第4話 「確認」
予備校から徒歩五分。大通り沿いにあるチェーンの喫茶店。
私は一番奥のテーブル席で、冷めかけたアイスティーのグラスを握りしめていた。
周囲には参考書を広げる学生や、談笑するサラリーマンがいる。ここなら人の目がある。何かあっても助けを呼べる。そう自分に言い聞かせて、震えを抑え込んだ。
「お待たせ。ごめんね、待った?」
ふわりと、柔軟剤の匂いがした。
顔を上げると、神谷リョウが立っていた。
少しよれたシャツではなく、今日はきちんとアイロンのかかった清潔なシャツを着ている。髪も整えられ、どこか「デート」に来たかのような少し浮ついた雰囲気が、逆に私の胃を締め付けた。
「……いえ、私も今来たところです」
「よかった。これ、読むのに少し時間がかかってしまって」
彼はそう言って、脇に抱えていた英字新聞をテーブルに置いた。知的な自分を演出したかったのだろうか。
彼は向かいの席に座り、ブラックコーヒーを注文した。
店員が去り、二人の間に沈黙が落ちる。
私は意を決して、スマホをテーブルの上に置いた。画面には、昨夜のあの長文LINEが表示されている。
「神谷さん。昨日のこれ、どういうつもりですか?」
単刀直入に聞いた。
彼はカップに口をつけ、不思議そうに瞬きをした。
「どういう、とは? 読んで字のごとく、君のためのアドバイスだよ。少し厳しかったかな?」
「厳しいとか、そういう問題じゃなくて……。迷惑なんです。昼間は一言も喋らないのに、夜になるとこういうのを送ってくるのも、正直怖いです」
言った。言ってやった。
これで彼も、自分の異常さに気づいてくれるはずだ。
しかし、彼から返ってきたのは謝罪でも怒りでもなかった。
「ああ、そっちか」
彼は困ったように眉を下げ、優しく微笑んだのだ。
「ごめんごめん。昼間、他人のフリをするのは寂しかった? でも仕方ないだろう。予備校は勉強する場所だ。公私の区別はつけないと」
「……公私?」
「そう。僕たちはプロの受験生だからね。二人の時間は、合格してからいくらでも取れる」
話が、噛み合わない。
日本語を話しているはずなのに、文脈が決定的にズレている。
私は焦燥感に駆られて、言葉を強めた。
「あの、誤解しているみたいですけど、私と神谷さんはただのクラスメイトですよね? 『二人の時間』なんて言葉を使われる筋合いはありません」
その瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
コーヒーカップを置く音が、カチャリと小さく響く。
彼はキョトンとした顔で、あるいは心底理解できないという顔で、私を見つめた。
「……真白さん? どうしてそんな、他人行儀な嘘をつくんだい?」
「嘘なんてついてません」
「ついてるよ。だって僕たちは、約束したじゃないか」
約束。
また、知らない言葉が出てきた。
「約束って、なんですか。私、神谷さんとまともに話したことなんて……」
「四月八日」
彼は私の言葉を遮り、日付を口にした。
「オリエンテーションの翌日だ。僕が通路に消しゴムを落とした時、君はそれを拾ってくれた」
「……は?」
記憶の糸を手繰り寄せる。確かに、そんなことがあったような気もする。でも、それは単に足元に転がってきたから拾っただけで。
「それが、なんなんですか」
「君はそれを僕に渡す時、微笑んで『どうぞ』と言った。そして僕は『ありがとう』と答えた」
彼は熱っぽく語り出した。
その瞳の奥には、狂信的な光が宿っている。
「いいかい、真白さん。消しゴムというのは『間違いを消す』道具だ。君は僕が落としたそれを拾い上げ、あまつさえ微笑んで返してくれた。それはつまり、『私の人生の過ちも、私が受け入れて消してあげましょう』という意思表示だろう?」
「……っ!?」
「あの瞬間、契約は成立したんだ。言葉にしなくても、魂レベルで通じ合った。君は僕のパートナーになり、将来を共に歩むことを承諾したんだよ」
――あ、だめだ。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
怒りも恐怖も通り越して、ただただ「理解不能」という絶望が押し寄せてくる。
落とした消しゴムを拾う。
たったそれだけの、小学生でもやるような親切。
それが、この男の中では「結婚の約束」に変換されている。
「そ、そんなの……ただの、偶然で……社交辞令で……」
「照れなくていいよ」
神谷リョウは、テーブル越しに私の手に触れようと手を伸ばしてきた。
私は反射的に手を引っ込める。
彼は少し寂しそうな顔をしたが、すぐにまたあの「先生のような」慈愛に満ちた笑みに戻った。
「今はまだ、受験のストレスで情緒が不安定なんだね。分かってる。僕が全部受け止めてあげるから」
「違います! 私は――」
「しーっ。店内で大声を出しちゃいけない」
彼は人差し指を唇に当てた。
「大丈夫。君がその気になれないなら、僕が君を『正しい方向』へ導いてあげる。それが夫となる僕の義務だからね」
こいつは、話を聞いていないんじゃない。
自分の都合のいいように、脳内で音声を書き換えているんだ。
私は悟った。
言葉は、通じない。
ここは喫茶店という安全地帯なんかじゃない。
「神谷リョウ」という、強固で歪んだ妄想世界の内側なのだ。
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