第6話 「オロといられるなら空なんか飛べなくていい!」

「オロ!」


 突然両の翼が羽ばたき、クライノートの身体がふわりと宙に浮かんだ。その手を引いてオロは地面に降ろしてやる。クライノートはオロの背中に両腕を回してしがみついた。優しく抱きしめると、クライノートの身体が震えていることに気がついた。地下室だからよかったけれど、外にいたらきっとオロでは捕まえてやれなかっただろう。


「……オロ、どうしよう。怖いよ。クライノート、帰りたくないよ」


「大丈夫だから、僕がクライノートを守るから」


 クライノートの頭を撫でて囁く。決して天には帰さないと指輪を渡した日に決めた。クライノートがいるからオロは玉座に座っていられる。目の前で斬首される民の姿にも耐えられる。嘘つきだとなじられるのにも微笑みで誤魔化していられる。一向に進まない研究にだって打ちこめる。


「オロ、クライノートの翼を取って。痛くしていいから」


「でも──」


「いいの! オロといたい! オロといられるなら空なんか飛べなくていい!」


 自分の肩を抱いてクライノートは絹の髪を振り乱した。翼はクライノートの意思を無視して震えている。まるで誰かが天蓋からクライノートを呼んでいるようだった。


「……わかった。やってみる」


 唇を引き結ぶと、オロは壁際に置かれた鉱石に手を伸ばした。


つるぎを」


 呼ぶ。火花の後にはオロの手の中に一振りの剣があった。鉄の刃が燭台の炎を映して煌めく。弾かれた光はオロの顔を照らした。


「行くよ」


「うん」


 剣を勢いよく振り下ろす。ギィンッと硬い手応えがあって、オロは跳ね飛ばされた。棚に勢いよく背中がぶつかって崩れ落ちる。がらがらと音を立てて本が上から降ってきた。


「……っ、くっ」


 重たい本に潰されてオロの額に青あざができた。鈍痛が身体を床に縫い止めようとしてくるけれど、オロは剣を支えにして立ち上がる。何度まばたきをしても、クライノートの翼には傷はついていなかった。


「……もう一度」


 呟いて剣をクライノートの翼にあてがった。振り下ろしてだめなら今度は下から斬り落とす。そのつもりで剣を引いた。錬成したばかりの鋭利な刃に斬れないものはないはずだった。


「き、れろっ!」


 まるで鉄と鉄がぶつかり合うように火花が散り、クライノートの翼に触れる前のわずかな空間で剣は動かなくなる。オロは必死に腕を振った。こんな力が自分の中にあったとは思えないほどの膂力で剣を振るう。何度も何度も何度も何度も。


「斬れてくれ、お願いだから。斬れてっ、斬れ──」


 がぁんと手から剣が弾き飛ばされた。剣なんて一度も振ったことのないオロの手のひらは破けて血が滴っている。オロは膝を着いた。血が石の床を汚していく。


「……なん、で」


 クライノートの純白の翼は完全な姿のまま淡く輝いている。


「っ、なら──」


 オロは手のひらの血で錬成陣を書いていく。クライノートを起点にして、一心不乱に幾何学模様を描き出す。五芒星を連ね六芒星を重ねて円環を形作る。敷くはことわり


 鉛に土星。錫に木星。鉄に火星。金に太陽。銅に金星。水銀に水星。銀に月。それぞれ七つの金属を錬成陣に組みこんで、天球の法則を指し示す。そして重ねて石を。オロの手の中で金剛石が青白い炎に包まれた。円環が回り出す。炎はほどけ、燐光でできた糸がクライノートの身体を包んでいく。


「永遠をこのことわりによって棄却する」


 世界に刻まれた法則を、この瞬間、この小世界の中で破壊する。神の御手で永遠と定められたその翼を、ここで壊す。


 神の否定を。さあ。


 オロの額に玉のような汗が浮く。くるくると天球儀のように回っていた錬成陣が不規則に瞬き、動きを鈍らせていく。


「まだだ! まだ!」


 オロの手の中でまたひとつ石が燃え上がる。またひとつ、今度は砕けた。七星の位置に置いた金属が朽ちていく。鉛が輝きを失い、次に錫が、鉄が、水銀が、銀が、そして最後に金が。


「お願いだから、ねえ……」


 オロのこぼした涙と一緒に錬成陣が割れた。ガラスが砕けるのによく似た音を立てて光が飛散した。星が床でいくつも跳ねては消えていく。


「……っ」


 ずきずきと痛む手のひらを拳に変えて、床を殴りつけた。血が飛んでオロの頬を染める。


「なんで、なんで、なんでなんだ……」


 もう一度殴った。衝撃でオロの腕がじんと痺れていく。


「……僕には何もできないっていうの? ……ごめん、クライノート」


「……いいの。オロ、ありがとう」


 クライノートがオロの血塗れの指先に躊躇いながら触れた。痛みで思わず肩が跳ねてしまった。一層クライノートの顔が悲痛に歪む。違うのだ、そんな顔をさせたかったわけじゃない。


