第二章(過去)

【1】

【4月】

 僕は病気を持って生まれてきた。喘息、ちゃんと言うと気管支喘息。本格的に発症し始めたのは幼稚園の後半から。夜中になると苦しくなって、呼吸ができなくなる。お母さんは毎日、眠らずに看病してくれていたらしい。

 小さな頃から、週に2回くらいのペースで病院に通い、血液検査や胸部レントゲン、いろいろな診断を受けてきた。毎週毎週薬をもらうのが嫌で、何度も母にグズったのを覚えてる。

 小学校の最高学年になった。もう病気なんて怖くない。薬を飲むのも、オブラートに頼らなくていい。お母さんも医者の先生も、「もう心配ない」と声を揃えて言う。身体の方もすっかり楽になってきて、最近は体育の授業にも少しずつ参加するようになった。

「かなり善くなったよ。頑張ったな、鳴海ちゃん」

「そのうち、毎週なるちゃんの顔見ることもなくなっちゃう」

 カオスな模様のネクタイをした主治医のおじさんと、紺色のカーディガンを羽織った若い看護師のお姉さんが声をそろえてそう言った。

「またちゃん付け。もう子供じゃないんだから」

 なるべく口を尖らせて言い返したつもりだった。

「何を。まだチンチクリンのガキだろお、ねえお母さん」

 主治医のおじさんがそう言うと、お母さんも、看護師さんも笑った。

「ちぇ。いつまでたってもバカにして」

「バカにしてるんじゃねえさ。何せお前が豆粒くらい小さい時から診てんだ、そんときと全然変わってないからなあ」

 それを聞いて、僕はさらにそっぽを向く。

「ナルちゃんの小さい頃って、何か簡単に想像できちゃうなー」

 看護師さんが、口元に指を置いて微笑みながら言った。

「しょっちゅうグズってるイメージ」

 と、吹き出しそうになりながら続ける。

「グズったねえ、ナルちゃん」

 母さんまでそんな調子で言った。

 そのあともおじさんが延々昔の話をするから、僕は不機嫌になったけど周りは楽しそうだった。

「あと少し、頑張ろうな」

 帰り際、おじさんは僕の背中をポンと叩いた。それにはなぜかうまく悪態をつけず、「はいはい」と照れを隠すので精一杯だった。




【2】

 僕らのいた部屋は、病棟4階の端にあった。普通の診察室とは違い、そこは主治医のおじさんの仕事部屋だった。長く通ううちに、そういう特殊な会い方に変わったのだと、母さんは言っていた。

 4階は、入院患者の病室のフロアにもなっていた。

 診察室に行く時も、帰る時も、いろいろな人に出会う。廊下で新聞を読んでいるおじいさんや、点滴を吊り下げるための器具と一緒に歩く女性。親に連れて来られただけの、おもちゃで遊びながらはしゃぎまわる幼児たち。僕はそんな人々が、あまり好きじゃなかった。顔から覇気を感じない。みんな、どこか諦めているような感じがする。病気が治ること自体を諦めているわけじゃないんだろうけど、それでもみんな、どこか間が抜けていた。

 僕はこの人たちとは違う。こんなところで、時間を無駄にしている場合じゃない。

 そのときだった。

「ナルちゃん、待ってナルちゃん!」

 背後から、自分を呼ぶ声が聞こえた。しかも、一番キライな呼び方で…。

「うるさい!!」

 どんなしかめっ面をして振り向こうか考えていた時、誰かがそう叫んだので驚いた。病院の廊下中に響くほどの、甲高い声だった。

 ワケが分からないまま振り返ると、病衣を着た若い女の人が早足でこちらに来るのが見えた。僕よりは年上のように見えたので、中学生か高校生くらいだろうか。

 先ほどの叫び声は彼女のものかもしれない。息を切らしながら、険しい顔で歩いている。

 その後ろから、もう一人女性がこちらに向かってくる。こちらは母さんと同年代くらいの女性だった。さっき「ナルちゃん」と呼んだのは彼女の方だろう。

 「何かトラブルかしら」隣で母さんが呟く。周りにいた人たちも、彼女たちを見ていた。

 病衣の女の人は、僕たちに見向きもしないで廊下を通り過ぎていった。

「ナルちゃん!」呼ばれているのはやはり彼女だった。どうしても自分が呼ばれているのではないかと思ってしまい、同じあだ名なのだと気づくのに少しだけ時間がかかった。

 しばらくすると、病衣の彼女は振り返らないままフラフラと足を緩めて立ち止まった。壁に手をつき、もう片方は自分の胸を、むしるように握っていた。ほどなくして膝が折れ、廊下に力なく座り込んでしまう。

