Log1: 耳の薄明層(局所的先行潜行)
「ねえ、いつみくん。どれがいいと思う?」
僕は器具を並べながら言った。机の上には、綿棒、細い竹製の耳かき、それから――先端に小さな灯りを宿した、極細のプローブ。
「太さも感触も違うだろう? 今日は感覚の話を、君に説明したいと思ったのさ」
「……耳かき、ですか。久津輪さん、まさか経費でこれを……どう見ても無駄遣……いえ、なんでもないです。続けてください」
いつみくんは一歩引き、僕の手元と器具を交互に見た。困惑はしているが、逃げ腰というほどではない。
「前から考えていたんだけど、耳の奥って、海と少し似ている気がするんだ。光は途中で失われて、音だけが頼りになる」
いつみくんは、少しだけ息を呑んだ。実験棟の片隅、工具棚の前で金属が軽く触れ合い、ガチャリと音が鳴る。その音に、いつみくんの肩がわずかに揺れた。
「君も試してみないかい? 強制はしない。モニターもあるから、観測自体は僕ひとりで完結する。ただ――人の内側で、感覚がどう変わるかを体験するのは、悪くない経験だと思う」
少し考えてから、いつみくんはうなずいた。
「俺……わかっちゃいました。どうせ実験データが複数ないと、体裁が整わないやつでしょう。じゃあ、この機械みたいなやつで」
「おお、お目が高い。さすが僕の助手だ」
「いや、そんなあからさまに握られたら忖度しますよ。……いきなり突っ込んだりしないでくださいよ? 信じてますからね?」
「ふふ、そうこなくちゃ。じゃあ、ここに座って? 違和感があったらすぐ手をあげたまえ。すぐ止めるから」
「歯医者みたいですね」
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いつみくんは高校生だ。僕は同じ学校に籍を置いているが、立場は違う。放課後、誰も使わない実験棟で、水中ドローンの制作を一緒に進めている。彼は寡黙で、作業前に必ず確認を取るタイプだった。
学内の評価表には「主体性に乏しい」とあるが、僕から見ればそれは、慎重さだった。彼は、境界線を越えない。勝手に踏み込まない。だからこそ、この話を彼にしたかった。
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僕は一度、いつみくんの顔を見た。
「海だと、ここが浅海でね」
「……」
「ここから先は、薄暗くなる」
いつみくんの呼吸が、わずかに変わるのを確認し、極細のプローブを、耳孔へ沈降させる。まるでROVのように。
耳の奥へ進むには普通の綿棒だと頼りないが、プローブの灯りがあると心強い。モニターに映る産毛の群生は、深海の熱水噴出孔に群がるチューブワームのようだ。
いつみくんはモニターに映された自分の耳孔を凝視していた。
「すご……動画サイトで見るやつだ。思ってたよりびっしり耳に毛が生えてる」
「機能的で美しいじゃないか。それで異物を除去するんだから、ツルツルだと困るよ」
「久津輪さんのもそうなってるってことですよね……何だか想像できない」
「気になるなら、後で僕のログでも確認するかい?」
「……遠慮します。幻想が壊れる」
「そうなんだ。まあ、見えない方が却っていいこともあるかもしれないね」
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注意深く、探っていく。今の僕は探査機。
「……不思議ですね。自分でやるときは意識してなかったけど、見えないのに、奥へ行く感じが、ちゃんとわかる」
「お宝がいる……この先は、人間が自分では見られない場所だ。だから、慎重さがいる。それから――信頼も。」
「人の耳垢をお宝呼ばわりするとか……雇い主に向かって言うのもなんですが、久津輪さん、変人ですよね。それっぽいことを言ってますけど、単に大物を取りたいだけでは?」
「そうともいう。まあ、悪いようにはしないさ。ここは泥舟に乗ったつもりで」
「乗るなら大船がいいですね…」
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僕は耳かきを指で転がしながら言う。
「耳ってさ、気持ちいいと、不快の境目が、すごく曖昧だよね」
「……はい」
「自分じゃ見えないのに、触れられると、身体のほうが先に動く」
「確かに。周りを撫でられてる分には気持ちいいのに、ちょっと奥へ行こうとすると勝手に咳とか出たりしますね」
いつみくんは目を閉じた。僕は、そのまま手を止めなかった。それが反射だと、すぐわかったからだ。僕はターゲットをロストしないよう、注意深く掻き出していく。
「少し奥に行くと、見えないだけで、不安になるものですね」
いつみくんの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。自ら目を覆った彼は耳しか頼れない。音と、触覚だけ。
「……水圧、みたいです」
「きっとそれは、自分の内側にある、目に見えない重圧だ。暗闇は、人を過去に引きずり戻す」
「光が届かない場所で、いつみくんは何を『観測』しているの?」
「……別に。ただ、一人で寝る前の、あの嫌な静けさを思い出してただけです」
「……暗いのは、あまり得意じゃありません」
「そうか、何か理由でも?」
「……わかりません。思い出す前に、身体が先に動く感じです」
