第6話「いない席」



 朝、クローゼットの前で私は三十分も立ち尽くしていた。


 ハンガーにかかった白いシャツと、紺色のスカート。

 彼が指定した「従順な恋人」のユニフォーム。


「……着るわけ、ないじゃない」


 私は震える手で、それらを端に寄せた。

 選んだのは、黒のパーカーとデニムパンツ。彼が好む「清楚」や「知的」とは程遠い、ラフで地味な服装だ。


 これは抵抗だ。私はあなたの言いなりにはならないという、精一杯の意思表示。

 けれど、玄関を出て駅に向かう足取りは鉛のように重かった。


 もし、予備校で彼に会ったら?

 「どうして僕の選んだ服を着てこなかったんだ」と、あの穏やかな顔で詰め寄られたら?

 あるいは、公衆の面前で激昂されたら?


 想像するだけで、胃液がせり上がってくる。


 予備校に着くと、私は深呼吸を繰り返してから教室のドアを開けた。

 視線を、左列の後ろから三番目――彼の席へと向ける。


 いない。

 そこは空席だった。


 鞄も置かれていない。まだ来ていないだけだろうか。

 私は自分の席につき、入り口を凝視し続けた。


 チャイムが鳴る。講師が入ってくる。

 それでも、神谷リョウは現れなかった。


(……休み?)


 授業中も、気が気ではなかった。


 もしかして、どこかで隠れて見ているんじゃないか。

 あるいは、私の抵抗(服装の拒否)に対する罰として、何か別の場所でとんでもないことを画策しているのではないか。


 スマホが震えるたびにビクリと肩が跳ねたが、通知はニュースアプリやミオからのものだけ。

 あの不気味な長文メッセージは、昨夜からぴたりと止まっていた。


 不気味なほどの静寂。

 何事も起きないまま、午後の講義が終わった。


 嵐の前の静けさという言葉があるけれど、今の状況はまさにそれだった。

 私は逃げるように荷物をまとめ、早足で出口へと向かった。


 自動ドアを抜け、夕暮れの通りに出た時だった。


「真白ユイさんですね」


 横合いから、声をかけられた。

 抑揚のない、乾いた声だった。


 ビクリと振り返ると、一人の女性が立っていた。


 年齢は五十代くらいだろうか。グレーのパンツスーツを着て、革のハンドバッグを両手で前持ちにしている。

 髪はきっちりと一つに束ねられ、化粧っ気は薄い。

 どこかの区役所の窓口担当と言われても違和感のない、あまりにも「普通」で、同時に「無機質」な佇まいだった。


「……はい、そうですが。どちら様ですか?」


 警戒心を露わにして尋ねる。

 女性は表情一つ変えず、懐から名刺入れを取り出した。


「突然のお声がけ、失礼いたします。わたくし、神谷リョウの母です」


 心臓が止まるかと思った。

 神谷。

 その名前を聞いただけで、反射的に後ずさりをしてしまう。


 親が出てきたということは、文句を言いに来たのか。「うちの息子を誘惑した」とでも言うつもりか。


 身構える私に対し、彼女はあくまで事務的に、淡々と用件を告げた。


「息子が貴女にご迷惑をおかけした件で、伺いました」

「え……?」

「ここでお話しするのは目立ちますので、少し場所を変えさせていただいてもよろしいでしょうか。お時間は取らせません。合意書へのサインと、今後の説明だけですので」


 合意書? 今後の説明?


 彼女の口から出る単語は、息子の不始末を謝罪する母親のそれとは、決定的に異なっていた。

 まるで、仕事上のミスを処理しに来た係長のような、冷徹な響き。


 彼女の瞳には、怒りも、悲しみも、申し訳なさすらも見当たらなかった。

 ただそこにあるのは、目の前のタスクを淡々と消化しようとする「慣れ」だけだった。


「……わかりました」


 私はこの親子の正体を知らなければならない。

 そう直感し、頷いた。

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