第八章(過去)

【1】

【10月】

 凍り付いたまま止まってしまった時間がある。春から夏にかけて徐々に溶け出していた関係性は、一度の失敗で再び急速に冷え固まってしまった。


 あのときの自分は、成果の優しさに甘えていた。


 数日経って冷静になると、自分の行動がどれほど勝手だったかが分かった。成果との会話を思い出すと、情けなくってたまらなくなる。そのたびに首が取れるくらい頭を振って、必死で頭のなかのイメージを消そうとしていた。けれど、気づけばまた思い出している。忘れることなんて、簡単にはできない。

 できることなら、すぐにでも会いに行って謝りたかった。いや、正確には、はじめのうちはそれすら思ってなかった。クラスでの立場が元に戻るまでは。

 全てを失うまで、僕は気づくことができなかった。これまで当たり前だった存在の大切さ、かけがえのなさに。

 そしてそのことに気づいたとしても、もう取り返しのつかない状況になっていることに変わりはなかった。

 成果は間違いなく、僕を嫌いになっただろう。謝りに来られたとしても、嫌な記憶を思い出すだけだ。

 そう思うと足が石のように重たくなり、病室には向かえなかった。通院の時は病室と同じ4階に行かなくてはならないため、成果と鉢合わせしないようにビクビクしながら歩いた。



 けれど、そんな生活は思いもよらないかたちで変化することになった。

「なるちゃん、あの本貸してよ」

 学校からの帰り道、夕暮れ時の畦道を歩いている時、そんな声に呼び止められた。

 振り返ると、幼馴染の睦歩が立っていた。

「本ってなんだよ」

「アンタが好きだったやつ、黒猫の」

「あれ絵本じゃん。なんで今さら…」

「急に読みたくなったの。いいから貸して」

 なんの風の吹き回しだろうか。突然のお願いに、僕は思わずため息をついた。相手が幼馴染の睦歩じゃなければ、もっとあからさまになるところだった。

「別に貸すくらいはいいけど。…あ」

 そう言った直後に、都合の悪い事実を思い出してしまった。一瞬にして背筋が冷たくなるのを感じた。

 あの本は貸せない。いま手元にないからだ。

「おーい、どしたの?固まっちゃって」

 いつの間にか睦歩が近づいてきていて、僕の顔をのぞき込んでいた。距離感を間違えたのかと思うほど寄せられた顔には、表情がなかった。

「…やっぱ、貸せないわ」

「えー、どうして?」

「…売っちゃった」

 僕は咄嗟に嘘をついた。本当のことは言ってはいけない気がした。

「この間メルカリで。あの本意外と人気みたいでさ。けっこう高く売れて」

「ふーん」

 嘘を重ねがけしていくほどに、どんどん怪しく聞こえてくる。それが自分の言葉ではないからだ。

「そっか。それは残念」

 あっさり嘘を見抜かれるか、そうでなくてもひどく呆れられるかのどちらかだと思っていたが、それだけ言って睦歩は歩き出した。

「いいの…?貸さなくて」

「だって、もう無いんでしょ?」

「…そうだけど」

 思わず尋ねてしまったあとで、失敗に気づく。睦歩の淡々とした口調が、やけに胸に刺さるように感じた。

 そのあとは無言のまま、睦歩の半歩後ろを歩いた。

「一回、売っちゃってもさ」

「え?」

 別れ際、こちらを振り返らないままで睦歩が話し出した。

「今ならまだ、買い直せるかもね」

「まあ、うん」

「それもアンタの自由だけどさ。もし買い直したら、そのときはあたしにも読ませてね」

 そう言うと睦歩は、家の方向へ駆け足で去っていった。

 僕はしばらく、その場から動けなかった。

 耳の奥で、睦歩の言葉が何度も反響していた。

「今ならまだ…」

 そうだ。今ならまだ、成果に会える。たとえ嫌われていたとしても、謝ることはできる。しかしいつかは、成果はいなくなってしまう。退院して、僕の知らないところへ行ってしまう。

 そうなる前に、せめてもう一度、あの場所へ行かなくちゃいけないと思った。

 僕は家に着くとすぐ、玄関横に停めてあった自転車に飛び乗った。もう迷いはなかった。

 目的地までの道中、成果への謝り方をあれこれ考えたが、どれもしっくり来ない。綺麗に整えられた言葉のなかには、正解なんてあるはずなかった。




【2】

 久しぶりに嗅いだ病室の匂いは、以前よりも鼻の奥をツンと突いた。しばらく経たないうちに、身体がここでの出来事を忘れてしまったように思えて、少し複雑だった。


「おかえり、なるちゃん」


 どんな態度を取られても仕方がないと覚悟して入った病室で最初に耳にしたのは、今までと変わらない一言だった。

 その場所は、前までとまったく変わらない時を刻んでいた。まるで自分の時間だけが、あの日から今まで止まっていたみたいだ。


「…ただいま、成果」


 成果と目を合わせると、自然と涙が流れてきた。それは悲しい涙じゃなかった。

 たった一言ずつのやりとりで、こんなにも胸がいっぱいになるなんて知らなかった。

 僕は声を上げて泣いてしまった。泣きながら、この間のことを謝り続けた。来る途中で考えた言葉は、やっぱり一つも役に立たなかった。

 成果はやさしく頷きながら、ずっと僕の背中を撫でてくれていた。




【3】

【10月31日】

 土曜日の午後14時前、僕は病院のロビーで長椅子に座っていた。

 この日は、成果に外出許可が降りた日だった。お昼過ぎから夕方までの短い時間ではあったが、成果は二人でお出かけしようと誘ってくれた。数日前に聞かされて、驚きと嬉しさで跳び上がりそうになった。

