第5話「噛み合わない世界」
会計を済ませたかどうかも覚えていない。
私は喫茶店を飛び出し、駅までの道を走った。
呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。
後ろから追いかけてきていないか、何度も振り返りながら、私は改札を抜け、ホームへと滑り込んだ。
「……はあ、はあ、っ……」
電車に揺られながら、吐き気をこらえる。
さっき触れられそうになった手の甲が、火傷したように熱い。
消しゴム。契約。妻としての義務。
断片的な単語が脳内を駆け巡り、そのたびに寒気がした。
あいつは狂っている。
話が通じないなんてレベルじゃない。見ている世界、生きている理(ことわり)が根本から違うのだ。
家に帰り着くと、私は逃げ込むように自室に入り、鍵をかけた。
カーテンを閉め切り、ベッドの上で膝を抱える。
スマホの電源を切りたかった。でも、もし何か脅迫めいたことが送られてきていたら? それを無視したら、明日予備校で何をされるか分からない。
確認しなければという強迫観念が、私にスマホを握りしめさせていた。
そして、夜。
通知音は、まるで時報のように正確に鳴った。
『どうして逃げたんですか?』
怒っているのだろうか。
恐る恐る画面を見る。
『まあ、仕方ありませんね。突然のことでパニックになったのでしょう。君は精神的に未熟で、キャパシティが少ない。今日の逃走は、その証明です』
怒っていなかった。
むしろ、「あきれ」と「憐れみ」を含んだような文面が、余計に神経を逆撫でする。
『やはり、今の君には「管理」が必要です。
自分で判断させると、今日のように間違った行動(逃走)をとってしまう。
だからこれからは、僕が君の生活をデザインします』
デザイン?
嫌な予感がした。
次の瞬間、画像ファイルが送られてきた。
それは、通販サイトのスクリーンショットだった。
清楚な白のブラウスに、膝下丈の紺色のスカート。
さらに、カーディガンの色、靴下の長さまで指定されている。
『明日の予備校には、このコーディネートで来てください』
『君が持っている服の中で、これに一番近い組み合わせを指定します。
上は先週の水曜日に着ていた白いシャツ。下は入学式の時のスーツのスカートで代用可能です』
悲鳴が出そうになった。
私が持っている服を把握している。
いつ、何を着ていたかまで、全部記録されているんだ。
『髪は結ばずに下ろしてください。その方が知的で、僕の好みです』
『朝食はパンではなく、和食にすること。炭水化物の摂取量が――』
次々と送られてくる「指示」。
そこにはもう、私の意思が入り込む隙間なんて1ミリもなかった。
彼は私を、着せ替え人形かペットか何かだと思っている。
愛しているから管理する。大切だから縛り付ける。
その完璧な論理の檻の中に、私は閉じ込められようとしていた。
「……う、うぅ……」
涙が滲む。
怖い。気持ち悪い。助けて。
誰か、この言葉の通じない宇宙人を追い払って。
私は震える指で検索窓を開いた。
認めたくなかった言葉。
自分とは無縁だと思っていた言葉。
――『ストーカー 対策』
検索結果に並ぶ、警察への相談窓口、弁護士事務所の広告。
画面の向こうの無機質な情報は、今の私にはあまりにも遠い世界のことに思えた。
明日の朝、教室に行けば彼がいる。
私が指定された服を着ているかどうか、あの笑顔でチェックするために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます