらい、事実だけを。

 迎えに来た車の音。

 ライの取り乱した声。

 平手打ちの音。

 そのあと、連絡が途切れたこと。

「正直、頭が追いつかなくて」

 鳴海が感じたのは、苦痛とも後悔とも言えない感覚だった。

 成功でも失敗でもなく、そっとハシゴを外されたような虚無感だった。

「まず、鳴海は悪くない。アンタはただ、約束を守っただけ」

 睦歩は、まだ夕陽に染まりきっていない空を見ながら言った。はっきりした口調だった。

「おかしなこと言ってる?あたし」

 ポカンと口を開けた鳴海に、睦歩は訝しげに聞いた。

「いや、そうじゃないけど…」

「言っとくけど、全部を正しいとは思ってないから」

 睦歩はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

「ただ、考え方を変えることにしたの」

 それだけ前置きして、鳴海の方を見る。

「変えた?」

「うん」

 睦歩は、それ以上説明しなかった。

 理由も、きっかけも言わない。

「これからは、一緒に考えたい」

 鳴海は、一瞬だけ言葉を失った。

 睦歩は、すぐには続けなかった。

 少しだけ間を置いて、鳴海の方を見る。

「全部を解決できるとか、そういう話じゃないよ」

 諭すような口調ではなかった。

 むしろ、自分にも言い聞かせているみたいだった。

「正しい答えが出るとも限らないし、遠回りもすると思う」

 睦歩は、もう一度鳴海の方を見た。

「でもさ、鳴海だけに考えさせるのは、もうやめたい」

 非常階段に、冷たい風が吹き抜ける。

 鳴海は、手すりに掛けていた指に力を込めた。

「それは睦歩にとって、迷惑じゃない…?」

 睦歩は、すぐには答えなかった。

 一拍置いてから、肩をすくめて笑う。

「今さらでしょ」

 鳴海はその笑顔から、目が離せなかった。

「…ありがとう」

「じゃあまずは、できることから考えよう。今できることを」

 答えはまだない。

 でも、考えるのは、もう一人分じゃなかった。



【2】

【2月7日】

 次の週末、ファストフード店の窓際の席で、鳴海と睦歩は隣合わせに座っている。

 鳴海はスマホを操作しながら、眉間にしわを寄せていた。


『不登校 原因』


 そんなワードで検索した結果画面に並ぶのは、見慣れた言葉ばかりだった。


 学校でのトラブル

 本人の性格

 環境の変化


「…どれも、違う気がする。ライの話と、噛み合わない」

「うん」

 睦歩は紙ナプキンを指で折りながら頷いた。

「学校が嫌って感じじゃなかったし、外にも出たがってた」

 鳴海は検索ワードを消して、別の文字を打つ。


『誘拐 被害者 その後』

『外出 トラウマ』


 記事はいくつも出てきたが、決定的なものはなかった。

「ライ本人に誘拐された記憶はないって言ってたしなぁ」

「そもそも河川敷に来れてるし」

 鳴海はスマホを伏せた。

 少し考えてから、ぽつりと言う。

「…31日さ、あの人俺に言ったんだ」

「あの人って、ライちゃんのお母さん?」

 鳴海は頷き、言葉をなぞるように続けた。

「『この子は、友達とかそういうの求めてないから』って」

 それを聞いた睦歩は、折っていた紙ナプキンをクシャッと握りつぶした。

「…それ、決めつけじゃん?」

「だよな」

 鳴海は小さく頷いた。

「ライは求めてた。だから俺に話しかけてきたんだ」

 だから会ってた。

 だから隠してた。

「なんかモヤモヤするんだよなぁ」

「なにが?」

 鳴海は煮え切らないように答える。

「母親を見たとき、なんか引っかかったんだ…上手く言葉にできないけど」

「あれじゃない?最近よく言う…”毒親”ってやつ」

 睦歩が言う。

 鳴海は素早くスマホをスワイプして検索する。


『毒親』


 画面に並ぶ説明文を読みながら、鳴海は小さく息を吐いた。


 過干渉

 支配

 子どもの交友関係を制限する


「…ぽいな」

「31日の言動も、かなりそれっぽい」

 スクロールすると、似た体験談が続いた。


 友だちを遠ざけられた

 外出を止められた

 親の言うことが絶対だった


「これなら説明つくよな、ライが学校行けてないことも」

