Log2: 音の反射(返らなかった音)
耳の奥が、まだひらいたままだった。
ついこの間に触れられた感覚は未だ残り、音が入り込む準備だけが整ってしまったみたいだ。
実験棟の床を伝う振動も、久津輪さんが器材を動かすときの白衣の布擦れも、いつもより鮮明に聴こえる。
水槽の前に立つと、空気がひんやりしていた。半地下のこの棟は、昼でも薄暗い。系列大学の所有物だと聞いたが、海洋科もないのにどうしてこんな場所が附属高校の敷地内にあるのか。 水の量も、天井の高さも、授業用にしては大きすぎる。
ここに来て、まだ数ヶ月。俺が任されているのは、難しい操作じゃない。ネジを寸法ごとに分けて本数を数えたり、ケーブルの根元をシリコンで固めて、水が入らないよう防水したり。金属の塊を水に沈める前に、当たり前の安全を一つずつ積み重ねる仕事だ。
「トランスデューサーよし、水密よし、沈めます」
少し緊張しながら、覚えたての言葉を口にする。水中で音を出すための、いわば高性能なスピーカー。難しい理屈はまださっぱりわかっていないけれど、俺が塗ったシリコンの隙間から、一滴でも水が入れば、この高価なスピーカーはただのゴミになる。
久津輪さんの真似をしてそう呼ぶと、彼はモニターから顔を上げ、ふっと目を細めた。
「……お、名前覚えたんだ。いいね、水密の仕上がりも綺麗」
少しだけ、耳の裏が熱くなる。認められたような気がして、胸の奥が微かに弾んだ。ネジを数えるだけの毎日から、少しずつ専門的な領域に近づけているのかもしれない。そんな根拠のない自信が、指先に伝わる。
「じゃあ、音響テストするね。ご安全に」
久津輪さんは軽い調子で言って、ドローンの電源を入れた。俺が時間をかけて仕上げた「トランスデューサー」から、鋭い音が伸びる。
高くて、耳の奥を撫でるような音。
少し遅れて、返ってくる。
ピッ。
ピッ……。
音が戻るたび、空間が形を持つ。横にある測定機器の画面には、白い点が揺れていた。オシロスコープ。波形を映す箱だ。さっき褒められた勢いで、俺は画面を覗き込む。
「今の反射、二段だな……なんで? まさか輸送でどっか鳴るようになったかな?」
独り言みたいに言いながら、久津輪さんの顔つきが変わった。さっきまでの柔らかな空気は一瞬で消え、眉間に皺が刻まれる。
「いつみくん、ちょっとそこで待っててね。……いや、一回上げよう。ゲイン調整じゃない、内部干渉……?」
久津輪さんは俺が入り込む隙もないほどの速さで、ドローンを引き上げ、複雑な基板の数値に指を走らせる。
さっきまでの高揚感が、急速にしぼんでいく。俺が誇らしげに呼び、丁寧に防水したそれは、今や久津輪さんを悩ませる問題の塊に変わっていた。
「ごめんね、いつみくん。テスト止めちゃって。調整すぐ終わ……うん、善処するよ」
目盛りを凝視するその横顔は、もう俺の存在なんて忘れているみたいだ。結局、俺にできるのは、彼が指示を出すまで黙って後ろに立っていることだけだった。
自分の出番じゃない。
それを突きつけられたタイミングで、水槽から漏れた音が、重なった。
実験音じゃない。
もっと柔らかい、輪郭のない――
声。
名前を呼ばれた気がして、息が詰まる。
暗い蔵の中。埃の匂い。足元が見えなくて、ただ音だけがあった夜。誰かが動く気配を、息を潜めて聞いていた。呼んでも、返らなかった声。
「……いつみくん?」
久津輪さんの声で、現実に引き戻される。肩が近い。いつの間にか、同じモニターを覗き込んでいた。
「大丈夫? 顔色、ちょっと悪いけど?」
「……はい。平気、です」
耳の奥が熱い。音が、勝手に中まで入ってくる。遮る方法が、まだわからない。
--
わずかな静寂。
「……音ってさ、いいよね」
久津輪さんはモニターに視線を戻し、何気ない調子で言った。
「見えなくても、ちゃんと返ってくるから。そこに何かあるって、わかるんだ」
その「ちゃんと」が、胸に引っかかった。
俺は返ってこなかった音を、いくつも知っている。呼びかけても、返事のなかった夜。行きたかった場所を、行かなかったまま閉じこめた記憶。
「……久津輪さんは、音が好きなんですね」
そう言うと、彼は無邪気に頷いた。
「うん。家でも、よく鳴らしてた」
「家?」
聞き返したつもりはなかった。ただ、音になってしまっただけだ。
「研究所なんだよ。ずっと住んでたから」
当たり前みたいに言う。何もおかしくない、という顔で。
「父様がピアノを弾けたんだ」
「家の奥に、古いスタインウェイのピアノがあって……それを僕も弾くのさ」
指で、空中に鍵盤をなぞる。
「今でも弾くと、ママがよろこぶんだ。父様もママと融合してても、わかるみたい」
――融合。
言葉が、音みたいに遅れて届いた。
「……そうなんですか」
それだけ返して、俺はモニターに視線を戻した。これ以上、聞くべきじゃない気がした。
聞いたところで、うまく受け取れる自信もなかった。
音はいいもの。
家は研究所。
父様なのにママ。
父様は融合している。
久津輪さんの中では、それが一続きの話なのだ。水中ドローンが、もう一度音を出す。
ピッ。
反射音は、さっきより少し歪んでいた。
壁に当たって、形を変えて、それでも消えずに戻ってくる。その場では、何も起きなかった。
数値は記録され続けて、実験は夕方まで続いた。結局、久津輪さんの違和感は宿題になったらしい。
帰り道、ふとした拍子に、さっきの言葉が唐突に浮かぶ。
――融合って、どういう意味なんだ。
人と? 久津輪さんの例えは独特だからな。
両親が異常に仲がいいということか?
もしくは片親が車椅子に乗っているとか…。
それとも、もっと別の何か…?
全く想像がつかない。
まさかマンボウの雄のように、個を捨てて雌と一つになるような――??
いや、そんなはずがない。
無邪気なその声が、俺の空虚をより深く響かせる。
自分の家を思い浮かべる。かつて俺たちがいた家。親父が消えて、空いたままの場所。返ってこなかった音。
比べるつもりはなかったのに、比べてしまう。音は必ず返る。そう信じている人の隣で、俺はエコーを聞いていた。
違和感は、波みたいに遅れてくる。その場では気づかないふりをして、夜になって、静かになってから、何度も返ってくる。
それでも耳は、閉じなかった。
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