第3話 赤い瞳、そして選択
歪んだ声が、ダンジョンの奥の暗闇から響いてくる。
その声を耳にした瞬間、僕の手は震え、足は地面に縫い付けられたように動かなくなった。
――当然だ。
今まで戦うことが怖くて仕方なかった僕が、急に強くなれるはずがない。
弟に大切な人を奪われたと言われても、叫んで怒りをぶつけることはできても、実際に“戦う”となれば話は別だ。
あのときの勢いの方が、むしろ奇跡だった。
だけど――
リズの名をあの男に踏みにじられた瞬間から、胸の奥で何かが変わった。
心が、心臓が、鼓動そのものが囁いている。
「進め。あの先のものを超えろ」
と。
体は恐怖にすくんでいるのに、
心だけが、燃えるように前へ出ようとしていた。
まるで別の自分が、中から殻を破ろうとしているみたいだった。
恐怖に縮こまる僕とは違う。
その“心の自分”は、怒りに満ちていて、今の僕よりもずっと強かった。
そして――
さっきまで動かなかった足が、ほんの少しだけ前に出た。
震えた手が、わずかに力を取り戻した。
これは予感でしかない。
だけど、僕の体は恐怖よりも――
怒りのほうが勝り始めている。
行くしかない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに途切れたような気がした。
迷いなのか、恐怖なのか、それとも別の何かなのか。それは分からない。
ただ、僕はダンジョンの闇へと歩みを進めた。
入口を抜けた瞬間、空気が変わった。
魔力は走れる程度には戻っていたが、魔法を発動させるほどの余裕はまだない。
だからこそ、慎重に進まなければならなかった。
]……だが、異変はすぐに起こった。
ダンジョンの底には何もない。
いや、本当に“何も”なかったのだ。
岩も壁も、モンスターの気配すらも。
ただ静寂だけが広がっていた。
それなのに、不思議な感覚があった。
-魔力が回復していく。
まるで体の奥底から温かな泉が湧き上がるように、魔力が自然と満たされていく。
数分もすると、僕の魔力は完全に最大値に戻っていた。
そしてその瞬間だった。
奥の闇がゆっくりと揺れ、そこからひとつの巨大な扉が現れた。
石造りでも木製でもない。光で形作られたような、見たこともない不思議な扉。
僕は思わず近づきかけたが、踏み出す直前で立ち止まった。
魔力が回復するこの場所に、しばらく留まった方がいい。
そう直感したからだ。
そして考える。
-なぜ扉が出てきたのか。
-なぜここだけ魔力が勝手に回復するのか。
父様と行ったダンジョンは、ただの巨大な洞窟だった。
敵がいて、道があって、進めば進むだけ危険が増す。それだけの場所だった。
でもここは違う。
魔力を癒やす場所があり、魔力が満ちたときにだけ扉が姿を現す。
これは本当にダンジョンなのだろうか?
それとも――父さんと行った場所とはまるで別の性質を持つ、特別なダンジョンなのだろうか?
どちらにせよ、答えは扉の奥にしかない。
僕は息を整え、光の扉に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、扉は静かに開いた。
そして僕は――その奥へ足を踏み入れた
扉をくぐった瞬間、周囲は完全な闇に包まれた。
息をする音すら反響するような静寂。
どこへ来たのかすら分からない。
一歩踏み出そうとした瞬間――
天井に埋め込まれた光源が突然灯り、白い光が部屋全体を照らし出した。
そして、僕は息を呑んだ。
部屋の中央に、グリスが立っていたのだ。
「また会ったな、アーク。」
わざとらしく笑みを浮かべるその声は、僕の背筋に寒気を走らせた。
怒りが胸の奥から一気に噴き出した。
頭の中が一瞬で真っ白になるほどの熱が込み上げる。
リズの名を踏みにじり、僕の人生を狂わせた男が、そこに。
グリスが何か言いかけたその瞬間、
僕は衝動に突き動かされるように駆け出していた。
気づいたときには、彼の目前まで来ていて――
拳が反射的に前へ突き出されていた。
手応えと同時に、グリスの体がぐらりと揺らぐ。
バランスを崩した彼は床へ倒れ込み、その姿は淡く光って――
霧のように消えた。
まるで幻だったように。
「どこに行った! 出てこい!」
僕は部屋に響くほどの声で叫んだ。
その瞬間――
部屋全体が低く震え始めた。
地鳴りのような重い振動が、足元から伝わってくる。
(下…?)
