第3話 傷の奥
矢は、肩を貫いてはいなかった。
だが刺さった瞬間の衝撃で、腕が一瞬だけ言うことを聞かなくなる。
痛みは遅れて来る。遅れて来る痛みほど、厄介だ。
俺は矢を掴んで折った。
折っただけで抜かない。抜けば血が噴く。抜くなら、落ち着ける場所でだ。
肩の奥が熱い。主の爪で裂けた腹の傷も、引き攣れている。
「……ガルド、後ろ——」
セラの声が揺れた。
俺は振り返るより先に、風の向きを読んだ。
尾根は開けすぎている。開けた場所は狙われる。
矢が飛んできた方向へ身体を低くし、視線だけを走らせる。
岩陰。
木の影。
そこに、いた。
人型。
背丈は子供くらい。
肌が緑色——いや、緑というより、濡れた苔みたいな色。
目が黒い。光を反射しない。
歯が尖っている。弓を持っている。もう一本、番えている。
「……魔物か」
言葉にした瞬間、二体目が見えた。
三体目もいる。数が増える。
こいつらは、矢を射てきた時点で敵だ。
無駄な迷いは命を削る。
「セラ。下がれ。俺の背中に張り付け」
セラは頷いた。言い返さない。いい子だ。
俺は大剣を肩に担ぎ直し、足元の石を蹴って位置をずらす。
矢は直線だ。直線に立つな。止まるな。
ヒュッ。
二本目が飛んだ。
俺は刃を横に払う。矢が弾かれ、乾いた音を立てて岩に刺さる。
次の矢が来る前に距離を詰める。
弓は遠距離の武器だ。近づけば、ただの木と糸になる。
俺は走った。
五年の修行で得たのは、強さじゃない。
「止まらない脚」だ。
ゴブリン——セラが小さく呟いた。
名前なんてどうでもいい。敵だ。
一体目が矢を捨て、短い刃物を抜く。
その動きが遅い。
俺は大剣を振らない。ここで大振りすると、肩が死ぬ。
柄尻で殴る。顎を上げる。次の瞬間、膝を折る。
二体目が横から飛びかかる。
俺は剣を地面に突き、身体を回す。
獣を捌く時と同じだ。中心をずらす。
大剣の刃で斬る必要はない。重さで叩けば骨が折れる。
鈍い音。
緑の身体が転がる。
三体目は逃げようとした。
逃げる敵を追うな——ゼットの声が頭に刺さる。
追ったら、罠がある。追ったら、背中が空く。
だが、今は違う。尾根で逃がせば、集落に知らせる。
俺は地面の小石を拾い、投げた。
肩は痛いが、指は動く。
石がゴブリンの後頭部に当たり、動きが止まる。
セラが息を呑む。
「ガルド……」
俺は距離を詰め、今度は刃を使った。
一閃。
血の色は黒に近い。匂いが獣と違う。鉄臭いというより、湿った土の臭いだ。
ゴブリンが倒れ、尾根に風が戻る。
俺は息を吐いた。
吐いた息が白い。山の風は冷たい。
肩の矢が、じくじく痛む。
「……行ける?」
セラが俺の背中に手を当てた。
その手が、震えている。
「行ける。だが、ここにいると次が来る」
俺は視線を走らせた。
矢を射るなら、群れだ。斥候がいる。見張りがいる。
つまり、すぐ来る。
「洞窟、ある」
セラが言った。
指差す先、岩肌が裂けたみたいに暗い穴が見える。
山の腹に口を開けた、小さな洞だ。
「案内しろ」
俺は短く言い、歩き出した。
肩が重い。腹の傷が熱い。
でも止まらない。止まったら、死ぬ。
洞窟は湿っていた。
外の風が遮られ、音が落ち着く。
火を起こせる。水も近い。ここなら、抜ける。
俺は壁にもたれ、息を整えた。
セラが近づいてくる。
「矢……抜く?」
「まだだ。血が出る。まず、火」
セラはすぐ動いた。
薪を探し、石を集め、俺の真似をする。
不器用だが、必死だ。
俺はそれを見て、妙に落ち着いた。
火がついた。
小さな光が、洞窟の闇を押し返す。
「セラ」
「なに」
「水を汲めるか」
「……うん」
セラは頷き、外へ出た。
すぐ戻ってきた。手が冷えて赤い。
だが水は澄んでいる。いい。
俺は布を噛み、矢を抜いた。
抜いた瞬間、血が噴いた。
痛みが肩から首筋へ走る。
歯が軋む。声は出さない。出したら負けだ。
セラが布を押し当てる。
手が震えているのに、押さえる力は強い。
「……怖いか?」
俺が聞くと、セラは首を振った。
でも、目が怖がっていた。
「怖い。でも、やらないと……」
「そうだ」
俺はそれだけ言った。
慰める言葉は、ここでは役に立たない。
