第9話「何事もなかったように」



 翌日、予備校の教室に入った私は、無意識のうちに「あの席」を目で追っていた。


 左列の後ろから三番目。

 そこは、空席だった。


 机の上には何もなく、椅子の背もたれが少し斜めに向いているだけ。

 私は大きく息を吐き、自分の席についた。


 誰も彼がいないことを気にしていない。講師が教室に入ってきても、出席を取るわけでもなく、淡々と現代文の講義が始まった。


 さらに三日が過ぎた頃だった。

 教室に入ると、あの席に知らない男子学生が座っていた。


 パーカーを着て、マスクをした、どこにでもいるような浪人生。彼は貧乏ゆすりをしながら、スマホをいじっていた。


(……ああ)


 私は立ち尽くしそうになるのをこらえて、自分の席へ向かった。


 入れ替わったのだ。

 神谷リョウという人間が座っていた場所は、ただの「空きスペース」となり、すぐに新しい誰かがそこを埋めた。

 予備校というシステムにとって、生徒一人が消えることなど、コピー用紙が一枚詰まる程度の些事なのだ。


「ユイ、今日こそお昼、外に食べに行かない?」


 昼休み、ミオが明るい声で話しかけてきた。


「うん……そうだね。行こうか」

「やった! 駅前の新しいパスタ屋さんがさー」


 ミオは何も知らない。

 私がこの一週間、どんな恐怖と戦っていたのか。そして、クラスメイトの一人が、山奥の農家に隔離された事実も。


 彼女が知っているのは、「最近のユイはちょっと元気がない」ということだけだ。

 そして、それでいいと思った。

 真実を知っているのは、私と、彼の両親だけでいい。


 その夜。

 いつものように机に向かい、いつものように十一時を迎えた。


 机の上のスマホは、沈黙を守っている。

 画面を埋め尽くす長文も、服装の指定も、もう送られてこない。


 私はLINEの友達リストを開き、『神谷リョウ』のアカウントをタップした。

 アイコンは初期設定の人型のままだ。きっと、スマホを取り上げられる前に初期化されたか、あるいはアカウントごと削除されたのだろう。


『ブロックしますか?』


 確認画面で「はい」を押す。

 さらに「削除」を押す。


 画面から彼の名前が消えた。

 指先一つで完了する、あっけない幕切れ。


「……終わったんだ」


 部屋に自分の声が響く。


 警察も動かず、ニュースにもならず、誰にも騒がれることなく。

 社会の裏側でひっそりと処理された、「ストーカー未遂」の結末。


 私は参考書を開いた。

 英単語の羅列が目に入る。


 静かだ。

 あまりにも静かで、シャーペンの芯が折れる音さえ大きく聞こえる。

 私はその静寂の中に、言いようのない怖さを感じていた。


 平和とは、こんなにも薄氷の上に成り立っているものだったのか。

 

 隣の席の人が、明日も普通の人である保証なんてどこにもない。

 すれ違っただけの誰かが、脳内で私との結婚生活を始めているかもしれない。

 そんな「見えない地雷」が埋まった世界で、私はこれからも生きていかなければならない。


 でも。

 私は顔を上げた。


 今は、目の前の問題を解こう。

 彼が勝手に思い描いた「将来」ではなく、私が自分で掴み取る「合格」のために。


 私は新しい芯を出し、カチリと音を立てて、白紙のノートにペンを走らせた。

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