床の隙間から、黒い影が滲むように広がっていく。
まるで闇そのものが形を持ち始めるように、ゆっくりと、確実に。
僕は咄嗟に魔法の構えを取ろうとした。
だが、その“影”が完全に姿を現した瞬間、僕は動きを止めてしまった。
巨大な黒い影――
その上部には、異様に大きな人間の頭蓋骨の形をしたものが浮かんでいた。
眼窩は深く、空っぽのはずなのに、そこからじっと見られているような感覚が走る。
喉が乾く。
背中にひやりとした汗が流れる。
怒りは一瞬で薄れ、胸の内は強烈な恐怖に支配された。
――これは、ただのモンスターじゃない。
その存在感は、圧倒的だった。
まるで命そのものを掴まれるような、逃げ場のない重さ。
口の中で言葉が漏れる。
「……死神……」
それは僕が幼い頃、父様の本で見た絵によく似ていた。
命を奪う存在を象徴として描かれた、黒い影の王。
ただの神話だったはずなのに――
目の前のそれは、絵よりもずっと、恐ろしく、生々しく、現実的だった。
僕は後ずさりしそうになる足を必死に踏みとどめた。
逃げれば追い詰められる。
ならば――ここで立つしかない。
でも、体が震えているのも確かだった。
心が動こうとしても、足は鉛のように重い。
どうすればいい。
どう、“立ち向かえば”いい。
次の瞬間、影がゆっくりと動き始めた。
闇が手の形を作り、僕へ伸びてくる――
闇が僕の体を取り込もうと僕を囲んでくる。
すると突然、胸の奥が熱を帯びた。
心臓が――赤く、脈打つように光り始めたのだ。
同時に、視界が歪む。
目の奥が焼けるように熱く、まるで内側から何かが目覚めようとしている感覚だった。
「な……なにが……」
自分の身に起きている異変に、僕自身が一番戸惑っていた。
だが、それ以上に驚いた反応を見せたのは、目の前の“闇”だった。
黒い影は、まるで危険を察知したかのように、僕から一瞬で距離を取った。
恐れているのか、それとも警戒しているのか――判断はつかない。
正直、僕もただ立ち尽くしているだけだった。
やがて闇は形を変え、再び死神の姿へと戻った。
その間、僕は気づいてしまった。
――動ける。
恐怖は確かにある。
足も手も震えている。
それなのに、体は言うことを聞いている。
さっきとは違う。
さっきは「進め」と心が叫んでいたのに、体が拒んでいた。
今は逆だ。
心は混乱しているのに、体だけが静かに前を向いている。
(……誰かが、動かしている?)
グリスの影響なのか。
それとも、まったく別の“何か”なのか。
僕が考え込んでいると、死神は音もなく距離を詰め、気づけば目の前に立っていた。
あまりにも近い。
反射的に後ずさろうとしたが、なぜか足が動かない。
死神は僕を見つめていた。
いや――正確には、僕の目と、心臓のある位置を、交互に観察している。
その視線には敵意も、殺気もない。
あるのは、研究者が未知の存在を見るような、冷たい興味だけだった。
恐怖に包まれているはずなのに、不思議なことに心臓の鼓動は落ち着いていた。
まるで、心臓そのものが状況を理解しているかのように。
そのとき――
頭蓋骨の口が、ゆっくりと開いた。
「……お前は、器か」
低く、乾いた声。
それは確かに“言葉”だった。
「っ……!」
一気に背筋が凍る。
モンスターが喋っている。
それだけで、世界の前提が崩れる感覚がした。
震えが強くなる僕を見て、死神は続けた。
「安心しろ。私は、いわゆるモンスターではない」
「……な、何を……」
僕はそう呟いた -つもりだった。
だが、死神は首を傾げるような仕草を見せる。
「口には出していない」
次の瞬間、その声は、直接頭の中に響いた。
「私は、貴様の感情と脳を覗いているだけだ。それ以上でも以下でもない」
理解が追いつかない。
思考を読まれている?