「お待たせ」

 14時を少し回ったくらいで掛けられた声に振り返ると、成果と彼女のお母さんが立っていた。

「あ…」

 その姿を見て、音にならない声が漏れる。

 初めて見る、成果の私服姿だった。

 いつもと違う、のはすぐに分かった。

 髪型が少し違う。それに、淡い水色のスカートもよく似合っている。

 大人っぽいし、病室の時よりずっと綺麗だと思った。急な変わりように、本当に自分の知っている成果なのか分からなくなりそうだ。

 一瞬だけ目が合うと、成果は少し不安そうに笑った。その表情で、いつもの成果だと自信が持てた。

「変じゃないかな…?」

「ぜ、全然!」

 僕は急に意識してしまい、そう答えるのがやっとだった。なんだか恥ずかしくて、ちゃんと成果の方を向くことも出来なくなってしまっている。

「だって。よかったね、ナルちゃん」

「もう、静かにしてよっ」

 そうしているうちに、成果とお母さんのやりとりが聞こえてきた。成果のお母さんと何度か病室で顔を合わせたことがあったが、二人の会話を聞くのは初めてだった。親と話す成果は、今日の見た目とは対照的にどこか子どもっぽかった。

 そのあと成果のお母さんが、外出のルールを説明した。もしものアクシデントに備えて、行き先は成果からこまめに連絡するように、とのことだった。それから、緊急の連絡先が書かれた紙と連絡用の携帯電話を手渡された。携帯電話といってもスマートフォンじゃなくガラケーと呼ばれるもので、首からかけるためのストラップが付いていた。たぶん病院の貸し出し用のものだと思った。手渡されたそれを、ズボンのポケットに押し込んだ。

「ちょっとでも何かあったら、すぐ連絡してね」

 絶対に無理はしないように―と成果のお母さんは付け足した。たった数時間の外出で少し大げさだと思ったが、まっすぐ見つめられて目をそらすことができず、僕も真剣な表情で返事をした。

「じゃあ、行こっか」

「うん…」

 成果と並んで、僕らは病院を出た。




【4】

 最初の目的地は、成果が行きたかったというカフェに決まった。というより、これは昨日までに決めていたことだった。

 街の中心部までは、病院前から出るバスで向かうことにした。

 バスに乗ってしばらく経ったくらいで、ようやく成果との普段の距離感に戻ってきた。隣に座って話す成果を、チラチラとなら見ることができた。彼女も最初は久々の外出で緊張してそうだったけど、いつも以上に元気だった。

「成果さ、その…いつもと違うよね」

 ついそんなことを言ってしまったのは、目的地のバス停まであと3つのときだった。

「えー?どこが?」

 成果はわざとらしく語尾を伸ばして聞いてきた。僕の顔を覗き込んだ目がニヤリと笑っている。

「どこって、服とか髪とか…」

「他には?」

「他?えっと…」

 回答に焦った僕は顔を上げ、成果の全体像をぐるぐる見回した。

 そんな僕を見て、成果は大きな声で笑う。

「ごめんごめん、そんなに必死になると思わなくて」

 からかわれていたのだと今さら気づき、顔全体が熱くなる。

 成果はまだ笑っていた。恥ずかしすぎて、早く目的のバス停に着いてくれと願ったが、まだ1つ前をやっと通過したところだった。

「でもありがとう、褒めてくれたんだよね。嬉しいよ」

 ようやく笑いがおさまってきたあたりで、成果が言う。

 僕は「そう」とも「違う」とも言えなかった。

「ずっと着る機会なくて、やっと着れたの」

「いつ買ったの?」

「高校生になったとき。お母さんが買ってくれたの」

 けれど4月末あたりですぐ入院生活になり、なかなか外出できなかったみたいだ。

「買ったときは、もっとサイズぴったりだったんだけどね」

 以前の会話で、病院食は味気なく痩せてしまったと言っていたことを思い出した。

「今も…ちゃんと似合ってると思うよ」

 選んだ言葉が正しかったのかどうか、自信はなかった。けれど、できる範囲で少しでも彼女の気持ちに寄り添いたかった。

「そろそろ着くな」

 通路側に座っていた僕は、バスが止まると立ち上がって乗降口に向かう。

 後から付いてくる成果がどんな表情をしているかは、分からなかった。



 それから、いくつかの場所を回った。

 成果が行きたがっていたカフェに入って、ケーキを食べながらいつもと変わらない話をした。

 その後、プリクラを撮ることになった。成果が「せっかくだから」と言い出して、僕はよく分からないまま中に入った。

 写真を撮る前、狭い空間の中で立ち位置を示す線を見ていると、成果が何も言わず少しだけ身体を寄せてきた。肩が触れるか触れないかくらいの距離だったけれど、それだけで心臓の音がやけに大きくなった。

