第4話 変化

死神が完全に消え去ったあと、しばらくの間、部屋には静寂だけが残っていた。

あれほど濃く漂っていた闇の気配も、奇妙な声も、今はどこにもない。

――そのときだ。


低い音を立てて、床の一部がゆっくりと動き出した。

石と石が擦れる重たい音とともに、階段が姿を現す。

階段の先には、かすかな明かりが見えた。

暖かいとも冷たいとも言えない、ただ“先がある”と示す光。

入る前とはまるで違う。

あの不気味な声も、歪んだ気配も聞こえない。

まるで最初から、ここがただの静かな部屋だったかのようだ。

「……なんだったんだ、あれは」

思わず、そう呟く。


死神。

モンスターとも違う、敵とも味方とも言えない存在。

問いは残るが、答えはない。

僕は、自分の手を見つめた。

そこには、確かに闇がある。

隠す必要もなく、拒む必要もなく、完全に従う力として。


――闇魔法。

別名、禁断と呼ばれる魔法。

歴史の本でしか見たことのない、紙の上の存在だったはずの力。

内容は、正直ほとんど覚えていない。

けれど、一つだけ、はっきりと覚えている言葉がある。


闇は悪。

光は善。


何の根拠もない、単純な分類。

それでも、本を読んでいた当時の僕は、疑いもしなかった。

「そういうものだ」と、自然に受け入れていた。


――そして今。

僕は、その“悪”になった。

胸の奥に、静かな問いが浮かぶ。

何が、悪い?

まるで自分の影が、そう囁いたかのようだった。

否定も、肯定もない。

ただ事実だけを突きつける問い。


そうだ。

僕は選んだ。

グリスを倒 殺すと。

理由は単純だ。

正義でも、使命でもない。

奪われたものがある。

踏みにじられた想いがある。

それだけで、十分だった。


たとえ――

この力が“悪”だと言われようとも。


たとえ――

僕自身が“悪”だと罵られようとも。

構わない。


「……俺は」


声が、自然と変わる。

もう、迷って震える少年の声じゃない。


「俺は、あいつを殺す」


誰に誓うでもなく、ただ自分自身に言い聞かせるように。

その言葉と同時に、胸の奥の闇が静かに応えた気がした。

覚悟は、もう揺れない。

アークは、階段の前に立つ。

そして、一歩。

過去を振り返らず、

善と悪の境界を振り切り、

ただ“目的”だけを胸に刻んで。

静かに、しかし確かに――

階段を、登り始めた。


ひたすら階段を登り続けていたアークは、やがて明かりの先へと辿り着いた。

――地上だった。

頭上には輝く太陽。

穏やかな風。

整然と並ぶ家々と、遠くから聞こえてくる人の気配。

そこは、どう見ても平和な街だった。

「……」


だが、アークは一歩も前に進めず、その場に立ち尽くしていた。

おかしい。

あまりにも、おかしすぎる。

死神がグリスの姿をして現れたように、ここもまた偽物なのではないか。

その疑念が、胸の奥で消えなかった。


――ここは、現実ではない。

そう考えるには、十分すぎる理由があった。

俺はグリスに襲われた。

炎に包まれた城の近くで、崖から突き落とされた。

そして、下へ落ち、ダンジョンへ入った。

あのダンジョンには、たった一つの部屋しかなかった。

俺は、ほとんど移動していない。


それなのに――

今、目の前に広がっているのは、

あの地獄のような景色とは正反対の、あまりにも平和な世界。

そのときだった。

背後で、微かな音がした。

振り返ると、さっきまであったはずの階段が、

まるで意思を持つかのように動き、

歪み、溶けるように消えていった。

……死神と、同じ消え方。


「まさか……」

言葉が、喉に詰まる。

ここが現実である根拠が、一つ生まれた。

同時に、ここが現実ではないという根拠が、一つ消えた。

ありえない。


――いや、ありえないなんて、もう何度も言った。

それでも、すべては起きてしまった。

なら、確かめるしかない。

アークは、自分の視界に入った一軒の家へと向かった。

静かな街。


誰もが普通に生きているように見える場所。

震える手で、ドアをノックする。

コン、コン。

しばらくして、ドアが開いた。


「はい、誰でしょうか?」


扉を開けた女性は、そこで言葉を失った。

目の前に立っていたのは、

血の跡が残り、いくつもの怪我を負い、

服も破れ、今にも倒れそうな――子供。

「……っ!?」

思わず、声が漏れる。

「大丈夫?!」

泥だらけなだけではない。

明らかに、ただ事ではない状態だった。

その子は、少し間を置いてから、口を開いた。

「……ここは、どこですか?」

その声を聞いた瞬間、女性は答えるより先に動いていた。

「とりあえず、入って!」

そう言って、彼女は少年の手を引き、家の中へと招き入れた。


――なんでだ?