「ごめんね」


 そう言って彼女はオロの手に包帯を巻き始めた。オロは黙ってそれを見届けると、ゆっくりと立ち上がった。


「行かないと」


 ひどく寒い銀の玉座に。


「うん、ここで待ってる」




 重たい足を引きずってオロは玉座に腰を下ろす。オロの足元からは藍のカーペットが続いている。一枚の布はこの一年だけでも十回も取り替えられた。錬金の王がただの張りぼての飾り物だと誰かが気がつくたびに、カーペットは色を変える。そのどす黒い斑模様と事切れた死体が何事もなかったかのように消え失せるのはおぞましい。なのに、もうオロの心は動かなくなりつつあった。


「陛下、こちらはウルエギストを統治するシュバイク卿でございます。このたびは偉大なる錬金の王の庇護の下に加わりたいと申しております」


 見知らぬ男が肩を震わせてオロにかしずいていた。宰相がオロの隣で笑っている。


 彼はオロの目と耳を塞いで、まつりごとに関わるすべての情報を隠した。だからオロには何も分からない。この国の財政も戦の有無も、あまつさえ己の民の営みすらも。


 けれど、ウルエギストが一つの独立した国であることは王になる前に知っていた。つまり宰相は戦によってかはかりごとによってかでウルエギストを手に入れたということだ。だとしたら、今拳を握りしめている彼はただの貴族ではなくて、ウルエギストの王だったのではないだろうか。


「……許す。忠義の証をそなたに贈ろう。そなたは何を望む?」


 あらかじめ用意されていた言葉を口にした。ここでオロに許されるのはそれだけ。


「……黒い石を」


 その一言でシュバイク卿がオロに望んで膝を折ったのではないと知れた。きっとこれは彼にとっての最後の抵抗。屈するとも染まらぬという覚悟をオロに叩きつけている。その証拠に宰相が口を挟もうと身を乗り出した。


「わかった。そなたの望む通りにしよう」


 宰相がシュバイク卿に訂正を強いる前に、オロは頷いてみせた。騎士が差し出したこぶし大の石を包帯の巻かれた手に取り、口にする。


「変転せよ」


 輝きが弾け、石は漆黒の瑪瑙めのうに変わっていた。滑らかに光を跳ね返しながらも、吸い込まれそうに深く黒い。黒瑪瑙オニキスは災厄も退ける力を持つのだという人もいるらしい。


「こちらに」


 シュバイク卿を玉座まで呼び寄せ、オロは彼の手に黒瑪瑙をしっかり握らせた。


「このくらいしか、僕にはしてやれないんだ。ごめん」


 宰相の耳に入らないように囁く。刹那、シュバイク卿は目を大きくしてオロを見つめた。そしてその目が淡く微笑んだ。それだけでほんの少し、救われたような気がした。


「陛下!」


 謁見の時間が終わって地下室に戻ろうとしていたら、宰相が追いかけてきた。以前黒かった髪は白くなりかけていても、はしばみ色の双眸は変わらずにぎらぎらと輝いている。


「なぜ黒い石など作ったのですか!」


 シュバイク卿への振る舞いを咎められている。意味は理解していたけれど、オロはだめな王らしく愚鈍なふりをした。


「黒い石の何が悪いんですか? どんな石も等しくきれいなのに」


「石など輝きが強く、価値が高いものでなければ意味がありません。そうでないのなら、道端の石ころで十分です」


 胸の奥がざわりと波立つ。けれど、不快を顔に出すのでなく、オロは穏やかに微笑んだ。


「たとえ路傍の石であろうと、僕は好きなんです。……さっきのあの人も、きっと」


 強欲な宰相のように辺境の小国だと軽んじる者がいる一方で、その国に愛を注ぐ者もいる。一瞥で価値あるものと分かる石ではなく、錬金の王に価値なき石を望む誇りこそ、尊ばれるべきものだ。


「陛下、次はこのようなことはなされませぬよう。陛下はただ価値あるもののみをその御手でおつくりになられればよいのです」


 黒瑪瑙は美しい宝石だ。少しでも石を知っていれば価値ある石だと分かるはずだった。けれど、宰相は価値なき石と断じた。彼はもとより石に興味などなかったのだ。そのはしばみ色の目には輝かしいものしか映らない。オロのことは光り輝く金のガチョウにしか見えていないのだろう。そのガチョウに心があることを彼は考えもしないのだ。だって、オロの手の包帯にさえ気づかない。