 鳴海が言う。

「うん。…でも」

 睦歩は頷きかけて、止まった。

「…あたし、すごく性格悪いこと言っていい?」

「…なに?」

 睦歩はしばらく言い淀んでいた。

「…ライちゃんにも、おかしいとこあった気がするの」

 とても言いづらそうな様子で、睦歩は言った。

「おかしい…?」

「あの時…河川敷で初めて会った時、あの子、鳴海を庇ったでしょ」

 曖昧な言い方だった。それでも、鳴海は何のことを言っているのかハッキリ理解できた。

「『わたしがココがいいって言ったんです』、か」

 それは、睦歩が鳴海の場所選びを指摘した時の会話だった。二人が口論になりかけたのを、ライが仲裁した。

「鳴海も憶えてたんだ…」

「うん…だって嘘だったんだよ、あれ」

「…やっぱり」

 ライとそんな会話になったことはなかったと、鳴海は言った。

「何であんな分かりやすい嘘付くんだろうって思った。正直言うと、最初はあたしへの当てつけかと思ったくらい」

「当てつけ?」

 睦歩は呆れたように笑う。

「ニブいなぁ。アンタのことを庇ってる“わたしの方が上”って言われてる気がしたってこと」

 そう話す睦歩の目は、先ほどまでより少し達観していた。

「アイツはそんなこと…」

「だから最初だけ。すぐに違うって気づいた」

 情報を整理するような間を置いてから、鳴海が言った。

「結果、違和感だけが残ったままになった、と」

「そう、何であんな嘘付いたんだろうって」

 それは、拭いきれない可能性だった。

「ライにも、何か原因がある…?」

「うん…少なくとも、毒親って言葉だけだと、一方的すぎる気がする」

 鳴海は黙っていたが、やがて手が動いた。

「こういうのはどうだろう?」

 そう言って、別のワードを入れる。


『親子 離れられない』


 しばらくして、二人とも同じ画面で指を止めた。


ー共依存


「…”共依存”、か」

 睦歩が小さく言う。

 断定ではなかった。

 確認するような響きだった。

「これ、かもしれない」

 鳴海も、同じ温度で言った。

「親が原因、でも子どももその関係の中にいる」

「縛られてるっていうか」

 鳴海は画面を見つめたまま言う。

「それが普通になっちゃってる」

「少なくとも、どっちか片方の問題じゃないよね」

 鳴海は何も言わず、ただ画面を見つめていた。

 それ以上、話は続かなかった。




【3】

【2月15日】

 総合病院のエントランスは、以前と何も変わっていなかった。

 白い床、天井の高いロビー、消毒液の匂い。

 それだけで、胸の奥がざわついた。

 鳴海は立ち止まりそうになる足を無理やり前に出した。

 鳴海が総合病院に来たのは、「共依存」について専門的な話を聞く必要があると思ったからだった。この日は睦歩が部活だったため、鳴海一人である。

 ネットで調べて分かることには、限界があった。言葉は見つかっても、それが正しいのかどうかまでは分からない。

 自分の周りで、こういうことを相談できる人は思い浮かばなかった。

 たった一人、かつてお世話になった主治医の先生になら、打ち明けられるかもしれないと思った。

 成果の件以来、ここに来るのは初めてだった。

 あの日を境に病院を変え、主治医とも会わなくなった。

 逃げた、という感覚はあった。そんな自分がどんな顔で会いに行けばいいかも分からなかった。

 けれど、今は逃げている場合ではない。

 受付で訪問理由を伝えると、先生は在席しているようで、会ってもらえることになった。

 まずは安心した。不在や、そもそも病院を移っている可能性も考えていたからだ。

 案内された診察室は、昔と同じ4階だった。

 部屋の前で深く息を吐いてから、ノックをした。

「どうぞ」

 ノックをすると、懐かしい声が返ってきた。

「失礼します。お久しぶりです、先生」

 診察室の中は、記憶のままだった。

 机の位置も、壁のカレンダーも、雑多に積まれた資料も。

 久々に会う主治医の先生も、あの頃と大きくは変わっていなかった。相変わらず変な色のネクタイをしているが、昔のように軽口は叩けそうにない。唯一の変化といえば、椅子から立ち上がった先生の背中が、少し丸くなっていたことくらいだった。

