第七章(現在)

【1】

【1月30日】

 朝の目覚ましが鳴ると、ライは目を覚ました。

 カーテンの隙間から、冬の光が薄く差し込んでいる。

「起きてる?」

 リビングの方から声がした。

 ライはベッドから起き上がり、リビングへ向かう。

 ドアを開けてリビングに入ると、スーツ姿の母親がキッチンに立っていた。

「おはよう、ママ」

「朝ごはん、できてるわよ」

 二人掛けの小さな食卓テーブルの上には、トーストとサラダ、スープが整然と並んでいた。

 ライが席に着くと、母親も対面の席に座った。手に持ったマグカップには、淹れたてのコーヒーが注がれている。

「明日、お休みだよね?」

 ライは、スプーンを手に取ったまま尋ねる。

「そうね」

 母はコーヒーカップを傾けながら答えた。

「家に…いるよね?」

「そのつもりだったけど。たまには、どこか出かける?」

 その言葉を聞くと、ライは顔を上げた。

「…うん」

 少し間があってから、続ける。

「じゃあ、どこ行く?」

「…あのさ」

 母の問いに、ライは恐る恐るといった声色で応える。

「一人で行っちゃダメ…?」

 言い終わる前に、母は首を傾げた。しかし、驚いた様子ではなかった。

「一人?」

「ちょっと、行ってみたい場所があって…」

「それなら、私も一緒のほうが安心じゃない?」

 穏やかな声だった。

 否定ではなく、当然の確認のようだった。

 ライは、スープの中を見つめた。

「そう…だけど」

 それ以上は、何も言わなかった。

「外はまだ寒いし、無理して出なくてもいいかもしれないわよ」

 少しして、母はそう言った。

「…うん、そうだね。また今度にする」

 母は、安心したように微笑んだ。

 会話は、そこで終わった。

 支度を終えた母は、コートを羽織って玄関に向かった。

「行ってくるね」

「…いってらっしゃい」

「何かあったら、すぐ電話して」

 玄関のドアが閉まる音がして、家の中が静かになる。

 エアコンの音と、時計の秒針だけが残った。

 母が出かけ、ライは一人になる。

 それが、この家のいつもの形だった。


―今日は何して時間を潰そうかな。


 長い一日が、何事もなかったみたいに始まった。




【2】

 その日最後の授業中、鳴海はノートを開いたままペン先を止めていた。

 黒板の文字は視界に入っているのに、意味だけが頭をすり抜けていく。


―どうする。


 考える対象は、はっきりしていた。

 ライの家のこと。

 学校に行けない理由。

 閉じたままの世界。

 浮かんだ単語を、ノートの余白に書いていく


『保健室登校』


 担任に相談して、段階的に戻るやり方。

 スクールカウンセラーとか、そういう選択肢もある。

 頭の中で、一つずつ並べてみる。

 ……悪くはない。

 たぶん、正しい。

 でも、今じゃない。

 いきなり大人を巻き込めば、話は大きくなる。

 ライの意思とは関係なく、状況だけが動いてしまう。

 それはまだ早い。

 消さずに、そのまま残す。


―これは、後。


 次に浮かんだ考えに、一瞬、ためらってから書く。


『家の人に、直接話す』


 書いた途端、胸の奥がざわついた。

 今これを選んだら、全部が一気に壊れる気がした。

 鳴海は、その言葉から視線を外した。


―これも、後。


 ノートには、いくつもの案が並んでいた。

 答えは出ていない。

 少し、視点を変えてみよう。

 全部を一気に解決しようとしても、無理だ。

 でも、何もしないわけにはいかない。

 鳴海は少し姿勢を変え、ノートの一番下に、新しく文字を書いた。


『今できること』


 今すぐできることは、何だ。

 俺がしてやれることは…

 考えかけたところで、授業が終わるチャイムが鳴った。顔を上げると、いつのまにか黒板にはギッシリと文字が並んでいた。

 何かしらのプリントが配られ、順に後ろに回されてくる。前の席の生徒が振り返る前に、鳴海はそっとノートを閉じた。

