第三章(現在)

【1】

【11月1日】

 朝の8時前、鳴海は自宅を出た。いつも通学中は学校のことや昨晩のテレビ番組のことなどをとりとめもなく考えているが、この日に関しては昨夕の出来事ばかりを反芻していた。

 彼女 -芹橋ライと名乗った -が無遠慮な接触をしてきたことや、鳴海の立ち入ってほしくない領域に踏み込んできたのは事実だった。しかし冷静に考えると、悪気があっての行動ではなかったのだろうと思う。それに対して、少し余裕のない対応をしてしまったというのが、彼自身が考えるモヤモヤの正体だった。彼女に対してというよりは、自身の適応能力の低さに幻滅している方が大きいかもしれない。

 そんなことを考えながら、鳴海はまた自転車に乗っている。

 家を出てすぐ、交差点の角に一人の人影があった。

「おそいよー。風邪引いちゃうじゃん」

 鳴海が近づくなりそう言った制服姿の女子は、ブレザーの小さなポケットに手を入れて寒さに耐えていた。

 鳴海を待っていた彼女の名前は、明坂睦歩(あけさか むつほ)。鳴海の幼馴染で、今でも同じ高校に通う、いわゆるくされ縁である。加えて家同士も近所なため、朝の通学時に会うのは珍しくなかった。

「待ち合わせなんてしてないし」

「朝ラインしたし」

「…急に言われてもムリ」

 鳴海は強引に彼女からの苦情を突っぱねて、再び自転車を漕ぎ出した。幼馴染みということもあり、ずいぶんと気楽に会話している。

 睦歩の方も、文句は言いつつ本気で怒っている感じではない。軽口を言い合うのはいつものことのようだ。

「てか、朝練は?」

 並走する睦歩に、鳴海が尋ねる。

「今日はお休みでーす」

「嬉しそうだな」

「だって練習キツいもん。まぁ、放課後は普通に練習あるんだけど」

 睦歩はバレー部に所属している。本日は他部活との体育館共有の兼ね合いで、朝練がないらしい。

「女バレいい感じなの?」

「うん。秋から新チームになって、ようやくまとまってきた感じかな」

「睦歩もうレギュラーなんだろ、すごいな」

「偶然ポジションが空いてただけだよ。すぐ入れ替えになるかもだし」

「厳しいね、でもまずはおめでとう」

「そだね…ありがと」

 白い吐息とともに、他愛もないやりとりが二人を包んでいく。高校までは20分近くかかる道のりだが、会話が途切れる気配はなかった。

「…今日から2月だね」

 学校に近づいてきたあたりでそう切り出したのは、睦歩の方だった。

 ありふれた話題に思えたが、なぜか鳴海はすぐに返事をしなかった。それまでと違って、どこか緊張感のある空気が流れる。

「…昨日も行ったの?茜川」

 睦歩からの質問は唐突だった。しかし、鳴海に驚いた様子はなかった。

「行ったよ」

「そっか」

 鳴海の返答を聞いた睦歩は、そのあとも何度か「そっか」と繰り返していた。次の言葉を見つけられずにいるようだった。

 そんな睦歩に代わって、鳴海が言った。

「でも昨日は変わったことがあって、すぐ帰った」

「変わったこと?」

 昨夕の出来事を振り返るように、鳴海は話し始めた。

「急に知らない人に話しかけられたんだよ」

「なにそれ大丈夫?」

「危ない話とかじゃないんだけどさ。突然、『何してるの?』ってきて。マジビビった」

「それで?」

「だからすぐ帰ったって。…あ、でもお互い自己紹介はしたな」

「え?!」

「名前はたしか…」

 鳴海が言いかけた時だった。

「セリバシ…!?」

 たまたま横目に入った家の表札を見て、彼は目を見開いた。ステンレス製の表札には、たしかに『芹橋』と刻まれていた。

「えっ、鳴海?!ちょっと、前!」

「な…」

 表札に気を取られた鳴海はあり得ない角度で後ろを振り返っており、前に向き直ったときには電信柱が至近距離まで迫っていた。

 睦歩の声掛けも虚しく、鳴海の自転車はそこそこの速度で電信柱に突っ込んだ。ガシャン!という音とともに、自転車のカゴが使いづらそうな形に潰れた。

「大丈夫!?」

 突然のアクシデントに、睦歩は混乱しきった声色で叫ぶ。並走していたはずの相手が突然隣から消えたのだから無理もない。

「大丈夫…ダイジョブ…」

 まるで自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、鳴海は体勢を立て直す。幸いにも身体は無傷で、ダメージを受けたのは彼の自転車だけのようだった。ただ無傷とはいえ突然の事故に動揺しているのか、鳴海の足取りはフラフラしている。