 画面に映った自分たちは、実物より少しだけ明るくて、少しだけ違う顔をしていた。

 成果は慣れた手つきでペンを動かして、二人の間に小さなハートを描いた。

「初めてのデートだもんね」

 なんて、軽い調子で言いながら。

「はい、あげる」

 プリクラが出来上がると、成果は半分に切って渡してくれた。もう一枚は、自分のバッグにしまっていた。



 その日はハロウィンだった。街には、変な帽子をかぶった人や、顔にペイントをした子どもたちが溢れていた。

 店先の飾りもやけに賑やかで、いつもより少しだけ、騒がしかった。

 そんな中を、お互いに「すごいね」と言いながら歩いた。なんとなく、夢のなかにいるような感じだった。

「少し疲れちゃったかも」

 だから成果がそう言ったとき、僕は急に現実に引き戻された気がした。思わずポケットに手を入れて、携帯電話を握りしめる。

 幸いそこまで深刻な状態ではなかったが、しばらくベンチで休んだ後、僕たちは賑やかな街を離れた。



【5】

 午後5時、空は少しずつ暗くなりはじめている。

 堤防に出ると、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに遠のいた。

 風の音と、靴底が芝生を踏む音だけが残る。

「ここにしよっか」

 僕たちは茜川の土手に並んで腰を下ろした。

 今日の予定で、最初にカフェに行くことともう一つ、事前に決めていたものがあった。というより、僕らにとってはずっと前からの約束だ。

 この日は、毎月31日のアイスの日だった。今日を外出の日に選んだのも、これが理由だ。

 途中にあったサーティワンでアイスを買い、この堤防までやってきた。

 成果はいつも通りポッピングシャワーを注文した。そして懲りずにまた、熱いカフェオレをかけている。

「今日くらい、それ止めれば?」

「続けることに意味がある気がして」

「でも美味しくないんでしょ?」

「うん。今のところは」

 この会話もすっかり恒例になっていた。変わらないやりとりに、少しだけ安心する。


「…あっという間だったね」

 川の向こうの夕陽を見ながら、成果がそう呟いた。

「でもめちゃくちゃ楽しかった」

「本当に?」

「うん。たまには成果に振り回されるのも悪くないな」

「ふふ。付き合ってくれてありがとね」

 それは心からの言葉だった。ここまでの時間は本当に楽しくて、幸せで、いい思い出になるはずだった。

「また来よう。病気なんてすぐ治してさ、次は、もっと遠くまで行こう。水族館とかどう?きっと最高に楽しいよ」

「…そうだね。楽しみ」

 興奮気味に言った僕の言葉を、成果はいつも通りの笑顔でやさしく受け止めてくれた。

 アイスを食べ終わると、帰りは成果のお母さんが来るまで迎えに来てくれた。

「ありがとう、なるちゃん」

 帰り道の途中で、成果がそう言った気がした。車の走る音で聞こえないくらい小さな声だったので、気のせいかと思った。

 病院の入口に着くと、僕は置いておいた自転車に乗って帰った。

 別れが名残惜しく、何度も振り返っては「またね」と叫んだ。成果は最後まで手を振ってくれていた。



 家に帰ってからも、頭の中はずっと今日のことでいっぱいだった。

 夕ご飯を食べていても、お風呂の湯船に浸かっていても、成果のことばかりが浮かんでは消える。


 行きのバスでのいじわるな顔

 カフェでケーキを食べて感動していた顔

 プリクラに写る時のすまし顔

 ハロウィンの装飾を眺める顔

 そして、アイスを食べるときのいつもの顔


 思い出すのは、どれも笑顔だった。


 布団に入って目を閉じても、なかなか眠れなかった。

 一度消した部屋の明かりを点ける。勉強机の引き出しを開けて、さっきしまったばかりのプリクラを取り出した。この胸の高鳴り以外でたった一つ、今日あったことを証明できるものだった。


ー次はどこに行こうか


 今日はバスだったけど、電車にも乗ってみたい。もっと遠くまで行ってみたいし、今度は僕もちゃんとした服で行かなきゃ。

 冬になったらイルミネーションも見てみたい。春になったら桜だし、夏はキャンプに行くのも悪くない。

 そして31日は、またアイスを食べよう。たまには僕も、パチパチするやつを食べてやってもいいかもしれない。

 そんなことを、結構真剣に考えていた。




 でも、そんな日は来なかった。

 その日から一週間ほど経った日、成果の容態が悪くなり、彼女は目を覚まさなくなった。

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