「帰りたくない家」

 翌日。洋平は落ち着かない気分のまま、いつものように大学に向かうためにマンションを出る。


 エレベーターは使わなかった。廊下に付着していた「足あと」については、使い捨てのフロアモップで消してある。

 ここに住んでもう一年が過ぎた洋平にとっては「よくあること」だったし、これを放っておくとことを知っていたから。


 ほとんど車など停まっていないせいか、不自然なほど広く見える駐車場を突っ切っていくと、そこには蛇行だこうしたつづら折りの上り坂がある。


 洋平は緩い傾斜けいしゃの坂道を一番上まで登って行った。

 ここは、マンションが建つ前は雪が降ると車が通れなくなるほどの急坂だったと聞く。


 だけど今は関係ない、もう過去の話だ。どこか背中を押されるように洋平は足を速めた。

 ようやくひらけた明るくて平坦な道路を、洋平はどこか吹っ切れたような早足で駅を目指していく。


「洋平。おまえ最近は毎日来てんのな。高校で野球やーめた、なんて言っておいてウソじゃねーか」

 講義の後は野球サークルに顔を出す。


 同学年で同学科の菅沼一也は、実は同じ県で甲子園大会を目指して県予選で競ったライバル校の野球部員である。


 そのころの洋平は捕手をつとめていたが、対して一也はエース投手だったので現役高校生のころは、互いのチームを細かく分析し合うような関係だったといえる。


 最後の夏の大会。

 県予選で一也の高校は四回戦で敗れ、洋平の高校は準決勝で敗れた。

 それにしてもまさか、大学の入学式で再会するとは思ってもいなかった。


「堂々とグラウンド使いたければさ、おまえ『野球部』のほうに行けよなぁ」

「……あのさ、一也。そのセリフはおまえにもブーメランなんじゃねえの──?」


 お互いに未練がましくはある。つまり野球中心の生活はもう嫌だが、完全に忘れることもできないというところだろう。


 今さら新しく何かスポーツを始める気にもなれないし、文化系サークルの新歓しんかんコンパにもいくつか参加してみたものの、どこにいてもなんだか居場所がない感じがして。


「今日はこのあとバイトだしな。それまでのヒマつぶしだって」

 洋平が言うと、一也はバカにしたように笑う。


「けどおまえ語学のテストかなりヤバかったんだろ。少しはおとなしく勉強でもしたらどうなん?」

「この天気のいいのに家でじっとしてられねぇっての。分かるだろ」

「なんかおまえさぁ、よっぽど自分の家がキライなんだな……」


 その不意の言葉に洋平はひどくぎこちなく笑った、思いがけずに虚を突かれたような心地がしていた。

「べつにそういうのとも違うんだけどさ──でも、おまえなら分かるだろ?」


 何しろあのマンションは全体的に新しくきれいで住みやすくはあるが、なぜか破格に家賃が安い。


 ただ、洋平から見ても住人が居着かない理由というのも理解できた。

 ──何がどうとは言えないが「どうにも落ち着かない」のだ。


 そういう感覚があるとかないとか、洋平にはだった。


 例外として、たとえば「引っ越してきた次の日にペットのハムスターが変死」するようなこともあったが──あの死は異様で異常ではあっても理由が分からない、そうやってこれまで自分をごまかしてきた。


 ただしたまに、あのマンションでは冷たい寒気さむけを感じることがある。

 今、この部屋にいることがたまらなく怖いと思ったことなら何度でもある。


 それは、ちゃんと誰かに説明できるかというと言葉にならないのだが。

 特に夜、そして静かな雨の夜なんかは本当に最悪だった。


 とにかく、どうにも「土の気配」が強いのだ。

 ここは四階で窓も開けていないというのに、どこからか流れる湿った泥のような臭い。


「一也。おまえら今度さぁ、おれの部屋に来いよ。みんなで麻雀マージャンでもやって酒飲もうぜ?」

「え? いや別にいいけどさ。おまえがそういうこと言っても何だかんだで、だいたい面子メンツが集まんないんだよな。おまえって実は友達いないんじゃねえの」


「うぇ? そうなのかな……」

 すると一也は洋平の後頭部を張り飛ばした。


「バーカ、いちいち本気にすんなって! けどよ、おまえが夜のバイトばっかり入れてるのって、結局はおまえ自身が『夜にあの家にいるのがイヤ』だからなんだろ?」

 一也に確信めいた言葉を投げられて、洋平は思わず本題とは無関係な反論をした。


「……知らねぇよそんなの。そういや最近さ! となりの部屋にうちの大学の女子が引っ越してきたんだよ。同じ二年で文学部だってさ。まだほとんど話したことはないけど、かなり美人だし性格も悪くなさそうだった」


 そのときの一也の表情は、何とも形容しがたいものだった。

 なぜか引きつっているようにさえ見える。

 まるで笑い飛ばそうとして失敗したみたいに。


「それは関係ねえだろ……だけどよ、あれだけき部屋があって何であえて『おまえのとなりの部屋』なんだよ。そこんとこちゃんと考えてみたのか、洋平クンさぁ?」


 そう、問題はそこだ。

 それなりに人の入っている二階や三階にだって、まだ空き部屋はいくつかある。


 ちゃんとエレベーターもあるマンションだから、普通なら上層階ほど人気なのが普通だ。だが五階は無人のままだった。


「まぁ確かにそうだよな……となりに男子学生が住んでるとか管理人に聞かなかったのかな──?」

「実はおまえに気があったりしてな? んなわけねーか、それじゃストーカーだもんな!」

「おい。いくら何でもそれはねーだろ。ぜんぜん面識ないし知らない顔だったぞ」

「ストーカーってそういうモンなんじゃねぇの? 知らんけど」


 確かに401号室と410号室の角部屋は家賃がやや高い。

 だけどこれだけ選択肢があれば、わざわざ騒音のリスクを無視して、わざわざ住人のいる部屋のとなりを選んだのかがさっぱりわからない。


 なにしろ角部屋以外は間取りもすべて同じで、家賃もすべて同じなのだから。

 しかも405号室はエレベーターホールと上下階へ続く階段に隣接しているので、普通の感性なら避けるはずだ。


「……よし、今度メシにでも誘ってみようかな!」

「そんときはオレも呼べよな、洋平?」

「なんでだよ!」


 梨沙の部屋だけは「この怪異」とは無関係だとでもいうのだろうか。

 昨夜も上の階では足音がしていた。それこそとなりの梨沙の部屋にでも聞こえるのではないかというレベルで。


 騒がしいというほどではない。

 だけどそういう物音が聞こえるのは決まって玄関からリビングまでの廊下付近に限られている。

 ──そう。その足音の主はまるで、かのように。

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