 それらしい結論は、まだ出そうになかった。

 とりあえず今日も、河川敷へ行くことにした。



 放課後になり、教室が一気に騒がしくなる。

 鳴海が席を立とうとしたところで、背後から声を掛けられた。

 睦歩だった。

「さっきの授業、全然聞いてなかったでしょ」

 軽くからかうくらいの調子だった。

「俺のこと見てたんだったら、お前も聞いてないだろ」

「あたしはちゃんとノート取ったもん。…てかそんなに見てないし」

「あっそ」

 廊下に出て並んで歩きはじめると、睦歩は続けた。

「ライちゃんのこと考えてたでしょ」

「…そうだよ」

「やっぱり」

 ため息交じりに言う。

「最近ずっと、そんな感じ」

「言っただろ、放っておけないって」

「…助けたいんだよね」

「うん」

 睦歩はそこで一度、言葉を探すように言い淀んだ。

「鳴海がそう思うの、分かるよ。でもさ…」

 声が、少しだけ低くなる。

「全部自分で背負おうとしてない…?」

 その言葉を聞いて、鳴海は俯いた。

「それが、ちょっと心配」

 そう言った睦歩が、鳴海の制服の袖を指先で掴む。彼がどこかに行ってしまわないよう、つなぎ止めているようだった。

「でも、何かしてあげたいんだ」

「ナニカって何?」

「それを今考えてる」

「考えて、それでもダメだったら?」

「それでもいい。何もしないよりは、全力でぶつかった方が…」

 鳴海のその言葉に被せるように、睦歩は言った。

「それってさ、”踏み込みすぎ”になる可能性もあるって気づいてる?」

 言い終わった瞬間に睦歩は、しまった、という様子で口に手を当てた。鳴海の袖から手が離れる。

 鳴海はしばらく目を見開いていたが、やがて口を開いた。

「…忠告、ありがとう。気をつける」

 震えた声でそれだけ言って、鳴海は歩き出す。

 睦歩は俯いたままで、追いかけなかった。




【3】

「寒くない?」

 鳴海が聞くと、ライは首を横に振る。

「大丈夫。こたつソックス履いてきたし!」

 ほらね!と言って、見せつけるように足をバタつかせる。

 どこか幼稚なその仕草は、成果そっくりだった。

「でもさ、睦歩さんの言うとおりだよ?普通1月に河川敷はおかしいって」

 ライは笑いながら言う。

「女の子にモテないよ?」

「そうじゃなくたってモテないだろ、俺みたいなヒョロガリ」

「ヒョロガリってどういう意味?」

 いつも通りの会話だった。

「本当に冬でもやってるんだね、アイスの日」

 でも今日は、そのまま流れに身を任せたい気分だった。

「いつから始めたの?」

「…5年。いや、6年前かな」

「長いね…」

「俺の中での、“償い”みたいなものでさ」

「つぐない…?」

 ライが聞き返すと、鳴海は一瞬だけ言葉に詰まった。でも一度口にしたら、止まらなかった。

「アイスの日は、昔知り合った人と約束して始めたんだ。最初の一年目は、その人と一緒に食べてた」

「そうなんだ。なんか楽しいね、そういうの」

「…本当に楽しかったよ」

 そう言ってから、鳴海は一拍置いた。

 笑うでもなく、川を見るでもなく、ただ視線を宙に向けていた。

「でも…俺が壊した」

「え…?」

 ライが、少しだけ身を乗り出す。

「その人に、酷いこと言っちゃったんだ」

 鳴海の声は低かった。

「励ましてるつもりだった。でも、あとから考えたら…取り返しがつかなかった」

 言葉を選んでいるというより、もう決まってしまった言い方をなぞっているようだった。

「たくさん、傷つけた」

「…」

「だから次の年からは、一人で食べることにした」

 鳴海は、ようやくライの方を見た。

「自分がやったこと、忘れないために」

「だから…償い?」

「そう」

 短い肯定だった。

 しばらく、川の音だけが流れる。

「6年前の…10月31日」

 鳴海がそう言うと、ライの表情が固まる。

「ライと初めて会った日…あの時がさ…ちょうどその日だったんだ」

 鳴海は続けた。

「そういえば俺、ライに独り言聞かれたんだっけ」


―誰のなまえー?彼女?


