第2話 先
奈落へと落ちていく最中でも、僕の意識はただ一つの感情だけに支配されていた。
-グリスを殺す。
その思いだけが胸を灼くように広がっていた。
「殺してやる…殺してやる…殺してやる…」
落下の風にかき消されそうな声を何度も何度もこぼす。
母さんが死んでしまった理由が僕にあって、さらにグリスが殺ったと言われた時、もしあのことがなければ、きっと僕は罪悪感に押しつぶされていたのだろう。
けれど――
あの子だけは。リズだけは。
グリスの言葉が胸に突き刺さった瞬間、暗闇の底で燻っていた罪悪感は、烈火のような怒りへと形を変えた。
さっきまで、昔まで戦うのが怖かった僕が。
リズは僕にとって、誰よりも、自分の命よりも大切な存在だから。
だからこそ今、僕は悟った。
どれだけ叫んだところで、このまま落ちていく僕にグリスを倒す術はない。
ここで死んでしまえば、グリスはこの世界のどこかで何事もなかったように笑って生き続ける。
-今、生きなくてはいけない。
僕は静かに覚悟を固めた。
問題は、どうやって生き延びるかだ。
崖の底から脱出する魔法?そんな便利なものは持っていない。
体力だってほとんど残っていない。
ならば、着地の衝撃をどうにかするしかない。
幸い、僕は防御魔法の才を持っている。
第四級魔術師の魔法すら無傷で受け止める強固な防御壁――ただし、代償として莫大な魔力を消費する。
体の奥底に宿る魔力が、まるで砂時計の砂のように少しずつ減っていく感覚がある。
どれだけ量が多くても、いまの僕の魔法はほぼすべての魔力を注ぎ込まなければ成立しない。
それでもいい。
いまはただ、落ちた先で生き延びるために。
生きて、グリスを殺すために。
僕は深呼吸を一つして、魔法詠唱を始めた。
魔法を使うのは久しぶりだったけれど、今ここを生きるためにどうしても力が必要だった。
「今、弱き者を護らむがために、同じく我れ彼を護らむ。ゆゑに、我に力を賜へ――」
声がかすかに震える。けれど、その震えを無理やり押さえ、最後の言葉を力強く唱える。
「アドバンスド・プロトコル」
瞬間、半透明の青い六角体が僕の体を包み込んだ。光は柔らかく、でも確かな手応えがあった。これで落下の衝撃から体を守ることができる――そう直感した。
-まだ地面が見えない。
落下は、かなり前から始まっていたはずなのに、いったいいつ地面にたどり着くのか。落ち続けている時間を確かめると、もうおよそ5分弱が過ぎていた。
こんなことが現実に起こり得るのだろうか?体感よりずっと長く、無限に近い時間が流れているような錯覚に陥る。
それに、もしプロトコルの効果が切れてしまったら -。
僕の体力は限界に近く、魔力も残りわずかだ。防御魔法が切れれば、地面に着いた瞬間、僕は何もできずに死んでしまう。
プロトコルの持続時間は決して長くない。今回、僕が注ぎ込んだ魔力で使える限界は10分。
そして今、残り時間はわずか9分15秒。
-時間は容赦なく過ぎていく。
-8分後-
「いつになったら地面につくんだ…!」
焦りと恐怖が胸を押し潰す。残り時間はもう1分弱。
それでも、下方に光がちらりと見えた瞬間、僕の胸はわずかに安堵で震えた。
(やっと見えた…!)
しかし、その光をよく見ると、ただの光ではなかった。まるで道のように、崖の底へと続いている。段々と近づくにつれ、それは確かに一筋の歩道を作っているように見えた。
ありえない -。
崖の底にこんな道があるはずがない。
その瞬間、背筋に冷たい恐怖が走った。ひょっとすると、ここはただの崖ではなく――ダンジョンの入口なのかもしれない。
青く輝く六角体の中で、僕は固く目を見開いた。
――落下の先に待つものは、絶望か、それとも希望か
――ダンジョン――
それは、我々が普段暮らしている世界とは別の次元に繋がる場所だ。
しかし、別次元という言葉から想像される「全く違う世界に行ける」という意味ではない。ダンジョンとは、あくまで“物理的な世界の中で行う試練”の場――と、人間がそう定めただけの場所である。
ダンジョンの内部には、通常の動物とはまったく異なる化け物――モンスター――が存在する。
彼らを倒すことが、ダンジョンを進むための第一歩とされている。しかし、これもまた人間の価値観で決めた「試練」に過ぎない。最深部にはさらに強力な試練が待ち受けている。最終試練、すなわちダンジョンボスを倒さなければ、元の世界に戻れないとされているが、それも我々がそう定めただけのルールなのだ。
また、多くのダンジョンには入口付近に小さな明かり――ろうそくやランタンのようなもの――が置かれている。
これは、迷う者の道標として存在しており、どの道を進むべきかを示してくれる場所でもある。
ダンジョンはただの冒険の舞台ではない。
生き残るための知恵と力、そして勇気を試される場――というのも、結局は人間がそう決めただけのことに過ぎないのだ。
近づくにつれ、その光はぼんやりとした輝きではなく、まるでろうそくの炎のように揺らめいていることが分かってきた。
そして――僕はついに地面へと辿り着いた。プロトコルが切れるほんの数秒前だった。
だが、そこにあったのは希望ではなかった。
僕を迎えたのは、底知れぬ暗闇と、湿った空気、そして奥から響いてくる不気味な鳴き声。
崖の底には、ダンジョンがあったのだ。
その瞬間、血の気が引いた。
洞窟の奥深くから聞こえるその声は、ただの動物のものではない。
唸りと咆哮が混ざったような、化け物特有の、不安を直接心臓へ突き刺すような音だった。
思い出す。
僕がまだ五歳だった頃、父さんと一度だけダンジョンに入った日のことを。
父さんは僕を守りながら進んでくれたけれど、それでも恐怖で足が震え、立っているだけで精一杯だった。
あの日見たモンスターたちは、生物というより“災害”に近かった。
そんなダンジョンに――
今の僕は、一人で、しかも魔力のほとんどを使い果たした状態で立っている。
普通に考えれば、これから待つのは困難や危険ばかりだ。
絶望的だということは、十分分かっている。
それなのに――
胸の奥底で、ひとつだけ、別の感情が激しく脈打っていた。
「……殺せ。」
誰の声でもない。
自分の心が、静かに、しかし確かにそう叫んでいた
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