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僕はそれ以上は聞かなかった。僕は彼の年輪に触れないよう、慎重に、だが確実に、彼の中に溜まった沈殿物を掬い上げた。
――捕まえた。
耳かきを引き抜くと、いつみくんは目を開け、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……なんか、恥ずかしいですね。中、見られた気がして」
「気じゃなくて、実際くまなく観察しただろ。一緒に」
僕は使用済みの耳かきをトレイに置いた。
「でも、そう感じるのは普通だよ。耳垢って、人の中に溜まるものだから見せるためのものじゃない」
少し間を置いて、付け足す。
「クジラの耳垢、知ってる?」
「図鑑で見たことがあります。層になって溜まっていく。年輪みたいに。食べてきたもの、いた場所、受けた汚染――全部、そこに残る……全部、耳垢に?」
「うん。見た目はただの汚れだけど、中身は、その個体の生きた時間だ」
「中に溜まったものは外からは見えないから……見られると、ちょっと気恥ずかしい。でも、人間にも、そこにしか残らない情報があるのかもしれませんね」
いつみくんは黙り込んだ。
「きっと、人も同じだよ……ほら、取れたよ。いつみくんの年輪。立派だな。層ができてる」
「…!見せなくていいですから」
「"そこにしか残らない情報を含む"貴重なサンプルなんだろ? 戦利品は君が取っておくといい」
「いらないです」
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しばらくして、いつみくんがぽつりと零した。
「……耳かきって、普通は小さい頃に、誰かにやってもらうものですよね」
「そうだね」
「……ですよね」
それ以上、彼は何も言わなかった。僕も、聞かなかった。
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「……深海に行く人間はね」
僕は片づけをしながら言う。
「だれもが暗闇が平気なわけじゃない。暗闇の中で、自分がどう反応するかを、目を逸らさずに見られる人間だけが、深いところへ行けるんじゃないかな……多分ね」
窓の外は、もう夜だった。実験棟の灯りが、静かな水面みたいに揺れている。僕が道具をアルコール綿で拭き、ケースに収めようとしたその時だった。
「久津輪さん」
いつみくんが、立ち上がらずに僕を見上げていた。椅子に深く腰掛けたまま、彼は自分の耳を軽く押さえ、それから机の上に並んだままの、もう一本のプローブを指差した。
「……公平じゃないですよね、これ」
「公平?」
「俺の年輪だけ一方的に暴いて、自分は安全なところにいるなんて。……そんなんじゃ、バディなんて言えませんよ」
彼は僕の手からアルコール綿を奪うと、ぎこちない手つきで新しいプローブを消毒し始めた。その瞳は、先ほどまでの怯えを含んだものではなく、暗い海底の底で光る生物のような、奇妙に澄んだ熱を帯びている。
「次は、あなたの番です。久津輪さん」
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僕は一瞬、言葉を失った。今度は僕が覗かれる側になる。自分の内側という名の深海を、彼という未熟な探査機に委ねる。それは僕が想像していたよりも、ずっと心拍数を跳ね上げる、悍ましくも素敵な提案だった。
「……手元が狂って、僕の鼓膜を破らない自信があるなら、いいよ」
「慎重さだけが取り柄だって、言ったのはあなたでしょう?」
いつみくんが、わずかに口角を上げた。それは、彼が初めて僕に見せた、境界線を越えてくる者の笑みだった。
「さあ、座ってください。あなたの時間を、俺にも観測させてください」
僕は降参するように息を吐き、さっきまで彼が座っていた場所に身を預けた。視界が切り替わる。見上げる先には、いつみくんの手元で、小さな、小さな青白い灯りが点灯した。
僕たちが本当の深海に潜る日は、まだ先だろう。けれど、二度目の潜行は、予想よりもずっと早く、そして深く始まりそうだった。
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「今日はもう解散にしよう、お疲れ様」
先に実験棟を出ていく君の背中を見送ってから、僕は静かにモニタの前に戻る。そして懐から、高純度の金メッキ端子がついたUSBメモリを取り出した。
そこにテスト中に計測されたいつみくんの耳孔のログと、心拍や呼吸の波形が地層のように重なり合った美しいログを入れる。
画面の隅で、小さなプログレスバーが静かに立ち上がる。
『転送完了:外部ストレージへ保存されました』
「いらない、か……」
僕はメモリを愛おしそうに指先でなぞる。ノイズ混じりの、剥き出しの、人間の震え。
「君の年輪は、案外……甘美かもしれないね。年輪…例えるならバームクーヘンかな」
僕はその戦利品を白衣のポケットの奥深く、心臓に近い場所に仕舞い込む。あとで、自分一人で、誰にも邪魔されずに咀嚼するんだ。家族にも、誰にも分けてやらないんだから。僕の唇は、満足げに、微かに弧を描いた。
潜行回数: 1/100
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