 そして、彼女が深い呼吸と激しい咳き込みを始めたところで、僕は目を見開いた。

 後ろから追いかけてきた女性は、彼女の母親なのだろう、追いつくなり「ナルちゃん、ナルちゃん」と必死に呼びかけながら、背中をさすっていた。

「どなたか、ナースコールをお願いします!」

 彼女は周りに向かって助けを求める。

 ナースコールは、僕の母さんがした。僕はその間も立ち竦んで、彼女が苦しむ様子を眺めていた。分かってしまったんだ…


 彼女が、自分と同じ、喘息だということが。




【3】

「なるちゃんと同じあだ名の女の人?」

 あの日の翌日、僕はまた、嫌いなはずの総合病院に行った。

「そう。昨日4階でナースコールされた…」

「ちょっと分からないなあ。どんな関係なの?」

「どんなって…別に」

「あ、照れてる」

「照れてない!」

 とても恥ずかしかった。何度も通っている病院に入るのも、いつもの看護師さんに話しかけるのも。こうやってからかわれるのが分かっていたから。

 それでも、あの人のことが気になった。

「なるちゃんもスミに置けないなー」

「うるさい」

 色々な人に聞くという看護婦さんの気遣いを全力で断って、ランドセルを背負ったまま4階に上った。学校帰りでそのまま来たため、荷物が邪魔だった。

 4階には、いつも通りの光景が広がっていた。至って変わらない白い廊下、新聞を読むおじいさんたち。

「一人で来るのは初めてだけど…」

 違和感もなかった。すっかり慣れちゃったからだと思う。

 いつもと違ったのは、病室の入口に書いてあるネームプレートをひとつずつ見ながら歩いたこと。

 でも、それらしき名前は見当たらなかった。

「3階かな」

 そう思って階段を降りて探したけど、結果は同じだった。

「2階は…」

 さらに階段を降りたら、病室はなかった。

「入院してるはずなんだけどなあ…」

 もう一度3階に戻る。今度は部屋の中も覗いた。

「あ、なるちゃーん」

 そんなことをしていると、さっきの看護師さんが手を振りながら走ってきた。

「あの子のことだけど」

「え、聞いたの!?」

 あれだけ断ったのに!と怒ろうかと思ったけど、この際恥ずかしさなんて大したことじゃなかった。

「4階にいるって」

「ありがとう暇なナースさん!」

「暇言うな」

 頭をコツンと叩かれたあと、一目散に階段を上った。身体も軽快に動いてくれた。

 そして、山積みになったプレゼントを開けるように、一部屋ずつ、ドキドキしながらそっと確かめていった。



【4】

 僕は再度4階のフロアを訪れた。一度は見て回ったネームプレートを、もう一度仰ぎ見ながら奥へ進んだ。

 僕が立ち止まったのは、5つ目のドアの前だった。入室者の名前は、

「月森…、成果?」

 セイカ?