「わかりました」


 心のない返事をして、オロは踵を返した。




 地下室への扉を開けた瞬間に白いものが視界を埋め尽くした。その白いものはふわりふわりと部屋中を舞っている。オロが包帯の巻かれた両手を伸ばすと、純白の羽根が軽やかに乗っかった。


「っ、クライノート!」


 はっとして部屋の間に飛びこんでいく。白い羽根がオロの身体に貼りついて、先へ進ませないよう邪魔をしているようだった。必死に羽根を掻き分けながらオロは何度もクライノートの名前を呼んだ。


「……オロ」


 部屋の真ん中でクライノートが泣いていた。ぶちぶちと音がする。彼女は唇を震わせながら己の翼の羽根をむしっている。手からはぼろぼろと羽根が落ちていくのに、むしったそばから羽根が生えた。クライノートの隣には剣や鋏、ナイフも横たわっていた。どれも刃こぼれして雪のように降る羽根の中に埋もれかけている。


 完成した翼はもはや概念として成立していたのだ。定められた法則に従って、翼は不変に存在し続ける。どれほどオロとクライノートが望もうとも、天の翼だけは決して壊せない。


「オロ、だめなの。これ、取れないの」


 泣きじゃくるクライノートを息が詰まるくらいに抱きしめた。


「……僕が、僕がクライノートを守るから。神さまからだって守ってみせるから」


「うん、オロ。クライノートを守って。クライノートはオロの側にいたい」


 そうしてオロは城の外れに尖塔を建てた。この世界でいちばん高い王の塔。そこにクライノートを閉じこめて、黄金の鎖で手足を固く縛りつけた。決して神さまに奪われないように、決して天にかえれぬように。


 毎日毎日、オロは塔を登る。長い螺旋階段を上がって下りてを繰り返す。ただただクライノートに会うためだけに何度でも。


「……ごめん。僕はこんな場所にきみを閉じこめることしかできなかった。翼を壊して、クライノートを人にする方法を探してるのに見つからないんだ」


 オロの懺悔は降り積もる。なのに、クライノートはオロの顔を見るたびに、幸せそうに微笑んだ。


「大丈夫だよ、オロ。クライノートはまだオロのところにいられてる。だから大丈夫。ね?」


 けれど、何も大丈夫ではなかったのだ。いつまでも帰らないクライノートに、きっと天の上の神さまが業を煮やしてしまったのだろう。




 ──最初は記憶だった。


「今日の星はすごくきれいだね。僕とクライノートが出会った夜も、星がきれいだった」


 塔の上の窓から空を見る。漆黒に散りばめられた光の粒が瞬いていた。いつもよりも寒いから、空気が澄んで星がきれいに見える。


「オロ」


 クライノートの声が震えていた。


「どうしたの?」


「……わからないの。オロと会った日のこと、思い出せないの」


「え……。そ、それじゃあ、盗賊退治をしたときのことは? 最初は宝石がほしいのかと思って琥珀をあげたんだけど、僕とクライノートを追いかけてきた人攫いでさ」


 白い頭がゆっくりと横に振られた。


「……おぼえてない」


「なら、初めてこの国に来たときのことは? ものすごく歓迎されて驚いていたら、いつの間にかこの国から出られなくなってて、それで、僕は王さまになって……」


 オロの声は尻すぼみになって消えていく。本当に、クライノートは全部を忘れてしまっていた。


「ごめんね、オロ。クライノート、ぜんぶ忘れちゃった。ぜんぶ、忘れたくなかったのに」


 クライノートが目を固くつむる。怒られるのを待っている子どもみたいだった。目尻から大粒の涙をこぼしながら、細い身体を震わせている。手足の鎖がしゃらしゃらと音を立てている。


「この指輪がどうしてクライノートの指にあるのかも、わからないの」


「──っ」


 左手の薬指で輝く銀の指輪にクライノートは頬ずりをした。


「だいじなの、だいじなのに忘れちゃった。オロとおそろいのだいじな指輪。オロ、これは何の指輪なの?」


 オロは両手でクライノートの左手を取って、口づける。


「僕とクライノートがずっと一緒にいるための約束だよ」


「ずっと、いっしょ」


 クライノートの指先がオロのおとがいを滑っていく。顔を上げて、オロは灰銀の目で彼女の金剛石の瞳を見つめた。


「……クライノートがぜんぶ忘れても、僕はずっと憶えてる。何回でも話すよ、僕とクライノートがした旅の話を」


「ありがとう。オロ、あいしてる」


 クライノートは天使みたいな満面の笑みを浮かべた。オロも一緒になって笑う。


「僕もだよ」




 ──次は名前と言葉だった。


「クライノート」


 いつからか、名前を呼んでもクライノートは振り返らなくなった。何度教えても、クライノートが自分を指す言葉だと認識できないのだ。そして、言葉も昔のようにぎこちなくなった。