「おお…」

 先生は鳴海の顔をまじまじと見てから、ガハハと笑った。

「見ないうちに、ずいぶん大きくなったなぁ」

「…先生もお変わりなさそうで」

「それっぽいことを言うようになったじゃねえか」

 先生はそう言って、また大胆に笑った。

「その…あの時は突然すみませんでした」

 鳴海は、急に病院を変えたことを謝罪した。これだけは、言っておかなければいけないと思った。

「もう、肺は良くなったか?」

「え…」

「喘息だよ。ゼェゼェしてたろ」

「…はい、今は問題ないです」

「そうか、それならよかった」

 しかし先生はそれだけ聞いて、それ以上は何も言わなかった。

 鳴海が戸惑っていると、先生は自分のネクタイを指で弾いた。

「そういや昔は、よくこのネクタイを馬鹿にされたもんだ」

 鳴海は苦笑いをした。憶えていてくれて嬉しい反面、忘れていてくれればよかったと思った。

「…変わってませんね」

「変わった部分もあるし、変わらん部分もある」

 先生はぶっきらぼうな調子で言った。

「人はな、時間が経っても別物になるわけじゃない。積み重なって、形が変わるだけだ」

 それから、少しだけ表情を引き締める。

「いきなり説教かよってな。

 で、今日は何だ。まあ座れ」

 鳴海は案内された椅子に腰を下ろし、言葉を選びながら話し始めた。


 不登校の少女のこと。

 過剰な保護。

 外に出られなくなった経緯。

 昨月31日の出来事。

 そして、調べる中で辿り着いた言葉。


「…”共依存”、かもしれないと思って」

 先生はすぐには反応しなかった。

 しばらく鳴海の顔を見つめてから、ゆっくりと頷く。

「その可能性はあるな」

 否定でも、断定でもない声音だった。

 先生は椅子の肘掛けにもたれ、天井を一度だけ仰ぐ。

「過干渉だの、PTSDだのって言葉も、当てはまる部分はある」

 そこで一拍置いた。

「だがな、それはあくまでも入口の話だ」

 鳴海は黙って聞いていた。

「親だけが悪くて、子どもが被害者。

 その構図で止めると、見誤る」

 先生は、指で机を軽く叩いた。

 視線が、鳴海に戻る。

「子どもも、その関係の中で役割を持つ。

 守られている、必要とされている、

 そう感じることで、世界が成立してしまうこともある」

 鳴海の脳裏に、ライの姿が浮かんだ。

「そこに気づいたのは立派だ」

 先生は、短くそう言った。

「だからこそだ。その関係を壊そうとするのは違う。

 壊せば、必ず反動が来る」

 31日の光景が、はっきりとよみがえる。

 乾いた平手打ちの音。

「ひとつ聞こうか」

 先生は鋭い眼差しで鳴海を見た。

「お前の目的は何だ?