「ヒョ、表札…」

「表札…何言ってんの?」

 こんな状況にもかかわらず、鳴海は先ほど目に入った表札のことしか頭になかった。

 彼は来た道を徒歩で引き返し、その表札がかかった住宅へと向かった。

「ねえ、急にどうしたの!どっかぶつけたんじゃない?」

「やっぱり…芹橋」

「ねえってば。この家がなんなの?」

「…昨日俺に話しかけた人の家だ」

「何でそんなこと分かるのよ」

「間違いない、芹橋なんて名前そうそういないだろ」

「たしかに珍しいけど…。この人と何かあったの?」

 睦歩の質問に、鳴海は答えなかった。

「あれ…」

 鳴海はふと、頭上から視線を感じて仰ぎ見た。白い外壁の洋風な家が視界に入る。その2階にある大きな格子窓の奥に、微かに揺れるレースカーテンが見えた。

 鳴海はしばらくその場にとどまり、2階の窓を見つめていた。





【2】

――その日の放課後

 この日は授業内容が一切頭に入ってこなかった。頭の中は、ずっと今朝の出来事でいっぱいだった。

「あ、鳴海。ちょっと待っててよ」

 教室を出た直後に声をかけられ振り返ると、ドアから首を出した睦歩がこっちに向かって手の平を突き出している。

 鳴海は正直このまま帰りたい気分だったが、教室側の壁にもたれかかった。やたらと分厚い教科書が肩に重圧をかけてくる。

 放課後になると、教室では運動部の女子たちが着替えをはじめる。部室ですればいいものを、この時期では『教室の方が、部室棟よりも暖かい』という理由から、男子は完全に廊下に放り出される。男子一同は、女子の作った暗黙のルールに従うしかない。これからの長い学校生活で肩身が狭い思いをしないために、である。

 睦歩は人を待たせていることを自覚しているのか疑わしいくらい、悠長にクラスメイトと話しながら着替えているようだった。

「カレシが待ってるよー」

「だから違うってば」

 部屋の中の会話が聞こえてきた。どうして女子はこうも、恋愛話が好きなのだろうか。

 そんなことを考えながら待っていると、「お待たせ」と思い切り教室の扉を開け、着替えを済ませた睦歩が出てきた。そんな気はないのに室内が見えそうになって、鳴海は焦った。男子はいろいろ気を遣うのに、女子の方は防衛意識がイマイチ薄い。

「行こ」

 とりあえず、下足箱に向かうというところまでの目的は一緒なわけで、二人は並んで歩き出す。すぐに睦歩から話題を繰り出した。

「何で待ってもらったかは分かるよね?」

 その質問からは、ものすごい圧を感じた。口が裂けても「分からない」とは言えない類の問いだった。

「…今朝のこと以外にないか」

「そうだよ。アンタ今日ずっと上の空なんだもん。こっちは何のことだか」

「ちょっとパニックで…もう大丈夫だから」

「昨日、何があったの?」

 鳴海は今朝同様の説明をした。大したことじゃない、と強調したつもりだった。しかし、その説明に説得力がないことは誰が聞いても明らかだった。

 案の定、睦歩は納得しなかった。

「そこまでは今朝も聞いた。何であそこまでビックリしたのかを聞かせてよ」

 できれば説明したくなかったのは、昨日の自分が情けなくて仕方がなかったからだ。しかしもう隠し通せる段階にはないと、観念するしかなかった。

「たぶん…泣かせた」

「な…泣かせた?」

「いきなりのことで冷静じゃなかった。悪いと思ってるよ」

「ちょ、ちょっと待って。話しかけてきた人ってどんな人?」

「あぁ…女子。中学生くらいだと思う」

 鳴海の自白に対し、今度は睦歩が動揺していた。

「言ってなかった?」

「オジサンかオバサンだと思ってた」

 今朝の会話が中途半端だったせいで、かなり事実が湾曲して伝わっていたようである。もっとも、"知らない人から突然声をかけられた”と聞けば、一般的な不審者のイメージで成人以上の人物を想像するのは無理もないことだった。

「余計にイミ分かんないんだけど。中学生の女子が何で鳴海に声かけるわけ?茜川で逆ナンって…渋谷じゃあるまいし」

「俺に聞かれてもな…」

 睦歩は頭に浮かんだことをすべて声に出しているようだった。おそらく情報が整理できていないのだろう。その後もしばらく、理解の及ばない出来事について言葉を並べ続けていた。