「僕の名前はオロ。それで、きみの名前はクライノートっていうんだ」


 オロが言うと、クライノートは首を傾げた。


「名前?」


「うん、名前」


「個体名、不要。必要、ない」


 オロは歯を食いしばった。口の中が切れて血の味がしたけれど、クライノートの前でひどい顔をするわけにはいかない。必死になって微笑んでいると、クライノートはそっとオロの隣に身を寄せた。


「オロ、泣く、悲しい」


 もう何もわからないはずなのに、クライノートは呟いた。


「……オロ、だいじ」


 その日、オロは泣きながら塔を降りた。外の風は冷たくて、オロの涙でくしゃくしゃになった顔を容赦なく刺していく。膝から力が抜けた。草原に膝が沈み、剥き出しの手は鋭い葉で切れる。


 クライノートの中の時間が戻っていく。今は天から落ちてきたその日に。だから、最後はきっと完璧な星の守り人だった頃に戻ってしまう。オロと過ごした時間が全部消えたとき、クライノートはいなくなる。


「神さま。どうか、僕からクライノートを奪わないでください」


 石も星も自由も失くしたオロの最後のたからもの。どうか、どうか、お願いだから取り上げないで。何だってするから。何だって差し出すから。ほかには何もいらないから。ねえ。


 けれど願いは聞き届けられなかった。




 ──最後には想いが消えていった。


 もうクライノートはいなかった。天から落ちてきた星の守り人は、己が金の鎖で地に縛りつけられていることに気がつくと、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「帰りたい」


 鎖を引いて、天を乞う。新雪よりも白くうつくしい少女は翼を羽ばたかせる。世界で一番天に近いこの場所だけれど、決して天には届かない。両手、両足。黄金の枷と鎖が少女を縫い止めているからだ。どれだけ翼を伸ばしても、彼女は天には帰れない。


「帰りたい」


 鈴蘭の泣き声はオロにも聞こえていた。それでも、オロは鎖を解かなかった。彼女がクライノートであった証はもう、左の薬指にしか残っていない。クライノートはもういないのだ。知っていたけれど、手放せなかった。


「クライノート」


 名前を呼んだ。白い少女は泣くばかりでオロには目もくれない。ポケットから石ころを出して、オロは手のひらに乗せた。


「変転せよ」


 ぱちんと散った火花の後に、石ころは紅玉に変わっていた。血のような深く落ち着いた色合いの石は、静かに煌めいている。


「これはね、僕がクライノートの前で最初につくった石なんだ。ご飯を食べるお金がなかったから、稼がないとって背伸びして宝石の店に入った。店の中でこの石をつくったら、きみはすごく驚いて喜んでくれた。その次は──」


 続けて石ころを蒼玉に、緑柱石に。


「──全部で三つだ。お店は騒ぎになっちゃったけど、僕たちはたくさん金貨をもらった。それからレストランに入って、一緒にスパゲッティを食べたんだ。あんなにおいしいものを食べたのは、僕も初めてだったなあ」


 思い出話を紡ぐオロの声は震えていた。白い少女は笑うこともなく、ただひたすらに天ばかり見て泣いている。つくった石を握ってオロは静かに塔を降りていった。


「……っ」


 宝石を石の階段に叩きつける。紅玉と蒼玉はかつんこつんと音を立てて暗闇に消えていった。脆い緑柱石はいくつかの破片に分かれて落ちていった。


「……」


 クライノートが消えたなんて、認めない。認められない。


 オロはクライノートの魂を探す傍ら、白い少女の元に通い続けた。クライノートと同じ顔で泣かないでほしくて、たくさんの宝石をつくっては旅の話を聞かせた。けれど、オロがどれだけ心を砕いても、少女は泣き止まなかった。


 だめな王として座る銀の椅子。何の役にも立たない地下書庫。泣きじゃくる少女を縛る金の鎖。


「僕は……」


 クライノートを、見知らぬ誰かを、幸せにしてあげたかっただけなのに。


「ねえ、クライノート、教えてよ。僕はどうしたらいい……?」


 オロは薬指にはまった銀の指輪を抱きしめた。暗い塔の階段の真ん中でひとりぼっちで。


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2026年1月15日 19:00

天乞う王の原罪 斑鳩睡蓮 @meilin

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