第3話「夜だけの人」



 翌朝、私は戦場に向かう兵士のような気分で予備校の教室に入った。


 心拍数が早い。彼に会ったら、どういう顔をすればいいのか。文句の一つも言ってやるべきか、それとも無視を決め込むべきか。

 脳内でいくつものシミュレーションを繰り返しながら、教室のドアを開ける。


 視界の端、いつもの席に神谷リョウはいた。


 彼は分厚い参考書を開き、微動だにせず活字を目で追っていた。

 私が教室に入っても、顔を上げない。

 私が席につき、わざとらしく鞄を置いて音を立てても、彼は反応しない。


(……あれ?)


 拍子抜けした。

 昨夜のあの粘着質なLINEの送り主と、今そこにいる彼が、同一人物だとはとても思えない。


 休み時間になっても、彼は私に話しかけてこなかった。ミオと話していても、彼はこっちを見ようともしない。ただの「大人しい、真面目な浪人生」としてそこに存在していた。


 私の気にしすぎだったのだろうか。

 昨夜のあれは、魔が差したようなもので、彼も翌日になって恥ずかしくなってやめたのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ肩の荷が下りた気がした。


 ――その安堵が、甘い幻想だったと気づかされたのは、やはり夜だった。


 23時05分。

 机の上のスマホが震えた。


 通知画面に『神谷リョウ』の文字が見えた瞬間、私の背筋が凍りついた。

 ロックを解除する。

 開かれたトーク画面を見て、私は息を呑んだ。


『真白さん、お疲れ様です。本日の総括を送ります』


 その一文を皮切りに、黒い文字の塊が画面の下から上へとせり上がってきた。


 長い。あまりにも長い。

 スクロールしても、スクロールしても、文章が終わらない。

 改行が極端に少なく、句読点だけで繋がれた論理の羅列。それはメッセージというより、不気味な「報告書」だった。


『今日の昼食についてですが、コンビニのサンドイッチと野菜ジュースだけでは午後の集中力維持に必要な糖質が不足しています。脳のエネルギー消費率は全身の20%を占めており、特に14時からの現代文の講義中、あなたが二度あくびをし、三度ペンを回したのは明らかに血糖値の低下による集中力の欠如です。また、休み時間に早川さんと話していた際の笑顔ですが、あれは作り笑いですね? 口角の上がり方が左右非対称でした。無理をして周囲に合わせることはストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を促し、記憶の定着を阻害する要因になります。僕はあなたの合格を誰よりも願っているからこそ言うのですが、無駄な人間関係による脳のリソース浪費は避けるべきであり――』


 文字、文字、文字。

 画面いっぱいに敷き詰められた「正論」と「観察」の嵐。

 読んでいて、めまいがした。


 怖い。

 何が怖いって、昼間、彼は一度も私の方を見ていなかったはずなのだ。

 それなのに、私があくびをした回数や、ペンの回し方、ミオへの笑顔の不自然さまで、すべて完璧に把握している。


 視線を向けずに、気配だけで見ていたとでもいうの?


「……気持ち悪い」


 思わず本音が漏れた。

 指先が震えて、うまくスクロールできない。

 文章の最後には、こう締めくくられていた。


『改善案をPDFにまとめようかと思いましたが、まずはLINEでお伝えしました。明日からは僕の言う通りにしてください。そうすれば、必ずうまくいきます』


 返信なんてできない。

 これは会話ではない。一方的な、受信拒否不能なラジオ放送だ。

 

 ふと、一つの疑念が頭をよぎる。


 ……これ、本当にあの神谷リョウ本人が送っているんだろうか?

 予備校で見かける彼は、物静かで、気弱そうで、こんな威圧的な長文を送りつけてくるような人間には見えない。

 もしかして、誰かが彼のアカウントを乗っ取って、悪ふざけで私をからかっているのではないか?

 あるいは、二重人格?


「本人に……確かめなきゃ」


 このままでは、勉強どころではない。

 得体の知れない視線に怯えながら受験生活を送るなんて、絶対に嫌だ。


 私は震える指で、『明日の講義の後、少しお話できませんか』とだけ打ち込んだ。


 あの静かな彼と、この饒舌な怪物。

 どちらが本物なのか、私はまだ分かっていなかった。

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