役に立つのは、手だけだ。
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
眠れないのは痛みのせいだけじゃない。
洞窟の外で、何かが動く気配がしたからだ。
風の音かもしれない。獣かもしれない。ゴブリンの残りかもしれない。
分からないものは、全部敵だと思っておく。
セラは焚き火の前で丸くなっていた。
祈ってはいない。俺が何も言わなくても、祈りを飲み込んでいる。
偉い、とは思わない。
ただ、これが生き残るやつの顔だ。
翌日。
セラは水を汲み、薬草を探してきた。
集落で見たことのある草だ。止血の匂いがする。
「誰に教わった」
俺が聞くと、セラは少しだけ目を逸らした。
「……誰も。勝手に、覚えた」
「居場所がないと、勝手に覚える」
俺がそう言うと、セラは驚いた顔をした。
驚くのが遅い。だから、この子は強い。
「ガルドは……居場所、あった?」
「山にあった。ゼットがいた」
セラは少しだけ笑った。
その笑い方が、泣きそうで嫌だった。
二日目。
熱は出なかった。
矢傷は深くない。だが動かすと痛い。
腹の傷は、主の爪の名残がまだ残っている。
俺は剣を握り、軽く振った。
肩が叫ぶ。だが折れてはいない。よし。
「ねえ」
セラが言った。
焚き火の向こうで、膝を抱えている。
「私、嫌われてた。ずっと」
「知ってる」
「……なんで」
「祈ってたからだろ」
「それもあるけど……」
セラは泣いた。
「私、集落の男たちに」
顔立ちがいいから、すぐに察した。
「復讐したいなら付き合うぞ?」
「違うの、そういうのじゃ……」
「だから祈り始めたのか?」
「祈るとね、みんな、私を見なくなる」
「見ない方が楽だからな」
「……それでも、祈りをやめたら、もっと怖い」
「怖いから祈るのか」
「うん。怖いから、祈る」
その答えは、正しい。
俺は祈らない。怖いから、剣を握る。
結局、同じだ。
三日目。
出発できる身体になった。
洞窟の外は晴れていた。空が高い。
山の向こうへ続く森が、昨日より近く感じる。
俺は装備を確認し、最後にセラを見た。
水を汲みに行ったセラが戻る。
その時、袖がめくれた。
腕。
手首の内側に、黒い痣が見えた。
汚れじゃない。傷でもない。
皮膚の下に沈んだ、墨みたいな模様。
俺は目を細めた。
「……それ、前からあったのか」
セラの身体が止まった。
一瞬だけ、逃げた目をした。
「うん。祈ると、増える」
「増える?」
「世界に触った跡、って言われた」
俺は痣を見る。
汚れじゃない。傷でもない。
消そうとしても、皮膚の下に残る色だ。
「代償か」
セラは、否定しなかった。
「祈ると、濃くなるのか」
セラは小さく頷いた。
「消えないのか」
「……消えた人、見たことない」
洞窟の中で、焚き火が小さく鳴った。
俺は痣から目を離し、荷を背負った。
「だから、集落で祈れなかったのか」
セラは答えなかった。
答えないのが答えだ。
俺は言った。
「祈るのは勝手だ。でも、前に出るな」
「……うん」
「祈るなら、俺の後ろでやれ」
セラが目を見開いた。
「それって……」
「俺が決める。選ぶなら、俺が選ぶ」
セラはしばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
外へ出る。
風が冷たい。森の匂いがする。
主はいない。鎖は切れた。
だが矢が飛んできた。つまり、この先にも敵がいる。
俺は大剣を片手で握り直す。
五年前は、逃げた。
今度は、進む。
「行けるか」
俺が聞くと、セラは小さく笑った。
「うん。祈らなくても、行ける気がする」
「祈るなとは言ってない」
「分かってる」
セラは一歩後ろに立った。
位置が決まる。
前を歩く俺。
一歩後ろに、祈る少女。
俺たちは山の向こうへ足を踏み出した。
その先に何があるかは、まだ知らない。
ただ一つだけ確かなのは——
この世界は、俺たちを通す気がないってことだ。
だから、通す。
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