第2話 祈りの夜、主の牙
山の夜は、音が多い。
木が鳴る。枝が擦れる。見えない獣が歩く。遠くで水が落ちる。
なのに、耳の奥だけが静かだった。
五年ぶりに、この山の“入口”に立っている。
「ここから先は、戻れない」
俺がそう言うと、セラは頷いた。
怯えてはいない。強がってもいない。
ただ、覚悟の仕方が違うだけだ。
俺は薪を割って火を起こす。
手が勝手に動く。狩りと修行の生活で、道具を扱う動作だけは身体に染みついた。
ゼットが生きていた頃も、俺が火を起こした。
あの人は、火を見ながら笑っていた。
世界の話を、いつも同じ口調で繰り返した。
「広いぞ」と。
今なら分かる。広い、なんて言葉は、この山の前では軽い。
この山は、広さじゃない。閉じてる。逃げ道がない。
背後には断崖がある。
集落はそこにへばりつくように建っている。
逃げるなら、山を越えるしかない。
越えようとすれば主がいる。
だから、閉じている。
閉じているから、祈りをする場所もない。
この小さな世界では、誰かの異物はすぐに“罪”になる。
セラは焚き火の向こう側に座った。
小さな身体が、火に照らされて揺れている。
目だけが澄んでいる。澄みすぎて、時々怖い。
祈る人間の目だ。
何も知らないで信じる目じゃない。
知った上で、それでも信じる目だ。
「なあ」
俺は剣を膝に置いたまま言った。
「ここで祈るのか」
セラは少しだけ迷ってから、静かに手を組んだ。
「……祈らないと、壊れそうだから」
「誰に」
「分からない」
俺は笑いそうになった。笑えなかった。
分からないまま祈るってのは、つまり“祈ること自体”が支えなんだろう。
ゼットはそういう支えを持たなかった。
だから強かったのか、だから折れたのか。
答えは出ない。
セラが息を吸い、ゆっくり吐く。
両手が胸の前で組まれる。
その瞬間、空気が変わる。
耳が遠くなる。虫の声が薄くなる。焚き火の爆ぜる音だけが妙に大きい。
俺は剣の柄を握る。
祈りが“何か”を呼ぶのか。
祈りが“何か”を遠ざけるのか。
どちらでもいい。今は、どちらでも困る。
「セラ」
俺は低い声で言った。
「今夜は短くしろ」
セラは目を閉じたまま頷いた。
祈りは続く。短い祈りだ。
だが、その短さの中に、必死さがある。
祈りは言葉じゃない。呼吸だ。恐怖の処理だ。
焚き火が小さくなり、俺は火を落とした。
闇が濃くなる。
山の闇は、ただ暗いんじゃない。“見られている暗さ”だ。
寝るつもりはなかった。
眠れば死ぬ。これは昔から変わらない。
俺は座ったまま、背中で風を測った。
風向きが、変わった。
冷たい方へ変わる。上から降りてくる風だ。
主の縄張りに近い時の風だ。
「起きろ」
俺が言うと、セラはすぐ立ち上がった。
寝ていなかったのか。寝られなかったのか。
どっちでもいい。
セラの足取りは軽い。だが目だけが重い。
夜明け前に動く。
主は夜でも動く。だが、最初の光が差す瞬間に“視界”を得る。
俺は弓を肩にかけ、大剣を片手で握った。
片手で握れるようになったのは、強さじゃない。
弱さを埋めるためだ。
あの日、ゼットは両手だった。
両手で振っても、主は止まらなかった。
なら俺は、片手で振れる場所まで行くしかなかった。
森に入ると、空気が薄くなる。
酸素が減るんじゃない。生き物が減る。
音が減る。匂いが減る。
主の縄張りの“手前”だ。
ここを超えると、森は森じゃなくなる。
主の部屋になる。
セラが小声で言った。
「……ここ、嫌な感じがする」
「ああ」
俺は短く答える。
正しい感覚だけが、生き残る。
足元の土が固い。
石が増える。
木の根が地面から出ている。踏むと滑る。
崖へ落とすための地形だ。
昔、ゼットが言った。
でも俺は聞き流した。
今は聞こえる。山は人間のために作られていない。
俺は立ち止まり、地面を見る。
爪の跡がある。
深い。太い。四本。
昨日の跡じゃない。今朝だ。
主は動いている。
「セラ」
「うん」
「俺の後ろから出るな」
「……祈った方がいい?」
「何か変わるのか?」
「わからない」
セラは唇を噛んだ。
祈りたいんだろう。怖いから。
怖いから祈る。その祈りが何を起こすか分からない。
それでも人は祈る。俺には分からない。
俺は分からないことを、分からないまま背負う。
森が途切れた。
岩場が見えた。