 何のために、その子の問題に関わろうとする」

「俺の…目的…」

 鳴海は、すぐに答えを出せなかった。

「それを自分のなかで決めておくことだ。

 答えは一つじゃないからな」

 そして、少しだけ声を落とした。

「ただし、これだけは釘を刺しておく。

 もし『助けたい』なんて言葉が出るようなら、お前さんはまた苦しむことになる。

 そこの線引きだけは、間違えるなよ」

 そう言われた鳴海は息を呑んだ。

「…助けたいって思うのは、間違いなんでしょうか?」

 鳴海は、震えそうな声で聞いた。

 先生は即答しなかった。だが、目は逸らさない。

「人としては間違ってない。

 だが俺は、役割の話をしている」

 机に置かれた指先が、軽く音を立てる。

「その役割を背負えるのは、お前じゃない。

 背負うべきじゃないし、背負う必要もない」

 鳴海は、唇を噛んだ。

「では…何もできないってことですか」

「できることがあるかどうかも含めて、考えるんだ。

 それが、お前が見つけるべき目的ってやつだ」

 それ以上は、踏み込まなかった。

「お前は、本当に優しい子だ」

 不意に落とされた言葉に、鳴海は顔を上げる。

「だがそれゆえに、相手の痛みを自分の責任だと思ってしまう」

 先生は、視線を外して続けた。

「優しさは、使い方を間違えると人を壊すぞ」

 一呼吸置いて、付け加える。

「俺に言えるのは、ここまでだ」

 鳴海は、しばらく何も言えなかった。




【4】

【2月下旬】

 夕食を食べ終えたあと、食卓には重たい沈黙が残っていた。

 テレビの音だけが、やけに明るく響いている。

「ねぇ…」

 持っていた箸を机に置いた後、ライが切り出した。

「いつになったら、スマホ返してくれるの?」

 母は食器を重ねながら、視線を向けない。

「返したら、またあの子と連絡取る気でしょ?」

「しないよ」

 ライはすぐに答えた。

「もう…しないから」

 母は、すぐには返事をしなかった。

「…そう言うと思った」

 感情を挟まない声だった。

「じゃあ、教えて。彼って、どんな子なの?」

 ライは一瞬、戸惑った。

 けれど、ここだと思った。

 ちゃんと話せば、分かってもらえる。

「優しい人だよ。話、ちゃんと聞いてくれるし、ペースも合わせてくれる」

 母は相槌を打ちながら聞いている。

「他には?」

「えと…面白いよ。好きな音楽も一緒だし、アニメとかも同じの観てたりして」

「へえ」

 何気ない調子で続ける。

「じゃあ、ライはその子のこと、気になったり?」

 胸が、少しだけ跳ねた。

「ち、違うよ。そんなんじゃないし」

 思わず、照れ笑いが出る。

 それから、慌てて付け足す。

「それに…たぶん、もう好きな人いると思う。幼馴染の人と、仲良さそうだったし」

 母は目を細める。

「そう。それなのに、ライとも遊んでくれるなんて、よっぽど人付き合いがいいのね」

 悪い印象ではなく、納得したような声だった。

 ライは、ほっと息をつく。同時に、少し胸がむず痒くなったのを感じた。

「ううん、そんな感じでもないの」

 その感覚を紛らわせるための発言だった。

「友達、すごく多いタイプじゃないし」

 照れ隠しみたいに、ライは肩をすくめた。

「優しいけど、全然年上っぽくないし」

「例えば、どういうところが?」

 母は、興味深そうに聞いた。

「不器用だったり、恥ずかしがりだったり?」

 言いながら、少し笑う。

 母も笑いながら頷いた。そして、静かに噛み砕くように言った。

「じゃあ、自分のこととかはあまり言わない子だ」

「え?」

「困ってることとか、自分の弱いところとか」

 ライは少し考えた。

 たしかに鳴海の印象としては、間違っていない気がした。

 しかし、1月30日に聞いた話、あれは間違いなく彼のパーソナルな話だった。

 「そんなことないよ」と言いたいところだったが、あの話を共有することは、なんとなく危険だと感じた。

「…あんまり、言わないかも」

 母は、そこで初めて視線を上げる。

「…そう」

 短く答えてから、続ける。


「孤独を好む人なのかもね」


 ライは、その言葉をすぐには理解できなかった。

 理解していくにつれて、背筋がスーッと冷たくなる。

 それは静かに、けれど確かに、風向きが変わっていくような感覚だった。

「人と関わるって、責任を背負うことでもあるから」

「そんな感じじゃないって」

 ライは首を振る。

「ちゃんと笑って話してくれるし、全然嫌そうでもなかったし」

「優しい人なんでしょう?」

 母は、静かに重ねる。

「そういう人ほど、断れないのよ。相手が困ってたら、自分を後回しにしちゃう」

「そんなことないってば!!」

 思わず、声が強くなる。

 けれど、その瞬間。

 鳴海の言葉が、頭をよぎった。


―終わらない償い


 胸の奥が、ざわつく。

 何も言えないライに、母はそっと寄り添っていく。

「優しすぎる人はね、全部一人で背負おうとして、自分を削っていくの」

「やめて…」

 ライは必死に耳を手のひらで塞ぐ。

 しかし、母の顔はすでにライの耳元まで迫っていた。

「でも最後には限界が来て、勝手にパッといなくなっちゃうの」

「ママ…もうやめて…」

「残される側は、かえって迷惑なのよ」

 母は静かに笑った。

「ね?そういう人って、愚かだと思わない?」

 ライの頬を、一筋の涙が滑り落ちる。

 その涙が水面に落ちると、思い出そうとした鳴海の顔が波紋となって消えていった。

「ちなみに」

 母は、確認するように言った。

「最初に話しかけたのは、どっちから?」

 逃げ場のない問いだった。

 ライは答えることができない。胸に大きな空洞ができたようだった。

「実際のところ…彼は、望んでなかったかもしれないわね」

 ライの喉が、ひくりと鳴る。

「あなたが悪かったわけじゃないのよ。そういう人も、いるってこと」

 母はライの髪をやさしく撫でながら、結論づけるように続けた。

「だから外に、負担をかける必要はないの。あなたには、私がいるから」

 やさしい声色だった。

 否定しようのない形をしていた。

 ライは、口を開こうとして、閉じた。

 言葉を重ねるほど、

 鳴海を追い詰めてしまう気がした。

 生きていても。

 離れていても。

 存在しているだけで。


―どこにも、行き場がない。


 そう思った。




【5】

【2月28日】

 薄暗い昼間の自室で、鳴海はスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けずにいた。

 LINEの内容はもう、何度も確認している。


『今までごめんなさい、さようなら』


 たった一行。前置きや説明の一切ないまま、それは彼に届けられた。

 差出人は、ライだった。

 このトーク画面で最後にやりとりがあったのは、1月31日。あの日以来、約一ヶ月ぶりの連絡だった。今日届いたメッセージの上には、かつてのライから送られた絵文字入りの文章や、にぎやかなスタンプが残っている。

