#3 風に呼ばれて
僕にだけ吹く風がある。
ある日、放課後の帰り道で、ふと左頬をかすめたその風は、夏にしては冷たく、どこか懐かしい匂いがした。誰も感じていないようで、周囲の友達はケラケラと笑いながら、自転車で坂を下っていった。僕だけが、立ち止まり、風の吹く方角を見つめた。
それからだ。あの風が、何度も僕を呼ぶようになったのは。
最初の風に誘われた日は、学校裏の林に入った。子供の頃はよく秘密基地を作った場所だ。でも、奥まで行くと、そこには見慣れないものがあった。
――鏡。
大人の背丈ほどある大きな鏡が、誰も来ないはずの林の奥に、ぽつんと立っていた。
それは古びたフレームに囲まれていて、鏡面は少し揺らいでいた。風に揺れているのか、僕の心がざわついていたのか。近づくと、そこには僕が立っていた。確かに僕だった。でも、背景が違う。
そこに映るのは、見たこともない街だった。高層ビルが並び、空には車のようなものが浮いていた。僕は制服のままその景色の中に立っていた。目を見開いたまま。
吸い込まれるように、僕は手を伸ばしていた。
その瞬間、風が止まり、鏡の中の景色が一気に白くなった。
目を覚ましたのは、自分のベッドの上だった。時計は夜の9時を指していた。学校帰りだったはずなのに。林に入ったことも、あの鏡も、夢だったのかと思った。でも、手のひらにはうっすらと土の感触が残っていた。
翌日からも、風は僕を呼んだ。
今度は駅のホームで、ふと風を感じた。どこかの路地へ、迷い込んだ先に、また鏡が立っていた。今度は、知らない少女と並んで歩く僕が映っていた。肩を並べ、笑い合っていた。制服も少し違った。…いや、これは「未来の僕」だ。
僕はまた、吸い寄せられるように鏡に手を伸ばした。
意識が遠のき、次の瞬間には、少女と一緒にいた。名前は「ナツキ」。彼女は僕を知っていた。
「また来たの?…変なの、君」
未来の中にいる僕は、ここに来るたびに同じことを言われたらしい。話を合わせるのに必死だった。ナツキは面白がりながら、街を案内してくれた。その街は技術が発達し、空を飛ぶタクシーがあり、植物でできた建物が立ち並んでいた。
でも、その未来には“風”がなかった。ナツキは言った。
「風?…そんなもの、もう何年も感じてないよ」
目が覚めると、また現実だった。手にはナツキからもらった小さなガラス玉が握られていた。
鏡の中で経験したことは、現実にも残る。
そう確信した僕は、風に呼ばれるたびに、鏡を探した。
次は、見たこともない戦場だった。機械の兵士たちが行進する中、僕は兵士として銃を持っていた。心臓が凍るほど怖かった。何度も死にかけた。でも、仲間たちの顔が浮かぶ。僕は、彼らを守る立場だった。
その中に、ナツキがいた。
「君とは、ここでも出会うんだね」
記憶が重なっていく。別々の世界の彼女と僕。でも、心の奥には確かに“同じもの”が流れていた。
鏡の中で、僕は何人もの自分に出会った。少年兵の僕、探検家の僕、孤児院の先生になった僕――。
そして、次第に気づく。
あの鏡は、未来や過去だけではなく、"もしも"を映すものなのだ。
風は、その"可能性"を知らせに来てくれる。
ある日、ナツキが僕に言った。
「ねえ、どうして君だけが鏡を渡れるの?」
僕は答えられなかった。でも、気づいていた。
僕が、まだ“選んでいない”から。
現実の僕は、進路も決められず、周りの期待にも応えられず、自分が何者かもわからないまま生きていた。
だけど、鏡の中では、僕はいくつもの選択肢を生きていた。
どれも、本気で生きていた。
それが悔しくて、羨ましくて、誇らしかった。
――ある日。
風が、ひどく強く吹いた。
今までで一番、強く、鋭く、泣いているような風だった。
風の先には、最後の鏡があった。林の奥、最初に出会った場所。
そこには、何も映っていなかった。真っ白な、まっさらな鏡だった。
「これは、お前がまだ見ていない未来だ」
声が聞こえた。僕の声だった。けれど年老いた声だった。深く、重い。
「この先に進むかどうかは、お前が決めろ」
僕は、しばらく迷った。でも、もうわかっていた。
ナツキも、戦場の仲間も、未来の自分も、みんな僕だった。
どんな世界でも、選んだ先で本気で生きれば、そこに"僕の物語"があった。
「ありがとう」と風に言って、僕は最後の鏡に手を伸ばした。
触れた瞬間、鏡が砕けた。
光の破片が風に乗って、空へ舞っていった。
目を覚ました時、僕は自分の部屋にいた。
もう風は吹いていない。
だけど、僕の中に風は残っていた。
あの日々は夢なんかじゃなかった。
僕はもう、知っている。
どんな未来でも、自分で選べる。
僕にだけ吹いた風は、迷いの中の灯だった。
そして今、風は、僕の中に生きている。
3つの単語
「風」
「鏡」
「秘密」
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