「しかもアンタ…泣かせたって言った?」

 そして頭の整理が進んだところで、肝心な部分に言及する。睦歩の目は鳴海をジリっと見つめている。このあとの返答次第では、もっと険しくなりそうな予兆があった。

 なお、この会話の時点でとっくに下足箱までは到着しており、完全に立ち話となっている。それもあって、逃げ場のない空気が鳴海を縛り付けていた。

「反省してるよ」

「そうじゃなくて、何でそんなことになったのか聞いてんの。まさかホントに逆ナンだったわけじゃないでしょ?」

 煮え切らない鳴海に、睦歩が詰め寄る。

 やはり、隠し通せそうにはない。鳴海は正直に話すことにした。

「話をすることになったんだけど、意味分かんなくて突っぱねちゃったんだよ。だってさすがに急すぎるだろ?ビックリしたんだ。でも、ちょっと大人気なかったと思って」

 女性を泣かせたことについて白状するのが恥ずかしく、つい弁明口調になってしまった。

 睦歩は一応納得したように頷いた。しかし一通り聞いた後も考えがまとまらないようで、うーんと唸ってから口を開く。

「で、その子の家を今朝見つけたと」

「たぶん、ね」

「今から行くつもり?」

「まさか!行かないよ」

 睦歩の言葉に反射的に大きな声で応える。ホントにそんな気はなかったのに、逆に怪しく聞こえてしまったのではないかと不安になった。

 それを聞いた睦歩は、ようやく頭の整理がついたのか、クスッと笑う。

「でもその子、泣いちゃうくらいアンタと話したかったんだね」

「そんなことってあるのかな。完全に初対面なのに」

「もしまた会ったら、今度は楽しく話せるといいね」

 そう言うと、睦歩は校舎の前で鳴海を見送った。これから部室へ寄って、荷物を置いて体育館へ向かわなくてはならない。

 部室へ向かう途中、先ほどのやりとりを思い返す。

 妙な胸騒ぎがする。根拠などあろうはずがないが、その直感に従って少々詰め寄りすぎたかもしれない。一番の心配ごとは、鳴海自身のことだった。

 それにしても、と彼女は思った。

「わりとマジで逆ナンじゃん…?」

 鳴海といる間は黙っていた感想を、ふと口にしていた。




【3】

 睦歩と別れて学校を後にした鳴海は、このまま帰路についていいものか迷っていた。

 理由はただ一つ。今朝彼らは、普段通りのルートで通学していた。つまり、いつもの道沿いに件の芹橋ライの家があることになるのだ。

 家の前を通ったところで、彼女と出くわす可能性は低いだろう。そしてもしタイミング悪く鉢合わせたとしても、鳴海に何か非があるわけではない。それでも、後ろめたさはたしかに存在する。

 昨日の夕方、別れ際に振り返った時に見えた彼女の表情がフラッシュバックする。今日何度も同じことが起こっていた。

 そうしているうちに、もう家のすぐ近くまで来てしまった。

 あの角を曲がったところに、彼女の家がある。

 祈るような気持ちで角を曲がった直後、鳴海は思わず息を呑んだ。

「嘘だろ…」

 遠目で視界に入ってきたのが、彼が今最も意識している人物だったからである。

 芹橋ライが、自宅の塀にもたれて立っていた。

 彼女を見つけた瞬間、鳴海は反射的に自転車のブレーキを引いてしまった。

 結果的にそれがまずかった。ブレーキは金属の擦れる大きな音を立て、自転車は急停止した。停止する時に外した視線をもう一度前方に戻すと、5メートルほど先で彼女もこちらを見ていた。