そんなこと、あり得るのか。
いや――
このダンジョン、この存在、この状況。
「あり得ない」と断じる根拠は、もうどこにもなかった。
そのとき、ふと気づく。
(……最初に現れた姿……)
死神は、最初――
グリスの姿をしていた。
「……あんた……」
声が震える。
「どうして、最初は……あいつの姿を……」
死神はしばらく沈黙し、やがて淡々と答えた。
「貴様の心が、最も強く反応する“形”を借りただけだ」
「怒り。喪失。執着。
それらは、器を測るには都合がいい」
「……器……?」
問い返した瞬間、死神の眼窩の奥が、かすかに光った気がした。
「まだ、完全ではない。
だが――久しく見なかった」
「赤き心臓と、赤き瞳を持つ者をな」
その言葉の意味を、僕はまだ理解できない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
――この存在は、ただの敵ではない。
そして、このダンジョンは、ただの試練の場でもない。
死神は、静かに一歩下がった。
「恐怖を抱いたままでいい。
怒りに飲まれる必要もない」
「選べ。
貴様が“器”であることを誓うなら、その選択が、次を開く」
その言葉が終わると同時に、部屋の空気が再び重く歪み始めた。
目に見えない圧力が、胸の内側を押し潰すように広がっていく。
――そもそも、器ってなんだよ。
問いは頭の中で何度も繰り返される。
けれど、死神は答えない。
ただ静かに、何も言わず、その身体を地面の闇へと沈めていった。
「……消えた?」
困惑した次の瞬間、違和感が背中を走る。
気配が――消えていない。
足元から、背後から、左右から。
死神は闇となり、僕を囲んでいた。
「選択せよ」
その声は、もう耳からではなかった。
直接、頭の中に響いてくる。
情報は何もない。
器とは何かも分からない。
この死神が何者なのかも、なぜ僕に関わるのかも。
――分からないものに、誓えと言われても。
「……僕は」
喉が渇き、声が震える。
「僕は、器じゃない」
言葉を放った瞬間、空間が軋んだ。
闇が一気に膨張し、部屋全体を覆い尽くす。
光は消えた。
残ったのは、僕の心臓と、赤く光る瞳だけ。
「選択を、実行する」
淡々とした声と同時に、闇が動いた。
それは刃でも、鎖でもなく、ただ“流れ”のように――
胸の奥へと、静かに入り込んでくる。
(……しまった……?)
一瞬、そう思った。
けれど、痛みはない。
息もできる。
意識も、はっきりしている。
闇は、ただ僕の中に“在る”だけだった。
やがて闇が引き、視界が戻る。
気づけば、死神が再び目の前に立っていた。
「お前は、抗うか。
それとも、それが運命なのか」
問いかけるように、死神は続ける。
「私は、お前に“お前だけの闇”を与えた」
「……?」
「お前は、闇魔法を使うことができる」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
だが、次の一言で理解する。
「その代償として、光魔法を扱うことはできない」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「どういうことだよ……」
そう呟いた瞬間、死神の姿は霧のように薄れ始めた。
完全に消える――そう思った、その直前。
低く、重い声が、再び頭の奥に直接響いた。
「――まだ終わりではない」
消えかけていた死神の輪郭が一瞬だけはっきりと浮かび上がる。
その眼窩の奥が、鋭く僕を射抜いた。
一拍置いて、はっきりと告げられる。
「―本体を倒せ」
静寂の中、頭蓋骨の奥から声が響く。
「お前はすでに、闇を手にしている」
胸の奥が熱くなる感覚。
確かに、闇は自在に操れる。魔法も、力も、すべて手中にある。
だから恐れる必要はない――はずだった。
「だが、選べ」
声が続く。
「この力を持ったまま、何を為すか。
お前が選ぶのは、単なる存在の支配か、使命としての戦いか」
理解が追いつかない。
「……使命?」
「そうだ。
お前が“器の本体”を倒すと決めれば、他の器やその本体たちを倒す目的を得ることになる」
一拍置いて、死神は視線を僕の心臓に向けた。
「闇の力は十分にお前のものだ。
だが、それを何に使うか――
選択はお前自身が下す」
言葉の意味は重い。
すでに闇を使える僕が、この先どう戦うかは僕次第だ。
「抗うか。
それとも、使命として従うか」
死神は一歩下がると、淡々と告げた。
「決めるのは、お前だ」
そして、静かに姿を消す。
残されたのは、胸の奥で脈打つ赤い光と、
闇を完全に操れる自分自身だけ。
――ただし、使命を選ぶことで、力はより大きな意味を持つことになる。
僕はその重みを噛みしめ、ゆっくりと前を向いた
――選択は後。
まず始めるのは、グリスを殺すことだ
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