家の中に引き込まれながら、俺は混乱していた。

こんな大人、今まで一度も見たことがない。

俺を疑わず、恐れず、心配する大人なんて。


「……なんで、心配するんだよ」


胸の奥が、少しだけ痛んだ。

リズを、思い出してしまったからだ。


気づけば、俺は彼女を信用していた。

咄嗟に、ここがどこなのかを尋ねてしまった。

彼女は俺をテーブルの椅子に座らせて言った。

「少し待っててね」

俺は黙って待った。


数十分後、彼女は皿を持って戻ってきた。

温かい匂いが、鼻をくすぐる。

「食べて」

その声は、優しくて、心配する感情が滲んでいた。

俺は、言葉を失ったままだった。

彼女は俺の向かいに座り、静かに話しかける。


「あなたの名前は?」

「……」

「食べたくない?」

俺は首を振り、しばらくしてから、料理に手を伸ばした。


――うまい。

久しぶりに感じる、まともな食事の味。

夢中で食べていると、ふと視線を感じた。

顔を上げると、彼女はとても嬉しそうに笑っていた。

その表情を見た瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


「あなたの名前は?」

少しだけ間を置いて、俺は答えた。

「……アーク」

その名前を口にした瞬間、

この世界が現実であってほしいと、

ほんの少しだけ――思ってしまった。




それから、会話が少しずつ進み始めた。

彼女は、空になりかけた皿を片付けながら、ふと思い出したように言った。


「そういえば、まだ名乗ってなかったね。

 私の名前はエル。よろしくね、アーク君」


「……よろしく、お願いします」

自然と、声が少しだけ低くなった。

さっきまでの“俺”ではなく、

どこか距離を取ろうとする“僕”の感情で。

エルはそれに気づいたのか、気づいていないのか、


変わらず穏やかな表情で、次の質問を投げかけた。

「アーク君は、何歳なの?」

「……11歳です」

そう答えた瞬間だった。

ほんの一瞬、

本当に一瞬だけ――

エルの笑顔が、わずかに揺れた気がした。

驚きか、戸惑いか、

それとも別の何かか。

「……そう」

すぐに、元の優しい表情に戻ったけれど、

俺はその変化を、確かに見逃さなかった。

沈黙が落ちる。


その静けさを破るように、エルは声の調子を少し落として言った。

「ねえ、アーク君。

 どうして、そんな怪我をしているの?」

俺は、答えなかった。

クロス家。

闇。

グリス。

もしこの人が、何も知らないのなら――


話さない方が、きっと楽だ。

重い沈黙が流れる。

けれど、エルは俺を責めることも、問い詰めることもしなかった。


「言いたくないなら、無理に言わなくていいよ」

そう言って、柔らかく微笑む。

「でもね、言いたくなったら、いつでも言って。

 遠慮しなくていいから」


その言葉に、胸の奥が、少しだけ痛んだ。

出会って間もない俺に、

“頼っていい”と、当たり前のように言う。

そんな大人を、俺は知らない。

だから――


気づけば、口が動いていた。

「……なんで、助けてくれるんですか」

自分でも、驚くほど素直な声だった。

エルは、一瞬だけ動きを止めた。

それから、少し考えるように視線を上に向けて、

くすっと笑った。


「助ける以外、何か理由がいるの?」

そのまま、俺の方を見て言う。

「私はね、助けたいと思ったから助けただけ。

 それだけ」

にっこりと、心からの笑顔。

その顔を見た瞬間、

胸の奥で、何かが崩れた。


気づけば、目の端が熱くなっていた。

「あ……」

エルは慌てて身を乗り出す。


「ご、ごめんね!

 変なこと言っちゃったかな?」


その様子が、あまりにも必死で――

俺は思わず、笑ってしまった。


「……違います」


そして、はっきりと言った。



「ありがとう」



その言葉に、エルは少し驚いたあと、

安心したように、優しく微笑んだ。

その笑顔を見ながら、俺は思った。


――それでも、俺は進む。

――闇を選んだことは、変わらない。

けれど今は、

この一瞬だけは――

人の温かさを、胸にしまってもいい気がした。

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まだ題名のない物語 @Shirahoshi0

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