「その部屋を選んだ理由」

 昼前になってインターホンが鳴らされ、なんだか場違いに明るい電子音が洋平を現在に引き戻した。

 このマンションで、誰かが「訪ねてくる」ことなど滅多にない。


 洋平はソファから立ち上がり、モニターを確認した。

 そこには小柄で、明るめの茶髪の女性がうつむきがちに応答を待っていた。

 だいたい同じ年代、つまりは大学生くらいに見えた。


「はい、大津ですけど」

『あ、すみません。つい最近、こちらに引っ越してきた405号室の者です。ごあいさつを、と思って……』

「ちょっと待ってください、すぐ行きますんで!」


 朝起きてすぐにシャワーを浴びているし、服装も髪型もべつに問題ないかな、と洋平は洗面台で軽く自分の姿をチェックする。


 なにしろ休日で何をするでもなくただ、だらけていて油断していた。

 かといって待たせるわけにもいかず、クロックスめいた樹脂サンダルに裸足を突っ込んで鍵を回しドアを開けた。


「すみません突然で、いま大丈夫ですか?」

「大丈夫です! えーと405号室っていうと……となりの?」

 彼女は軽く手で前髪を横に流すと笑う。

「そうですね、おとなりです。わたし砂上すなかみ梨沙りさっていいます、A大学の二回生です」


 洋平の予想していた通りだった。

 年齢は断言できないが同じ大学の二回生らしい。

 あえてここに引っ越してくるくらいなのだから、きっと通うキャンパスも同じなのだろう。


「ああ、おれは大津洋平っていいます。同じ大学ですね、理工学部の二回生です」

「そうなんですね! わたし文学部だからかな、たぶん初めてお会いするかと思うんですけど。でも大学のどこかではお会いしてたのかもしれませんね」


 洋平はすこし浮かれていた。

 高校時代は男子校で、大学の野球サークルも男子ばかり。


 また理工学部にはそもそも女子が少なく、しかも「理工学部棟」と「文学部棟」は大学キャンパス内での位置では「中央棟」という学生課などの入るビルをはさんだ正反対の位置、つまり対角線上にある。


「あのこれ、よろしければどうぞ。どういう方がお住まいか分からなかったので、何ていうかすごく無難で地味なものですけど。せっかくなので……」


 渡された箱はラッピングされていて中身が見えないが、定番のタオルなどだろうか。

「わざわざありがとうございます。おれのほうは何も準備できていませんけど、力仕事とか困ってることあったら言ってもらえると! 何でも手伝いますよ!」


 いきなりこんなことを言えば下心がありそうに見えるだろうかと洋平は思ったが、梨沙は気にした様子もなく、ただ笑った。


「そんな。ほとんどは業者の方にやってもらえたので今のところ大丈夫ですよ、ちなみに大津さんって失礼ですがおいくつですか?」

「いちおう現役なんで二十歳ですね。砂上さんは?」

「わたしも同じです! ですのでお気遣いなく、ですね。大津さんは運動部ですか?」


 質問というよりは確認を取るような言い方だった。

 たしかに洋平は短めの黒髪をしていてやや日焼けしている。


 典型的な体育会系に見えるだろうけど、理工学部ではあまりよく見るタイプではないのかもしれないな、とも思う。


「はい、部活っていうか野球サークルですね。おれのことは『洋平』でいいですよ」

 だけどそうもなかなかいきませんよね、と梨沙は笑った。


「でもやっぱり、なんか体つきとか身のこなしとかで分かっちゃいました。うちの弟も野球部だから、なんでしょうかね?」

「どうでしょう。ちなみにええと、梨沙さんは? どこか部活とかは……」


「わたしですか? 実は大学祭の実行委員なんです。だけどこれって部活でもサークルでもありませんよね。まだ慣れないので忙しいですけど、本番は秋だからまだまだ忙しくなっちゃうのかな……」


「学祭委員、大変そうっすね! 今日は急なのでアレですけど、また大学でも話しましょう。学祭の手伝いなら、おれにも何かできるかもしれないですし。野球部のほうは大学祭でも目立ってますけど、うちの野球サークルはわりとヒマなんで」


 そう言ってみると梨沙は顔を傾かたむけて笑った。

「嬉しいです。ところであの、もしかしてここのエレベーターって調子悪いですか?」

 そのセリフに洋平は、一瞬だけギクリとした。


「え? いや特にそういうことは聞いてないけど……」

「なんか四階って押したのに反応がなくて。でもエレベーターは勝手に動き出して五階まで連れて行かれちゃったんです。わざわざ五階から階段で降りてきたんですよ」


 洋平は内心の動揺をまるでおもてに出さず、へらっと笑う。

「へぇ……。おれも確認して、あとで管理人に連絡しときますよ──たぶん接触不良とかじゃないかな?」


 梨沙は笑って手を振ると405号室のドアの奥へ消えた。洋平もまた自室の前に立ち尽くす。

 洋平の部屋は403号室、なお表札は入れていないので空白のままだ。


 それにしても。四階に「洋平ただひとり」が住んでいた期間も今日で終わるのだと思うと嬉しいようでもあり、同時に不安でもあった。


 彼女もいずれ知るだろう、このマンションの一階には管理人以外に誰も人が住んでいない。

 それから五階に至っては洋平が知る限り、一年前から今まで誰ひとり住人がいない無人の空間だということを。


 それとも、そういう事情を彼女はここに入居を決めたのだろうか。

 大学でなにか噂を耳にしたりはしなかったのか。


 そもそもなぜ二回生になってからのタイミングで引っ越してきたのかも少し気になっている。


 そしてもうひとつの疑問がある。

 梨沙がどうして、あえて洋平のとなりの部屋を選んだのか──空室だらけのこの物件で?

 そこだけはどうしても納得できず、いくら考えても答えは出てこなかった。


 そうして洋平もまたドアを開け自室へと戻る。

 すると廊下には濡れた足あとのような水汚れが見えた──ついさっきまでは何もなかったのに。

 何度見ても受け入れられない、これだけは。

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