Log3:観測者の足もと

有光層は、安全だ。光が届き、視界が確保でき、危険は可視化される。少なくとも、教科書にはそう書いてある。


水中ドローンに新たに搭載する予定のライトのテストは、単純な確認作業だった。照度、照射角、影の出方。いつも通りの手順で、床に置いた機体のライトを点ける。


「ファン回してるけど、排気熱いから気をつけてね」


「……本当だ、ドライヤーみたいっすね」


「ふふ、そんな生易しいもんだったらいいんだけど。じゃあ、テストを始めよう」


白い光が実験棟の壁を満たし、その中心にいつみくんが立つ。彼の影が床に落ち、微かに揺れた。


「……もう少し右、です」


落ち着いた声。的確な指示。

僕は装置の横、光の外に立っている。観測者の位置。いつでも一歩引ける、安全圏。


影を作るのは、照らされる側だ。照らす側には、影はできない。そのはずなのに、いつみくんの影を見ていると、なぜか自分の足元の暗さが気になった。


「……眩しくない?」


首をかしげた拍子に、彼の影が歪む。


「大丈夫ですけど……でも、少し強いかも」


いつみくんが目を細め、ライトの筐体に手を伸ばした。角度を調整しようとしたのだろう。その指先が金属の表面に触れた瞬間、彼は短く息を呑んで手を弾いた。


「っ、あつ……!」

「いつみくん、ごめん! 熱持っちゃうから、触らないよう注意しなきゃね」


僕は慌ててスライダーを動かし、出力を絞る。


「……すみません、びっくりした。これ、こんなに熱くなるんですか?」


「空冷を想定していない強力なLEDだから、水中で冷やされるのが前提の設計なんだ。空気中だと、自分自身の熱で焼けちゃうんだよ」


「ポータブルのファンを最大出力で回してはいるけれど、それでも追いつかない。アルミの放熱板は、触れれば水膨れができるほどの熱を溜め込んでる。地上では、まともに生きていけないライトなんだ」


冗談めかして言った僕の言葉が、妙に重く響く。ちりちりと空気を焦がすような余熱が、二人の間に漂う。


照度を下げると、いつみくんの影は薄くなり、輪郭も曖昧になった。安全になったはずなのに、胸の奥のざわつきは消えなかった。


僕は、ここに好奇心だけで立っているわけじゃない。機械いじりが好きで、親のルーツである深海に惹かれ訪れてみたいと思っている。それは本当だ。


でも、それだけじゃない。光の中に立つ彼を、ただ観測していたいと思っている自分に気がついた。


ブーーーン……


熱を逃がそうと必死に回る羽音が沈黙を埋める。


「ログ、取れました?」


いつみくんが、指先を気にしながら振り返る。


「ああ、問題ないよ」


モニタを確認しながら、何気なく言った。


「あ……やば。今日、夕飯作る約束してたんだった」


言ってから、一拍遅れて気づく。


――まずい。それは完全に、帰る場所がある人間の言葉だった。


いつみくんは工具を片づけながら、何気なく聞く。


「へぇ。久津輪さん、料理作るんですね。意外。何作るんですか?」


年上だから、できて当然だと思われている。その誤解を、僕は修正しなかった。


「今日は軽いやつかな。ごめんね、実験中で申し訳ないけど、家にメッセージを送ってもいいですか? すぐ終わるから」


最近、受信量が多くて胃もたれしてそうだからな…。身体に優しいものにしなきゃ。


「今夜は消化しやすいあっさり系にします。わ、もうレスが返ってきた。純度の高めなサイン波がいい? じゃあ光ファイバーの澄ましログかな…」


「……ログ、ですか。夕飯なのに?」


一瞬、言葉に詰まる。人間の親へ振る舞うべき料理のレシピが浮かばない。材料も、火加減も、味付けも。代わりに頭に浮かんだのは、今日一日の情報量と、それをどう整理すればいいか、という感覚だった。


「ん、……メニューを考えるのが、ってことだよ」


言葉が、空気に落ちる。いつみくんの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


「……へえ」


それ以上、追及はない。でも、視線が一度、僕から外れる。光の問題じゃないところで、何かが揺れてしまったのがわかった。


しまった、と思う。

僕は嘘をついたわけじゃない。

ただ、説明を省いただけだ。


ママ……両親は僕の身体が弱いことを知っている。家族で一緒に暮らすために、僕に適合した食事を心を砕いて用意してくれた。おかげで栄養は足りている。体調も安定している。


――ただ、それは人間の身体を前提にしたものではない。父がマンボウの雄のように個を捨て、異形の母と融合したシステムの一部という前提が存在する。それが僕の「家族」の形。


「久津輪さんの家って、ちょっと変わってますね」


いつみくんは笑って言う。冗談めいた調子で。


「そうかも」


否定も、肯定もせずに答える。


観測者。

年上で、慣れている側。

そう思われている位置。


訂正する機会はいくらでもあった。年齢も、立場も、家庭のことも。でも、僕はしなかった。僕は、家族に愛されて育った確信がある。帰る場所が、自然体な自分でいられる場所がある。だからこそ、ここではおすましというか、擬態ができてしまう。


「……ライト、もう一回当てます?」


いつみくんが言う。


「いや、今日はここまでにしよう」


照明を落とすと、有光層の明るさは一気に薄れた。安全圏だったはずの場所が、少しずつ輪郭を失っていく。


光は、隠してくれるものだと思っていた。でも本当は、準備していなかった部分から先に照らしてしまう。


僕は人間だ。そう思っている。

ただ、完璧にそうだと言い切るには、いくつかの層を、もう通り過ぎてしまっているだけだ。


愛によって。


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