第10話「前を向く」



 週末、私はリビングで両親に向き合っていた。

 テーブルの上には、あの分厚い茶封筒。


 テレビの音を消し、私はぽつりぽつりと話し始めた。

 予備校で起きたこと。LINEでの執着。喫茶店での会話。そして、彼の母親から告げられた顛末。


「……怖くて、言えなかった。ごめんなさい」


 話し終えて頭を下げると、母は泣きながら私を抱きしめた。

 父は何も言わず、ただ強く私の肩を叩き、震える手で封筒をサイドボードの引き出しにしまった。


「金なんてどうでもいい。お前が無事でよかった」


 父のその言葉は、アキさんの事務的な声とは対照的で、温かかった。


 ああ、これが「家族」なのだと思った。

 管理する側とされる側ではなく、ただ互いの無事を願い、痛みがあれば共有する。そんな当たり前の関係が、今の私には涙が出るほど愛おしかった。


<br />


 部屋に戻り、窓を開ける。

 秋の風が、少しだけ冷たくなっていた。


 神谷リョウがいなくなってから、二週間が経とうとしている。

 彼のLINEアカウントは消滅し、あの席には別の誰かが座り、私のスマホは静寂を取り戻した。


 けれど、恐怖が完全に消えたわけではない。

 夜道で背後から足音がすれば振り返ってしまうし、通知音が鳴れば一瞬だけ心臓が跳ねる。


 たぶん、この警戒心はしばらく消えないだろう。

 「運が良かっただけ」というアキさんの言葉は、呪いのように私の中に残っている。


 世界には、言葉が通じない人間がいる。

 善意という名の凶器を振り回す人間がいる。

 その事実は、私が大人になっても変わらない。社会に出れば、もっと巧妙な「神谷リョウ」がいるかもしれない。


「……でも」


 私はカーテンを閉め、いつもの椅子に座った。

 机の上には、使い込まれた英単語帳と、白いノート。


 神谷リョウは、私の人生を「デザイン」しようとした。

 着る服も、食べる物も、将来のパートナーも、彼が描いた完璧なシナリオの中に押し込めようとした。


 ふざけないでほしい。

 私の人生は、誰かの妄想の延長戦なんかじゃない。


 失敗して浪人したことも、夜中にミオとくだらないLINEをして笑うことも、たまにサボって自己嫌悪に陥ることも。

 そのすべてが、私が選んで、私が積み重ねてきた「私」だ。


 私はシャープペンを手に取った。

 カチリ、と芯を出す音が、部屋の空気を切り裂く。


 怖いけれど、進むしかない。

 不条理な他人の介入に負けて、自分の歩みを止めてしまうことこそが、最大の敗北だから。


 私はノートを広げ、今日の日付を書き込んだ。

 文字は少し震えていたかもしれない。それでも、筆圧は今までよりも強かった。


 夜はまだ深い。

 でも、明けない夜はないことを私は知っている。


 私は深く息を吸い込み、目の前の問題と向き合った。

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予備校のクラスメイトから「結婚の約束」をされた覚えはないのですが。~論理の通じない彼と、事務的に処理する母親の話~ 品川太朗 @sinagawa

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