 その部屋のドアはしっかりと閉められていた。今までの病室はドアが開いていて、自然に中を見ることができたのだが…


 僕はノックも忘れて、ドアを少し開けてしまった。


 428室

 ドアを開けて中を見た時、僕の全身に電気が走った。身体が固まって、動き方を忘れたみたいだった。

 見たものが怖かったわけでも、悲しかったわけでもない。嬉しかったわけでも、感動したわけでもない。

 ただ…、目の前の光景をどう受け取っていいか、その答えを持っていなかったんだと思う。


彼女は涙を流していた――


 白い壁、白い床、白いカーテン。

 真っ白なシーツを握り締め、上半身だけをベッドから起こした彼女は、声も無くただ泣いていた。

 僅かに開いたドアからそれを覗き見て、僕は立ち尽くしていた。鼻の奥を刺激するアルコール消毒の匂いが、この時ばかりはやけに気になったのを憶えている。

 彼女がどうして涙を流しているのかーーそんなこと、気付こうともせずに。

「あの」

 気づいていたら…、こうやって声をかけなかったかもしれない。

「え…」

 彼女は涙目のままこちらに振り向き、驚いた表情を見せた。

 彼女の反応があってから、ふと我に返った。何か言わなければ…。

 声をかけた本来の目的を手探りで思い出す。すぐには思い出せず、「あー」とか「えー」とか言いながら、天井の模様とか窓の外の雲とかをキョロキョロと目で追ってしまった。

「昨日は、大丈夫でしたか?」

「え…」

 彼女は涙を拭って、必死に僕のことを見ようとしてくれていた。

「…今も、大変みたいですけど」

 ようやく僕を認識したのか、彼女は昨日の出来事を思い出したように呟いた。

 あのあと母さんがナースコールをして先生が駆けつけるまでの間に、僕も少しだけ彼女と目が合っていた。

「あなた、昨日の廊下で…」

 小さく漏れたのは、ひどくかすれた鼻声だった。それでも僕の耳には、凛とした鈴の音のように心地よく聞こえた。

「そうです」

「わざわざ、来てくれたの?」

 僕は小さく一度だけ、首を縦に振った。また一瞬だけ、彼女と目が合った気がする。

 綺麗な人だなと思った。肌は雪のように白かった。明るい栗色の長髪は艷やかで、窓から入ってくる陽の光を柔らかく反射させている。

 彼女は腫れたまぶたを指でなぞりながら、それでも僕に向かって微笑んだ。

「ありがとう。昨日はごめんなさい、病院で大きな声出しちゃって、迷惑だったよね」

「い、いえ。何かワケがあったのは分かったから」

 僕はぎこちない敬語を使いこなせず、歯切れ悪く答えた。

「それに…」

 僕はこのとき、まっすぐ彼女と目を合わせた。今から言おうとしていることに、確信があったからだ。大きな瞳をしっかりと見つめた。

「喘息、でしょ?」

「え…」

 それを言った途端に、彼女の表情が変わった。大きな目がさらに見開かれる。

「昨日のあれで…分かったの?」

「うん。僕も、同じだから」

「そう…」

 半開きになった口を閉じると、彼女は悲しそうな顔をした。俯いたせいで、切りそろえられた前髪が彼女の顔を隠す。

 僕は自分で作り出したはずの空気を完全に見失ってしまい、次の一言を言い出せなくなってしまった。長い沈黙が場を支配してしまう。

 しばらくして先に口を開いたのは、彼女の方だった。

「私は、月森成果。よろしくね」(つきもりなるみ)

「い、五和鳴海です」

 名前を聞いて少し驚いた。本当に同じ名前だったから。

「へえ、キミもナルミなんだ?偶然ね」

「漢字は違ったみたいですけど…。あの字でナルミって?」

「そうよ。初めての人には、セイカとしか読んでもらえないけどね」

 彼女はそう言って笑った。

「女の子みたいな名前だね、鳴海くん」

「だからあんまり好きじゃない…。なるちゃんってからかわれて」

「私もナルちゃんだよ。同じだね」

 正直、驚いた。こんなに話せるものだとは思ってなかった。せいぜい、彼女が元気なのかどうか遠目で確認出来れば十分だと思って来たのに。

 それからしばらく、成果と一緒に話した。彼女は15歳の高校生で、僕より5学年も年上だった。高校生と話したのは初めてでかなり緊張したけど、それ以上に彼女が話しやすくしてくれていたんだと思う。僕の話にとにかくよく笑ってくれた。逆にうまく話せず言葉に詰まっているときは、ゆっくりと頷いて待ってくれた。

 そんな会話のなかで、彼女が話題を切り出した。

「鳴海君は、身体はもう大丈夫なの?」

「え?」

「さっき、喘息だって」

 ベッドに背をつき、首だけをこちらに向けて彼女は問う。

「もう、かなり良くなった。もう少しで、通院も減るって」

「そうなんだ…。よく頑張ったね」

 彼女は笑顔で、静かに言った。

「月森さんも、今は落ち着いてるみたいでよかったです」

 僕も笑顔でそう返した。

「あ、成果のほうでいいよ。自分呼んでるみたいで気持ち悪い?」

「そんなことないです。じゃあ…、えっと…」

「好きなふうに呼んで」

 この日から、僕は週に何度も病院を訪れるようになった。彼女と話すのがとても楽しかった。


僕は何の躊躇いもなく、彼女を好いていった――

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