 それらと比べて、この一行はあまりにも異質だった。

 窓の外では、黒色の空が荒れていた。今日は嵐になると、今朝のニュースが報せていた。

 風に煽られた雨粒が、窓ガラスを叩きつけるように音を立てている。

 遠くで、雷が鳴った。

 鳴海は、スマホを持つ手に力が入っていることに気づき、そっと緩めた。

 指先が、ひどく冷たい。


―また、失敗したのか。


 先生に言われて以来、鳴海はずっと考えてきた。

 自分の目的・役割について。

 かつて何もできなかった自分から、今度こそ変わりたいと思った。深くまで入り込み、問題を解決すれば、過去すらも清算できる気がした。


『ライを助けたい』


 しかしその考えは、先生によって明確に否定されてしまった。それは自分の役割ではないと。

 踏み込めば、役割を越えてしまう。

 何もしなければ、かつての自分のまま。

 その間にある選択肢とは何なのか―

 考えれば考えるほど、広い海の中にいるような感覚に陥る。

 ひたすら岸を探して泳ぎ続ける。自分がどこを泳いでいるのかも、分からない。

 一箇所だけ、おぼろげに見えている岸はあった。けれど、あの場所は…

 鳴海はまだ答えを出せずにいた。


 しかしもはや、悩んでいられる段階ではなかった。

 ライからのメッセージは、彼に否応なく結論を急がせるものだった。

 放っておけば、取り返しがつかなくなるかもしれない。

 鳴海は迷わず、電話をかけた。

 呼び出し音が鳴り続ける。

 出ない。

 息を吐く。

 窓の外で、また雷が鳴った。

 鳴海は、静かに目を閉じる。

 助けるとか、救うとか―

 そんな言葉を、自分は使うべきじゃない。

 それが目的なのか、役割なのか。

 まだ、はっきりとは分からない。

 それでも、今この瞬間、ライを一人にさせておくことが正しいとは思えなかった。

 鳴海はスマホを握り直し、立ち上がる。

 睦歩に電話をかけると、数回で繋がった。

「今から、ライの家に行く」

 短く、事情を告げる。

 睦歩はそれ以上、何も聞かなかった。

 通話を切り、鳴海は玄関へ向かう。

 傘を取ろうとして、やめる。どうせ役に立たない。

 ドアを開けると、雨と風が容赦なく彼を襲った。

 服が一気に重くなり、視界が滲む。

 鳴海は構わず、足を踏み出した。自転車は使わなかった。

 靴の中に水が入り、足元が滑る。

 風に煽られ、身体が持っていかれそうになる。

 それでも、止まらなかった。

 嵐の音に紛れて、心臓の鼓動が分からなくなる。

 鳴海はただ前を見て、走り続けた。

 答えは、まだ出ていない。

 けれど―

 この嵐の向こうに、ライがいる。

 その事実だけが、今の鳴海を前に進ませていた。



 ライの家の前に着いた頃には、鳴海の呼吸はぐちゃぐちゃだった。身体中が悲鳴を上げていたが、立ち止まることなくここまできた。

 玄関の灯りがついている。

 中に、人がいる。

 それだけでほんの一瞬、胸の奥が緩みかけて、すぐに気を引き締め直す。

「…鳴海!」

 背後から声がした。振り向くと、睦歩が立っていた。傘をしていたが、髪も服もすでに濡れている。

 鳴海は短く頷く。

 二人は並んで、玄関に向き直った。

 鳴海がインターホンを押す。

 返事はない。

 もう一度押す。

 しばらくして、嵐の音に紛れて足音が近づいてきた。

 ドアが開き、ライの母が顔を覗かせた。

 眉間に寄った皺は、警戒と苛立ちを隠そうともしていない様子だった。

「…何の用ですか」

 鳴海は一歩だけ前に出る。

「ライさんと、話をさせてください」

「無理です」

 即答だった。はじめから用意されていた言葉のようだった。

「ライはもう、あなたと関わらないと決めています。本人も、納得しています」

「そんな…」

