第3話 クローゼットの中で

「おーい、レイナ? 返事がないなら入るぞー」

ガチャリ、と玄関の鍵が開く音が聞こえた。

レイナの兄であり、マネージャーの大輔だ。彼は妹の私生活がズボラなのを心配して、抜き打ちで掃除や食事のチェックに来ることで有名(業界内談)だった。

「ど、どうしよう佐藤さん! お兄ちゃん、すっごく過保護で……もし隣の人とベランダで喋ってるなんてバレたら、私、二度とベランダに出してもらえなくなっちゃう!」

「えぇっ!? それは困る……じゃなくて、まずいですね!」

パニックに陥ったレイナは、あろうことか悠介の腕を掴み、彼を自分の部屋へと引きずり込んだ。

「え、ちょ、お邪魔しまっ……!?」

「いいから隠れて! ここ!」

押し込まれたのは、寝室の大きなクローゼット。

中はレイナの衣装や、甘い香水の香りで満たされている。

「……っ」

狭い。そして、暗い。

直後、レイナも滑り込むようにクローゼットに入ってきた。

「ふぅ……。静かにしててくださいね?」

至近距離。

暗闇の中、レイナの吐息が悠介の耳元にかかる。彼女の服の生地と、自分のシャツが擦れ合う音が、やけに大きく聞こえた。

「レイナー、なんだ、寝てたのか? 電気ついてるぞ」

扉の外で、大輔の足音が聞こえる。

悠介は心臓が口から飛び出しそうだった。今、自分は日本一の人気声優と同じクローゼットの中にいる。もし見つかったら「変質者の侵入」として即逮捕、あるいは社会的抹殺は免れない。

(……やばい、いい匂いがする……。っていうか、レイナさん、心臓の音すごくないか?)

トクン、トクン、と速い鼓動が伝わってくる。

レイナは悠介の胸元に顔を埋めるようにして、ぎゅっと目をつぶっていた。彼女の手が、震えながら悠介のシャツの裾を掴んでいる。

「……(あ、佐藤さんの心臓も早い。私だけじゃないんだ……)」

レイナもまた、パニックの限界だった。

男性とこんなに密着するのは人生初。しかも相手は、最近気になって仕方がない「猫の飼い主さん」だ。

その時。

「お、なんだこの雑誌。『猫の飼い方』? ……あいつ、ついに猫飼う決心したのか?」

大輔の手が、クローゼットの扉にかかった。

「中も片付いてるか見てやるか」

「「…………!!」」

絶体絶命。

悠介は覚悟を決めた。もし開けられたら、自分が全ての罪を被って飛び出そう、と。

しかし、その瞬間。

「にゃ〜〜〜〜ん!!」

リビングの方で、聞き慣れた力強い鳴き声が響き渡った。

「うおっ!? ……なんだ、猫!? どこから入ったんだ、おい待てコラ!」

つくねだ。

ベランダからレイナの部屋へ、自慢の跳躍力で侵入したらしい。大輔はパニックになりながら、つくねを追いかけてリビングへ走っていった。

「……今だ!」

レイナは小声で叫ぶと、扉を少しだけ開けて悠介をベランダへ押し戻した。

「佐藤さん、ごめんなさい! つくねちゃんは私が保護しておきます! 後で、また!」

バタン、と窓が閉まる。

夜風に吹かれながら、悠介は一人ベランダで立ち尽くした。

手には、まだレイナの温もりが残っている。

(……これ、明日からどんな顔してメッセージ送ればいいんだよ……!)

一方、部屋の中。

大輔につくねを奪還されないよう必死に抱きしめながら、レイナは顔を真っ赤にして叫んでいた(心の中で)。

(佐藤さんの匂い、した……。あぁぁぁ、もう無理、一生顔見れない! でも……また会いたい!!)

二人の距離は、ベランダの仕切りを越えて、一気に「パーソナルスペース」の限界まで加速し始めていた。


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