谷のように窪んだ場所。そこに霧が溜まっている。
霧が重い。水の霧じゃない。呼吸を邪魔する霧だ。
主の“息”だ。
俺は一歩、足を入れた。
霧が喉に張り付く。
身体が本能で拒否する。
それでも入る。
五年分の修行は、恐怖の上に立っている。
石が転がる音がした。
俺は反射で身を沈めた。
セラも同時に沈んだ。
勘がいい。生き残りの匂いがする。
次の瞬間、地面が揺れた。
風が来た。
重い風。圧で押す風。
主が、そこにいる。
霧の向こうで影が動く。
巨大な影が、ゆっくりと形を持つ。
岩が歩いているみたいだ。
皮膚は灰色。苔のようなものがついている。
角は二本。目は、赤くない。黒い。
光を吸う黒だ。
俺は思い出す。あの日の恐怖。
声が出なくなる感じ。
ゼットが前に出た背中。
俺の足が勝手に逃げた瞬間。
その全部が、今ここに戻ってきた。
主が、鼻を鳴らした。
息が霧になる。霧が濃くなる。
俺の肺が苦しい。
セラが小さく咳をした。
その音で、主の頭がぴくりと動いた。
見つかった。
「来るぞ」
俺が言い終わる前に、主が動いた。
巨体がありえない速度で距離を詰める。
地面が裂ける。石が跳ぶ。
衝撃で膝が揺れる。
俺は踏ん張り、横へ跳んだ。
跳んだ瞬間、元いた場所が爆ぜた。
主の前脚が叩きつけられていた。
――遅い。
五年前より、遅く感じる。
俺が速くなったんだ。
でも、安心はしない。遅く感じても、当たれば終わる。
俺は大剣を振る。
片手で、横薙ぎ。
刃が空気を割り、霧を裂く。
主の前脚に当たる。
金属が岩を叩く音がした。
止まらない。
主の皮膚は硬い。刃が食い込まない。
俺は歯を食いしばり、踏み込みを増やす。
腕が痺れる。肩が軋む。骨が鳴る。
それでも振る。
この瞬間だけは、五年が全部意味になる。
主が吠えた。
音じゃない。圧だ。
胸の奥が潰れそうになる。
セラが膝をついた。
俺は叫ぶ。
「立て!倒れるな!」
セラが歯を食いしばり、立ち上がる。
泣かない。逃げない。祈りたいのを飲み込んでいる。
それだけで、十分だ。
主が尾を振る。
尾?違う。岩のような棘のついた尾だ。
横から来る。避けきれない。
俺は大剣を縦に立てて受けた。
衝撃が腕を持っていく。
身体が浮く。
背中から岩に叩きつけられた。
息が抜けた。
視界が白くなる。
だが、骨は折れていない。
五年の修行は、こういう時に“生き残る体”を作る。
主が俺に近づく。
踏みしめるたびに霧が揺れる。
俺は大剣を地面に突き、身体を起こした。
片膝。
呼吸。
目の焦点を合わせる。
主の顔が近い。
口が開く。牙が見える。
あの日のゼットは、ここでやられた。
俺は、歯を食いしばって笑った。
「……来いよ」
喧嘩みたいな言葉が出る。
祈りも奇跡もない。
ただの殺し合いだ。
俺は弓を捨てた。
ここでは邪魔だ。
大剣一本でいい。
ゼットの形見だ。
形見ってのは、重い。物理的にも、精神的にも。
その重さを、俺は片手で受けるために五年を使った。
主が噛みつく。
俺は一歩踏み込む。
牙の内側へ入る。
危ない。だが、外で受けたら骨が砕ける。
内側へ入れば、主の顎の力が逃げる。
ゼットはこれを教えなかった。教える前に死んだ。
だから俺は、獣に教わった。
俺は大剣の柄尻を主の顎に叩きつける。
鈍い音。
主の顎がわずかに上がる。
その瞬間、俺は刃を滑り込ませた。
硬い皮膚の継ぎ目。
首と胸の境目。
鱗でも甲殻でも、継ぎ目はある。
刃が、入った。
浅い。だが入った。
主が吠える。
血が噴く。赤くない。黒い血だ。
霧がさらに濃くなる。
痛みで暴れる。地面が揺れる。
俺は刃を抜かない。抜けば終わる。
抜かずに、体重を乗せて押し込む。
だが主の力は、まだ終わらない。
主の前脚が俺を薙ぐ。
俺は避けきれず、腹を掠めた。
熱い。
皮膚が裂けた。
血が出る。赤い血だ。
俺の血。
目が冴える。痛みが現実に戻す。
俺は大剣を引き抜いた。
主が後退する。
息を吐く。霧が吐き出される。
主は距離を取る。次の突進のために。
俺は肩で息をする。
腹が熱い。だが動ける。
動けるうちは終わっていない。
その時、セラが一歩前に出た。
「セラ!出るな!」
俺の声が遅い。
セラは両手を組んだ。
祈りだ。
震えている。
でも目が逃げていない。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
