亡き王女のためのパヴァーヌ side Zero

 "Pavane" とは、今ではもう踊られることをやめてしまった舞踊の一形態だという。

 けれど私がこの曲を聴くとき、思い出すのは、あの部屋に満ちていたラベンダーの香りと、壊れかけたスイス・リュージュ製のオルゴールの、途切れ途切れの音。


  〈そう思い込んでいるだけかもしれない〉


 少し良い家庭のお嬢様だった私は、いつも一人で大きくて古いオルゴールを宝物のように抱えていた。ゼンマイが弱っていて、テンポはひどく不安定だった。分散和音に差し掛かるたび、音は途切れ、止まる。そのたび、私は小さな白い指で、丁寧にゼンマイを巻き直した。 その仕草はどこか愛おしそうで、そして、少しだけ切なげだった。そう、寂しかったんだ。


「お婆様が大事にしていたものをもらったんだけど、ちょっと壊れているの」


 私は、少し寂しそうな顔でそう呟いた。ただひとり私を可愛がってくれたお祖母様との思い出が、このオルゴールには詰まっている。


「じゃあ、私がピアノで弾けるようにならなきゃ」

「そうね。弾けるようになったら……誰か聴いてくれるかな?」


 いつも一人で会話していた小学生の頃、「行動的な私」は父に頼んで楽譜を買ってもらった。

 けれど……優雅な曲なのに、弾く側にはまったく優雅ではないよ!


 右手は滑らかな旋律を奏でながら、人の気配を残すようなスタカート。左手は右手と交差し、跳躍し、どう考えても指が足りない。絡み合う指、届かない和音。優雅な旋律の裏側で、あの時、私は必死だった。止まってしまう時間を繋ぎ止めるように、掠れていく記憶を音として固定するように。


  〈波形に落ちた瞬間、音は“私の外”に出たのか、“私の内”に戻ったのか〉


 けれど、私の小さな指は、零れ落ちる音符を拾いきれなかった。何度も何度も練習したけれど、思うように指は動かなかった。私は巨大なグランドピアノの前で、ただ項垂れていた。ピアノの才能もなく、まだ幼かった私に弾ける曲ではなかった。


 結局、あの曲を完成させることは叶わなかった。あるいは、それを感じる私が、もういなくなってしまったのかもしれない。


  〈あの日からずっと、優しい私がどこにもいないのかもしれない〉


 果たせなかった自分との約束は、棘のように意識の澱に刺さったままだったのだろう——それは本当の私の意識なの?


 あの無垢だった私の声が、聞こえなくなってから十度目の冬が来た。私は自ら演奏することを半ば諦め、DTMプログラミングを始めた。楽器の構造を学び、音がどのように生まれ、空間を伝わるのかを知った。気づけば、音響信号の解析が、私の研究分野の一つになっていた。「観測する私」は感じることから逃げて、測定することに身を委ねた。


 年末。研究室が閉まっている。街も、世界も、どこか閉まっているような時間。


  〈開いているのはこの部屋だけなのだろうか〉


 今日は科学者を演じることができない。観念した私は、サンプルでもらった入浴剤を手に風呂に向かう。この香り………。その時、ふとパヴァーヌを思い出した。乱雑に髪をまとめ、書棚の奥からあの楽譜を取り出した。紙は古び、端は破れかけ、色もすっかり変わっていた。楽譜の余白には、小学生の私が書き込んだ指番号と、「がんばる!」という拙い文字。あの頃はまだ、もしかして、頑張れば繋ぎ止められると思ってた?


 いつも電源が入ったままのMac。MatlabのFigureが3台のディスプレイいっぱいに散らばっている。

 構わずCubaseを立ち上げ、ピアノ音源、Noireを選ぶ。黒、そして喪の色。ペダルの重ささえ、今は音として扱える


 私は楽譜を、かつて弾こうとした子供の目ではなく、存在の揺らぎを測定する観測者の目で分析していく。鏡に映らない自分の指先が、キーボードの上で影のように踊らせながら、音を数値化し、あの日届かなかった「響き」の座標を特定する。


 けれど、最後に音を作るのは、あの日の私だった。


 - 掠れたようなスタカート。

 - ためらうような旋律。

 - それらを支える、柔らかな低音。


 やがてそれらは、あのテンポも音程も不安定だったオルゴールの音へと収束していく。

 分散和音が、ゼンマイを巻く音に聴こえた。

 演奏が止まるたび、小さな白い指で巻いていた——あの日の光景が蘇る。


 モニターに表示される波形を見つめながら、一音ずつ微調整を重ねる、シリンダーにピンを一本ずつ打ち込むオルゴール職人のように。これは完璧な演奏ではないし、そんな技量もない。でもそれでいい。あの不完全で、途切れがちで、けれど確かにそこに「感じる心」が振動していたという証拠。


 この音の波形は、境界線を越えてどこまで届くのだろう。十年ぶりに、あの純粋に喜ぶことができた私たちの部屋へ——あるいは今も、私の内のどこかに眠っているはずの場所へ、この響きを放ってみよう。新しい年の始まりに。


 あの日、果たせなかった自分との約束を、今なら……違う形で。


  〈ねえ、あなた………………〉


 あなたは、再生ボタンを押してくれるだろうか。

 失われた純粋な記憶が、あなたのスマホから、ふたたび流れだすだろうか?

 あの時分かれ、消えそうになっている、もうひとりの私の画面の割れたスマホ。


 一人で会話をした記憶


 耐えられなくなって

 消えてしまったと思い込んだ記憶


 香りと共に目覚めた記憶


 ——あの日の約束を、今

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