第3話 初めての契約
共犯者
第三章 初めての契約
それから半年が過ぎた。
Nとはほとんど顔を合わせていない。あの日に聞いた会社設立の話は、夢の出来事だったのではないかと思えるほど現実感を失っていた。
私は学年末の試験を終え、なんとか二年生になったが、ごっそり単位を落としていた。一方のNは、学校にほとんど姿を見せないにもかかわらず、試験の日だけはきちんと現れ、ひとつも単位を落としていないという噂だった。
このあたりにも、私とNの決定的な違いが表れている。
さすがに単位を落としすぎて親に申し訳なくなり、私は授業に出るよう心がけるようになった。そうしているうちに、会社設立の話も半分忘れかけていた。
生協の食券は、Nの手を離れたあとも相変わらず出回っていたが、私はそれを買うことはなかった。あの話は思い出したくない。
やはり私は、Nの言うとおり善人なのかもしれない。
そんなある日、去年落とした退屈な授業に出ていると、Nが教室に入ってきた。
「久しぶりだな。なんだ、この授業落としたのか?」
「……よく覚えてるな」
「この教授のテスト、出そうな問題をまとめたメモがある。そっくり渡してやるよ。それがあれば、この授業は出なくても最低Bは取れる」
「本当なら助かる」
Nは、何でもないことのように言った。
「ところで今日は、例の会社設立の話をしたい。時間あるか?」
「予定はないよ」
「助かった。急で悪いな」
「……今日は調べてないの?」
「今は調べてない。だから君を探すのに苦労した。まさかこの教室にいるとは思わなかったよ」
Nはそう言って、軽く笑った。
どうやら、Nが必修科目をすべて通ったという噂は本当らしい。
「じゃあ、授業が終わったら来てくれ。六時に」
「君の部屋?」
「いや、事務所を構えた」
そう言って、Nは名刺を差し出した。
〈〇〇会社 代表取締役 N〉
半信半疑で名刺を見つめていると、Nが肩をたたいた。
「ほら、この教授の虎の巻だ。丸暗記しとけ」
相変わらず、抜かりがない。
六時より少し早く、名刺に書かれた住所へ向かった。
Nの以前の部屋より明らかに家賃が高そうな、新しいマンションだった。
インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
「よう、入って」
中には机が二つ並んでいて、片方には見知らぬ女性が座っていた。
思わず、息をのむほどきれいな人だった。
「紹介しよう。Tさんだ。昨日からここで働いてもらっている」
そして、さらりと言った。
「君は彼女の上司だ」
「……上司?」
言葉の意味が理解できないまま、私はデスクに座った。
机の上にはファイルと名刺の束が置かれていた。名刺には〈営業部長〉と、私の名前が印刷されている。
「営業部長……」
思わず吹き出してしまった。
「まずは、彼女の電話を聞いてやってくれ。営業は初めてだからな」
Nは淡々と説明する。
気づけば、あれほどのヘビースモーカーがタバコを吸っていない。
「時給は二千円。日払いだ。今日は何もしなくても払う」
そして最後に言った。
「この部屋は禁煙にする」
「え?」
「俺は耐えられないから、もう帰る」
そう言って、Nは本当に出ていった。
部屋には、私とTさんだけが残った。
彼女はすぐに電話をかけ始めた。
初めてとは思えないほど落ち着いた声で、相手の話を引き出し、丁寧に相槌を打つ。
私はただ、隣で聞いているだけだった。
「何か気づいたこと、ありますか?」
そう聞かれるたびに、私は曖昧に答えるしかなかった。
正直、アドバイスなどできる立場ではない。
それでも彼女は、休むことなく次々と電話をかけ続けた。
三時間が過ぎた。
「今日はこの辺で帰りましょうか」
私がそう言わなければ、彼女はまだ続けていただろう。
翌日、合鍵を作り、オフィスへ向かった。
小さな手違いで鍵を一本余計に作ってしまったが、そのときは深く考えなかった。
その鍵が、後に重要な意味を持つことになるとは、まだ知らない。
仕事は続いた。
毎日、封筒に入った六千円が机の上に置かれていた。
そして一週間後。
「今日は、取れそうな気がするんです」
Tさんは、いつもと同じ笑顔でそう言った。
その予感は当たった。
初めての契約だった。
私が顧客の元へ行き、契約を結ぶ。
戻ってくると、Tさんは心からうれしそうに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、思った。
――これまで生きてきた中で、一番うれしい出来事かもしれない。
それが、私にとっての
最初の「契約」だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます