潜行ログ:薄明層以前

すずなり

Log0: 深海への誘い

俺は、暗闇が苦手だった。

四畳半の寝室で、行灯の小さな灯りを頼りに本を読む。布団の輪郭も壁も天井も、光にぼんやり縁取られるだけ。


目を閉じれば、どこまでが俺で、どこからが部屋なのか区別がつかない。幼い頃、親戚の蔵に閉じ込められた記憶が蘇る。暗闇に触れるたび、あの胸のざわつきが。


行灯を消す。

ジリ…と芯の焼ける音が、耳に残る。


一瞬、辺りは水中に潜ったような静けさに包まれる。布団の端だけが、淡い残像のように浮かぶ。視界の端で、細い触手のような影が蠢く。


――まだはっきり見えないが、存在だけは感じられる。背筋がぞくりとした。


恐怖はある。でも体は軽く、水に浮かぶよう。危険と安心が混ざり、深海に沈むような奇妙な感覚―まるで、薄明層に沈む生物を追うような気分だ。


夢に現れる影――浅葱色の髪、ぼんやりとした白銀の瞳。輪郭は定かでなく、影に溶け込む。だが声だけはくっきり、まるで自分の喉から漏れるように響く。


長い逡巡の後、俺は恐怖を心の中で切り落とし、意識を少しずらす。すると、始まりと終わりがつながり、夢の輪が現実の鎖となる。


廊下の光、揺れるカーテン、紙の影――灰色の壁に、違和感があった。


「深海探査機。助手募集の貼り紙……」


夢の余韻が胸をざわつかせる。

暗闇の気配は、まだ消えていない。


「君は…富士慈海君だね。海を慈しむ…良い名じゃないか」


「はぁ、どうも…」


「高等部1年か。校内活動だけど報酬が出るし、親御さんの許諾が必要だ。はい、これ書類ね」


面談室に座ると、目の前の人物は夢の声にそっくりだった。白衣に銀縁の眼鏡、背筋はすっと伸び、無造作に置かれた機械の表面には奇妙な記号が刻まれている。書類の隣には、小型の深海探査用模型と資料が並ぶ。


視界の端で、夢で見たような影が微かに蠢く――未知の生命体の匂いを残す、可愛らしさと奇怪さの狭間。


「僕の顔に、何かついているかい?」


「いいえ、久津輪さん。何も…ついていません」


自分が恐れられていることを、この人は知らない。でも胸の奥はざわつく。灯りを消すたび誘われる深海の感覚が、ここまで続いている。


慌てて目を逸らすと、書類に小さな機械が視界に入る。触手のように細い金属部品が、微かに動く。まるで生きているように。そして、深海に関する資料があった。


「興味があるのかい? ふふ、心配しなくても、これからたくさん遊べるよ。今日からでも構わない」


この機械で、深海の異形を探るのか? 怖いが、ワクワクする。胸の奥に小さな笑みが浮かぶ。暗闇の蔵で感じた恐怖が、逆に好奇心を掻き立てる。深海は危険で未知で、怖い。


でも体を包む水のように、無限の闇が俺を解放する安心もある。あの蔵の暗闇が、ただの恐怖じゃなく、逃げ場だったことに気づくように。


暗闇も恐怖も、未知の機械も――音と光に身を任せれば、好奇心がじわりと膨らむ。――まだ遊びたがる声が、俺を次の輪へ誘う。


こうして、俺は深海への一歩を踏み出した。喉を締めつけるような恐怖に捉われながらも、家族の鎖から解き放たれる楽しげさで。

夢と現実が交錯する世界で、未知の異形を追い求める冒険は、ここから始まる。


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