 中途半端な距離感で向かい合った二人の間には、永遠に思える沈黙が流れる。ブレーキの音を最後に、世界から音が消えてしまったかのようだった。

「ね…ねえ」

 沈黙を破ったのはライの方だった。不安混じりの、小さな声で語りかけてくる。

「わたし、昨日のこと謝りたくて、それだけで…」

 彼女は数歩こちらへ歩み寄ると、ごめんなさいと頭を下げた。

「いや、ちょっと待って」

 鳴海も慌てて自転車を降り、彼女に歩み寄った。

「とりあえず頭を上げて…ください」

 鳴海がそう言うと、ライはゆっくりと頭を上げた。その時の表情は、昨日と同じだった。鳴海の胸が、またズキンと痛む。

 ―そんな顔…

「今朝、見てたんですか?それで…」

 鳴海が聞く。

「うん…びっくりしたよ。通るんだもん、ウチの前」

 ライは家の2階の窓から、偶然今朝の出来事を目撃したらしかった。

「ケガとか、大丈夫だった…?」

「え?」

「すごい音だったよ、ガシャン!って」

「あ…」

 鳴海は状況を把握して激しく赤面した。今朝の一部始終を見られていたということは、当然彼に起こったアクシデントも見られていたということだ。

「それについては大丈夫です」

「そっか、よかった」

 思わぬ不意打ちを食らい、動揺して言葉づかいまでおかしくなっていた。

「昨日のこと、謝らなきゃいけないのは俺の方です。ごめんなさい」

 何とか頭を整理して、鳴海は言った。昨日からずっと心に引っかかっている棘を抜かなければ、自分が壊れてしまうと思ったのだ。

「そんな…突然話しかけたわたしが悪いんだよ」

「たしかに驚いたけど、少し大人気なかったかと」

 彼が感じていたのは、彼女を悪者にした罪悪感だった。謝ることができて、少し心が洗われた気がする。

「大人気ないって…。わたしたち中学生なんだし、そんなの当たり前じゃん」

「そうだけど…うん?」

 それは、彼の見た目からの推定だったのだろう。

 鳴海は男子のなかでは華奢な部類に入る。それは自覚していることでもあったが、他人から言われるとより一層情けなく感じた。

「ご、ごめんなさい!年上だなんて知らなくて…!」

 高校生だと知らされると、ライはペコペコ頭を下げた。

「よく言われるから…。気にしないで」

 そのあとも彼女は平謝りだったので、話題を変えることにした。

「そもそも昨日、何で俺に話しかけたの?」

 それはもっとも根幹にある疑問だった。

 ライはそう聞かれると、答えづらそうに俯いた。

「オトモダチになりたくて…」

「初対面の俺と?」

「たまたま見かけて、話しかけてみようって思ったの」

「…誰でもよかった、わけじゃないよね?」

「誰でもはダメ!…だと思う」

 一呼吸置いてから、もう一度鳴海が続けた。

「とにかくあのやり方は危険だよ。悪い人だっているんだからさ」

「ごめんなさい…」

「責めてるわけじゃないよ」

 話題を変えたつもりが、結局彼女が謝る展開に戻ってしまった。しかし危険な行為であることに変わりはないため、誰かが注意しなくてはならないことだった。

「それに友だち探しなら、もっとほかのやり方があるでしょ」

「そう…だけど」

 ライはその後も、口籠ったままだった。

「…そのオトモダチっていうのは、普通の友だち?」

「え…」

 沈黙がまた彼女を悪者にしている気がして、鳴海は何か言わねばと質問をした。した後で、変なことを聞いたなと思った。

 いっそのこと、「俺で良ければ、友だちになろう」と言えればよかったのかもしれない。先ほどの沈黙は、その返事を期待しているようにも感じた。しかし、鳴海にとっては即答できるほど気楽なことではなかった。

 とにかく少し、間がほしかった。

「普通って…?」

 意図の読めない質問に、ライは戸惑っているようだ。

「ああえっと…一緒におしゃべりしたり、ラインしたり、みたいな」

「…そう!そんな感じ!」

 鳴海の提示したイメージに合致したのか、ライは大きく頷いた。

「俺が友だちになれば、もうあんな真似はしない?」

「え…」

「その…逆ナン?みたいな」

「ぎゃくなん?何それ」

 睦歩の言葉を借りたつもりが、かえって伝わりにくかったようだ。昨日みたいなこと、と補足したところでライが得心する。

「もうしないって、約束する」

「そっか、ならよかった」

「それって…」

 ライが、その後に続く言葉を欲している。鳴海は一瞬だけ言葉に詰まった。

「…うん。友だちになるよ」

 そう言うと、彼女の顔がぱっと明るくなった。笑顔が似合う子だなと思った。

「ありがとう!えっと…鳴海くん、じゃなくて鳴海さん!」

「くん付けでいいよ」

「じゃあ、鳴海くん。わたしのことは、ライって呼んで」

 友だちができたことに、ライは飛び跳ねて喜んでいた。彼女の栗色の髪の毛が大きく上下している。

 対する鳴海も安堵していた。心の中のどこかでは、こうなることを望んでいたのかもしれない。

 ただ一つだけ悩みの種があるとしたら、明日また睦歩を困惑させてしまうだろうということだった。今度こそうまく説明しなくてはと心に誓った。

 その後は連絡先を交換し、明日もまた会う約束をして別れた。昨日と同様、ライが鳴海を見送る。鳴海が振り返った時、ライの顔は弾けるような笑顔で溢れていた。

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