「これ以上、あの子に付きまとわないでください。迷惑ですので」

 ドアが閉められかける。

「待ってください」

 鳴海の声は、思ったより低く出た。

「ライさんから、メッセージが来ました」

 スマホの画面を見せる。


『今までごめんなさい、さようなら』


 一瞬だけ、母の表情が揺れた。

 けれど、すぐに硬くなる。

「…これがどうしたっていうの?」

「いつもと、明らかに違います」

「なにそれ、そんなことでいちいち大騒ぎしないで。大体、あなたなんかにライの何が分かるっていうの?」

 その言葉に、睦歩が一歩前に出た。

「…分からないのは、あなたも同じなんじゃないですか」

「…何ですって」

「今ここで、ライちゃんの声が聞けるなら、それでいいんです。確認させてください」

 母は睦歩を睨みつけた。

「関係のない人は、帰って」

「関係あります」

 睦歩の声は、冷静だった。

「もし何ともなかったら、すぐに帰ります。でも、確認できないなら―」

 睦歩がそう言いかけたところで、鳴海が動いた。

 ゆっくりと、地面に膝をつく。

 雨が、容赦なく彼の背中を打つ。

「お願いします!」

 両手を地面につき、頭を下げる。

「ライさんと、話をさせてください」

「ちょっと、やめてよ…」

「お願いします!様子が、明らかにおかしいんです」

「帰りなさい!」

「帰りません!このまま帰ったらきっと…きっと後悔する」

 声が震える。

 それでも、顔を上げないまま、言葉を重ねる。

「…せめて、無事かどうかだけでも、確認させてください」

「どうしてそこまでするの…っ?あなたたち、ライの…何をそこまで…」

 母の声が荒れる。

 それでも、鳴海は動かなかった。

「―では」

 睦歩が、静かに口を開く。

「今から、警察に連絡します」

 その言葉を聞いた母は息を呑む。

「脅迫のつもり…?」

「別に。それとも、何か心当たりでも…?」

「…っ」

 雨音の中で、沈黙が落ちる。

 母は、強く唇を噛みしめたあと、視線を逸らした。

「無事が確認できれば、それで終わりにします」

「…分かったわ」

 ドアを大きく開ける。

 鳴海は、ゆっくりと身体を起こした。

 全身が水浸しだった。

「あの子は、2階の部屋にいます。そこから話させます。それを聞いたら、すぐ帰って」

「…ありがとうございます」

 二人は玄関まで足を踏み入れ、母親の背中を目で追った。その背中が廊下の奥に消えると、その後は黙って耳を澄ますことしかできなかった。

 しかし、いつまでたってもライの声は聞こえてこなかった。

 聞こえてきたのは、ドアノブを回すガチャガチャという音と、母親の取り乱した声だけだった。

「ライ!開けなさい!!」

 母親のそんな声が聞こえてきた時、鳴海と睦歩は黙って視線を合わせた。

 同時に頷くと同時に、二人は靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がった。

「ライ!」

 階段を上りきったところで、鳴海は叫んだ。

 部屋の前で、ドアノブを掴んだままへたり込んでいる母親が目に入る。

 そのドアには『ライの部屋』というプレートが掛けられていた。

「なんでっ?あの子…いつも鍵なんてかけないのに!」

 鳴海と目が合った母親は、混乱した様子で叫んだ。

 それに答えるより先に、鳴海はドアをドンドンと叩いた。

「ライ、俺だよ。聞こえる?」

 返事がない。

 ドアノブを回す。動かない。

 鍵がかかっている。

「ライちゃん、あたしもいるよ。声を聞かせて」

「お願い。返事をして、ライ」

 二人とも何とか平静を保とうと語りかけるが、やはりどこか落ち着きのない声になってしまう。

 しばらく沈黙が続いた時だった。

 ドアの内側から、微かに息を吸う音が聞こえた。

「…鳴海、くん」