やめろと言いながら、心のどこかが言った。
やれ、と。
矛盾している。
俺は祈りを否定していない。
ただ、祈りが何を呼ぶか分からないから怖い。
だが今は、主を殺すのが目的だ。
ゼットの背中を取り戻すために。
この集落を閉じていた鎖を切るために。
セラの祈りで、空気が一瞬“凪いだ”。
霧が止まる。
風が止まる。
音が消える。
主の動きが、ほんの僅かに遅れる。
その“僅か”が、戦場では致命傷になる。
俺は踏み込む。
主の突進が始まる前に、距離を潰す。
大剣を両手で振り上げ、落とす。
縦の一撃。
刃が首筋の継ぎ目へ入る。
今度は深い。
主が吠えた。
血が噴く。
俺は刃を抜かず、そのまま押し込む。
骨に当たる感触。
硬い。だが折れる。
主が暴れる。
尾が来る。前脚が来る。
俺は全部を受けるんじゃない。
“ずらす”。
落ちないために、中心をずらす。
死なないために、衝撃を逃がす。
刃が、骨を断つ音がした。
主の動きが、落ちる。
巨大な身体がぐらつく。
膝が折れる。
霧が薄くなる。
主の黒い目が、俺を見る。
憎しみじゃない。
理解だ。
「お前も、ここで生きてきたのか」
そんな目だ。
俺は息を吐き、最後の力を込めた。
大剣を引き抜き、横へ振る。
首筋が裂ける。
血が噴き、主の身体が崩れ落ちた。
地面が揺れた。
森が揺れた。
鳥が一斉に飛び立った。
音が戻る。
匂いが戻る。
山が、初めて“山”に戻る。
俺は膝をついた。
大剣を地面に突き、身体を支える。
腹から血が滴る。
視界が揺れる。
でも、倒れない。
倒れたら、ゼットに顔向けできない。
セラが駆け寄る。
「ガルド!」
初めて俺の名前を、ちゃんと呼んだ。
俺は笑う。
「……祈り、届いたな」
セラは泣きそうな顔で首を振った。
「分からない……私、怖かった……でも……」
俺は息を吐く。
「分からないままでいい」
俺は主の死体を見る。
巨大だ。
これが鎖だった。
この山を越えられなかった理由だ。
「セラ」
「なに」
「山、越えるぞ」
セラは頷く。
「うん」
俺は立ち上がろうとして、足がもつれた。
膝が笑う。
腹が熱い。血が流れる。
主の爪の傷だ。深くはない。
俺は大剣の柄を握り直す。
片手で持てるから、歩ける。
それが、俺の五年の答えだ。
そして俺たちは、主の縄張りの“奥”へ進んだ。
そこに、道があった。
道?違う。
昔、誰かが通った痕跡だ。
土が固められている。
石が並んでいる。
山を越えた先へ続く、細い線。
「……誰か、越えてたのかな」
セラが呟いた。
俺は答えない。
越えていたのかもしれない。
越えて、戻らなかったのかもしれない。
戻れなかったのかもしれない。
山の尾根へ出る。
風が変わる。
匂いが変わる。
空が、今まで見たことのない広さで開ける。
そして、見えた。
向こう側に、森が続いている。
森だけじゃない。
光るものがある。
湖か、街か、分からない。
遠くの地平線に、煙みたいな線がある。
生き物が作る煙だ。
つまり、人がいる。
俺の知らない場所に。
この集落の誰も見たことのない場所に。
セラが息を呑む。
「……ほんとに、続いてる」
俺は大剣を肩に担いだ。
腹の痛みが、現実を繋ぎ止める。
「行くぞ」
俺が言うと、セラは小さく笑った。
「うん」
その瞬間、俺の背中に悪寒が走った。
山の上は視界が開けすぎる。
開けすぎる場所は、狙われる。
風の中に、音が混じった。
ヒュッ。
弓の音だ。
この山で、誰が弓を?
俺が振り返る前に、セラが目を見開いた。
「……ガルド、後ろ——」
次の瞬間、俺の肩に衝撃が刺さった。
痛みが遅れて来る。
矢だ。矢が刺さっている。
俺は歯を食いしばり、膝をついた。
主じゃない。
山の外だ。
こっちを見ている。
霧のない空気の中で、俺は初めて理解した。
俺は矢を掴み、折った。
この山を越えられなかった理由は、主だけじゃない。
越えた先にも、何かがいる。
集落にはない紋章。
血が落ちる。
セラが俺の背中を支える。
「……行ける?」
「……行く」
主は殺した。
でも、この世界は、まだ俺たちを通す気がないらしい。
それでも、歩く。
祈りを背に。
何も信じない男は、前へ進む。
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