「え?あ…」

「あれが、その人の名前なんだ。俺と同じ、ナルミ」

 以前、睦歩に聞かされた言葉の意味が分かった。

 ライは、言葉を失ったまま鳴海を見る。

「あの日の俺…嫌な奴だったよね?」

「そんなことは…」

「言い訳だけどさ」

 鳴海は小さく息を吐いた。

「あの日だけは、毎年ダメなんだ…どうしても」

 ライは、何も言わずに聞いていた。

 ただ、膝を抱える腕に、少し力が入る。

「…それってさ」

 少し間を置いて、ライが言う。

「償いって、いつ終わるの…?」

 鳴海は、すぐには答えなかった。

「…終わらない、と思う」

「ずっと、一生?」

「うん」

 返答に、ためらいはなかった。

「終わっていいか決めるのは、俺じゃないから」

 その言葉は、静かだった。

 ライは、その横顔を見つめたまま、口を開く。

「…そっか」

 それ以上、踏み込まなかった。

 夕暮れの河川敷は、もうすっかり冷えていた。

 でも、ライは「寒い」とは言わなかった。

 代わりに、ぽつりと言う。

「…明日も、アイスの日だね」

「うん」

 鳴海は、少し考えてから言った。

「でもさ。明日休みだし、無理しなくてもいいよ」

 声のトーンを、意識的に軽くした。

 ライは、一瞬だけ黙った。

 本当は、「そうだね」って言うつもりだった。

 でも、さっき聞いた話が、頭から離れなかった。

「…大丈夫だよ。ちょっと出るだけなら、たぶん」

 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。

「そっか。じゃあ、またここで」

 川の向こうに、最後の光が沈んでいく。

 二人は並んで座ったままだった。




【4】

【1月31日】

 それはまったく予想外の出来事だった。

 少なくとも、その瞬間の鳴海にとっては。


 この日も二人は並んで座っていた。

 いつも通り集まって、話していただけだった。

 アイスを食べながら。

 そんなとき、背後から聞き慣れない音がした。

 低く、短いブレーキ音。

 鳴海が振り向くより先に、ライが目を見開いた。

「…うそ」

 声にならない声。肩が強張り、視線が宙を彷徨う。

 道路の脇に、見覚えのある車が止まっていた。エンジンはまだ切れていない。

「…ママ、かも」

 そう言ったライの目は、怯えていた。

 車のドアが開く音がする。

「え…なんで?」

「ちが…違うの!すぐ帰るつもりで…」

「だって昨日、大丈夫って…」

「だからあれはっ…!」

 ライは鳴海を見ずに、早口で言った。言葉がうまくつながっていない。

 ドアが閉まる音。足音が、一直線にこちらへ向かってくる。

「…なんで?なんで、ここが…!」

 ライは立ち上がろうとして、途中で止まる。体の動かし方を忘れたみたいに、座ったまま固まっている。


「ライ!」


 低く、感情のない声で名前が呼ばれた。

 その女性は、すぐ目の前に立っていた。

「ママ違うの!その、違くて…ちょっと話してただけで…っ」

 言葉が空回りする。自分でも何を説明しているのか分かっていない。

 次の瞬間、パシンッと乾いた音がした。

 平手打ちだった。

「…っ」

 ライの体が、わずかに揺れる。

 力は強くはなかったが、その動きにはためらいがなかった。

「ちょっと…!」

 鳴海の口から、反射的に声が漏れる。目の前の出来事が、理解できないといった様子だった。

 ママと呼ばれた女性の視線が、ゆっくり鳴海に向く。

「誰?」

「この人は違うの!ただ…たまたま話してただけ!」

 ライが必死に割って入る。

 彼女はライを見なかった。

「彼に聞いてるの。あなたには聞いてない」

 その言葉のあとも、ライは口を開いたり閉じたりしていた。

 一拍遅れて、鳴海の喉が鳴る。

「…五和です。ライさんの友だちです」

「…友だち、ね。この子は、そういうの求めてないから」

 彼女はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、ライの腕を取る。

「帰るわよ」

「ちょっと、待って…!離して!」

 ライが振り返る。鳴海の方を見るが、助けを求める目ではなかった。


―ごめんなさい


 そう言いたげな顔だった。

 何か言わなければ、と思った。でも、言葉が見つからなかった。

 車のドアが閉まる音。エンジンがかかる音。

 それらが遠ざかっていくのを、鳴海は立ったまま見送った。

 胸の中に、言葉にならないモヤモヤを抱えながら。

 手に持った食べかけのアイスカップが、やけに重く感じた。


 この日を境に、鳴海はライと連絡を取れなくなった。「大丈夫?」と送ったLINEには、今も既読がついていない。

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