 ライは数回、繰り返し名前を呼んだ。次の言葉はなかなか出てこない。

「いるの…?」

「うん、いる。ここにいるよ」

 鳴海は細い糸をたぐり寄せるように言った。

「心配になって来てみたんだ。体調はどう?元気かな」

 いつもの彼なら、ゆっくりとライの言葉を待っただろう。でも今日は、それができなかった。

「開けてくれないかな」

「…ムリ」

 鳴海はドアに張り付くかのように密接してライの声を聞いた。

「どうして…」

 ドアを強く叩いた。

 返事は少し遅れて来た。

「終わらないんだよ」

 ライの声は、驚くほど淡々としていた。

「鳴海くん、言ったよね?償いが終わらないって。自分では終わらせられないって」

 あの日の会話が、鳴海の頭の中で蘇る。

「わたしも同じだった…わたしの償いも、終わらないんだって気づいたよ」

「ライの、償い…?」

「鳴海くんにも、ずっと迷惑かけてたでしょ」

 ライの声が震える。

「迷惑って…」

 そう言いかけて、鳴海はハッとして横を見やった。すると目を見開いた母親が、慌てた様子で言った。

「違う!あれはそういう意味じゃ…」

「ママにも迷惑かけっぱなしだったでしょ」

「バカなこと言ってないで開けなさい!」

「もう自分のこと嫌いになりたくないの!!」

 ライの金切り声が、ドア越しに響いた。

 同時に、部屋の中から微かな音がした。

 金属が擦れる音だった。

 鳴海は思わず息を呑む。

「…ライ」

 声が、思ったより低く出た。

 鳴海はドアに額を寄せる。

「今、手に持ってるものを置いて」

「…」

「包丁なら、置いて」

「包丁…!?」

 母親と睦歩が驚きの声を上げる。

 その後母親は、慌てて1階に降りていった。

「床に置いて。音を聞かせて」

 そこからまた、長い沈黙が場を静める。

 やがてドアの向こうから、かすれた声がした。

「今までの我慢も、これからの努力も、全部意味なんて無かったんだって。そう思ったら、スゴく楽になったの」

「そんなこと…」

 そのとき、母親が階段を上がってきて言った。

「キッチンの包丁が…!」

「そんな…じゃあ」

 それを聞いた睦歩が、口を押さえて立ち竦む。

「コレで手首を切っちゃえば、もっと楽になれると思うんだ」

「ダメよライちゃん!」

「…ライ、お願いやめて!!」

 悲鳴に近い声が、ドアの向こうに投げかけられる。

 声は返ってこない。

 ただ、次第に大きくなっていく呼吸音が聞こえてくるだけだった。

 胸の奥まで空気を吸う音。それは、何かを覚悟するタイミングを図っているようなリズムだった。


「…俺の友達、成果は、俺と同じ喘息持ちで入院してた」


 鳴海はおもむろに話し始めた。

 不意を突かれたかのように、部屋の中の呼吸音が小さくなった。

「特別なことはしてなくても、話してるだけで楽しかった。アイツといると、時間があっという間に過ぎるんだ」

 彼女はいつも笑顔だった。いつ行ってもやさしく俺を迎えてくれた。「おかえり」って。

 俺は、彼女の身体が善くなって退院してしまうのが、少し怖かった。会えないくらい遠くに行ってしまうことが怖くて、複雑な思いを抱きながら彼女と接した。けどそんな気持ちも、彼女といるときは忘れることができた。ただ彼女の笑った顔が好きだったんだ。

「成果、さん…」

 でも、彼女の病状は中々良くはならなかったんだ。そのうち、彼女は目を覚まさなくなって、酸素マスクに頼らなければいけない身体になった。

「それでも俺は、毎日話しかけた。学校の事くらいしか、話すことはなかったけど」

 寂しかった。苦しかったんだ。

 もう一度、彼女の笑顔が見たかった。


 …なのに―


「死なないで…もう嫌なんだよ、大切な人がいなくなるのは」

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