忌地の家

虎石啓志

「水の記憶」

 これという理由も思い当たらないのに、妙に落ち着かない朝だった。


 ふとスマホの待ち受け画面を見て、洋平はすぐに「一年前のこと」を思い出す。

 今日は洋平がこのマンションの一室に引っ越してきたばかりの、あの朝と同じ日付だったから。


 あの日の朝、飼っていたハムスターが死んでいた。

 実家を出るときに洋平が引き取ったものだ。

 それなのに、洋平が引っ越してきた翌日にあっけなく死んでしまっていた。


 たしか当時二歳くらいだったか。

 前日まで元気よく運動用の回し車でガンガン走っていたのに、朝になると仰向あおむけにひっくり返っていて、ちいさな口からは血の混ざった泡を吹いていた。

 ほぼ寿命といえる年齢ではあったが、前日まであんなに元気そうだったのに。


 哀れに思うと同時に、洋平はひどい違和感を覚えた。

 短くて細い毛に覆われた腹がぱんぱんに膨れていたからだ。

 おそるおそるケージに手を入れてそっとその腹を押すと、噴水のように赤い水を吐き出す──ありえない。

 さすがに異常だとはすぐに分かった。


 カゴの中には自由に水をガブ飲みできるような場所が元からないし、そもそもハムスターは乾燥地帯の生き物で、あまり水を多く飲まない。

 実際、カゴに外付けされていた専用の水差しの中身はほとんど減っていなかった。


 白い陶器のエサ入れにはハムスター用のペレットが残ったままだった。

 ただしそこには大量の水が入っていてエサは膨張し、しかも水があふれ出している、これもまたおかしい。


 寝る前にエサを足したときには水なんて一滴も入っていなかったのだから。

 まるで夜の間ずっと水が補充され続けているような、そんな水量だった。


 だけど最も不可解なのは、溺死できししたかのような状態で腹が膨れて見えることだった──まるで強制的に、抵抗すらも許されずに飲まされ続けたような。


 洋平は、ハムスターのケージの真上にあたる位置の天井をじっと見た。

 この部屋は403号室で、階上の部屋は503号室ということになる。


 天井は水滴がしたたるような状態には見えない。

 だが手が届くような高さでもないし、あまりよくは見えなかった。


 キッチンからイスを持ち出してその真下に置いた。

 そこに足を乗せて立ち上がろうとするよりも先に、天井から水滴が立て続けに数滴ぼたぼたっと落ちてきてイスの背もたれにぶつかり弾け、そのわずかな飛沫が思いのほか勢いよく跳ねて洋平の左目に入ってしまう。


 その瞬間。

 生暖かい水の感触に洋平は叫び出しそうになるほどの嫌悪を覚え、すぐにキッチンに向かうと蛇口から水を勢いよく出し、何度もくりかえし執拗しつようなほどに目を洗った。


 それからハムスターのケージとイスとを窓際まどぎわに押しやる。

 正直なところ、それらが視界にあることすらも気分が悪くて、どうにも不吉で我慢ならなかったからだった。


 だからその後も水が落ち続けるようなら管理人に連絡するつもりだったし、たぶん続くんじゃないかともどこかで思っていた。

 もしかしたら上階の水漏れ、水回りのトラブルなのかもしれないから。


 だけど、待っていても水はもう落ちては来なかった。

 ──ただし「このリビングでは」という補足をする必要はあるだろう。

 その後も洗面台や廊下などに、気づけば水たまりが広がっているという現象を、洋平はこの先で何度も目撃することになるのだから。


 そうして今、ちょうど一年後の春を迎えている。

 もう五月も間近だというのに背筋では寒気を感じていた。


 もう部屋にはあの「ハムスターの棲み家」だったケージもなく、降ってきた水で汚れてしまったイスについても、何だか見るのさえ気分が悪くて感情に任せるままに粗大ゴミとして捨ててしまった。


 その後の一年間で洋平は何度か部屋に友人を招いてみたりもしたが、ここは不思議と「人の寄りつかない家」だと思う。

 大抵の場合、洋平の部屋に一度でも泊まった友人には不思議なほど「二度目」がなかった。


 よくある学生アパートよりは防音性の高いマンションと環境なので、少し酒を飲んだりゲームでもして騒ぐくらいなら騒音の問題もほとんどない。

 何しろその一年前から今まで、ずっと両どなりは空き部屋のままだったのだから。


 洋平だって理由があってここに住んでいる、そしてその理由まで、もう少しで手が届きそうなところだ──そうでもなければ、こんな「泥臭い水が落ちてくる」マンションに一年も住み続けられるはずがなかった。

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