#2 阿弥陀橋の涙影
阿弥陀橋は、街外れの川に架かる古い橋だ。今でこそ車が行き交う幹線道路の脇に新しい橋ができ、阿弥陀橋はほとんど歩行者専用になっているが、かつては町と町を結ぶ重要な道だったという。
それでも、この橋には誰も近づきたがらなかった。夜になると橋の端から水滴が垂れ落ち、その音が「啜り泣く声」に聞こえると昔から言われていたからだ。
地元ではその水滴を「橋の涙」と呼び、それに触れた者は死ぬ、もしくは死んだ者の影に取り憑かれると恐れられていた。阿弥陀橋の名は、元々「涙橋」が訛ってそう呼ばれるようになったという話だ。
俺はその橋のそばで生まれ育った。
名は高志、大学生。地元を離れていたが、久々に帰省していた。
夏の蒸し暑さが残る夜、幼馴染の俊と飲んだ帰り、ふと阿弥陀橋の話になった。
「高志、あの橋の噂、覚えてるか?」
「橋の涙ってやつだろ。ガキの頃、触るなって散々言われたな」
「そうそう。……なあ、久々に行ってみないか?」
俊の目が妙に光っていた。酔いも手伝ってか、俺も「いいな、それ」と応じた。
夜中の阿弥陀橋は想像以上に不気味だった。街灯の薄明かりが欄干を照らし、川面が黒い油のように光っていた。蝉の声すら途絶え、ただ遠くで風の音がするだけだ。
そして……聞こえた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ……橋の端から滴る水音が、まるで誰かのすすり泣きのように響いていた。
俊が小さく笑った。
「なあ、あれが涙なんだろ?ちょっと触ったら呪われるとか、嘘だろ」
「やめとけって」
「何だよ、高志、ビビってんのか?」
俊はふらつきながらも橋の端に歩み寄った。暗闇の中で、そのシルエットが妙に細長く見えたのは気のせいだったのか。
そして彼は、手を伸ばした。
ぽつり、と落ちた水滴が、俊の指先を濡らした。
その瞬間、風が強く吹き抜け、泣き声が確かに耳元で響いた。
「……返して……」
俊がびくりと震え、俺の方を見た。
「今、何か言ったか?」
「……いや」
「……なあ、高志、あれ……何だ?」
俊の指さす先、橋の反対側の暗闇に、何かがいた。
人影だ。
月明かりも届かぬその場所で、橋の欄干にもたれかかるように、じっとこちらを見ている。
俊が口の中で「やべえ」とつぶやき、俺たちは一斉に駆け出した。
橋を渡りきり、振り返ったとき、影はもう消えていた。
家に戻ったあと、俊は急に体調を崩した。
「背中が冷たい……誰かいる……」
震えながら何度もそう呟く。俺は酒のせいかと思ったが、俊の背に触れたとき、ぞっとした。異様に冷たかったのだ。
その夜、夢を見た。
夢の中で、俺は阿弥陀橋の上にいた。
川面に映る自分の影が、勝手に動いていた。
そいつは笑いながら手招きをしていた。
「返して……返して……」
影は言った。
俺が目を覚ましたとき、額は汗でびっしょりだった。
次の日、俊は行方不明になった。
部屋の窓は開け放たれ、外に向かって泥だらけの足跡が続いていた。足跡は阿弥陀橋の方角に向かっていた。
俺は意を決して橋へ向かった。
昼間の阿弥陀橋はどこか普通の古びた橋だった。だが、橋の端には昨日と同じく雨水がしずくとなり、ぽつり、ぽつりと落ちていた。
欄干に手をかけると、無意識に下を覗き込んだ。
川面に映る自分の影……その隣に、俊の影があった。
俊が、笑っていた。いや、俊の形をした何かが、笑っていた。
「高志……お前も来いよ……」
耳元で声がした。
振り返ると誰もいなかった。
だが、影はそこにあった。俺の影の隣に、もう一つの影が。
それは俊の形をしていたが、足元が川面に溶け込むようにゆらりと揺らいでいた。
俊の声がまた耳元で囁いた。
「一緒に泣こうぜ……」
俺は必死に橋を駆け抜けた。
振り返らなかった。影に追われている気がしたが、足を止めたら終わりだと思った。
それからというもの、夜になると俺の影はおかしい。
壁に映る自分の影の隣に、もう一つ影があるのだ。
俊の形をした、泣きながら笑っている影。
どこへ行っても、消えない。
地元の年寄りが言っていた。
「阿弥陀橋の涙はな、橋に流れた死者の涙じゃ。触れた者は死者の影に取り憑かれる。影が二つになったらもう戻れん。そやつは影に引き込まれて、最後には……」
今夜もまた耳元で泣き声がする。
影が二つ、壁に映っている。
俺はもうすぐあの橋に帰らなければならない気がしている。
阿弥陀橋が泣く理由が、やっとわかったのだ。
死者の影が、帰る者を待ち続けて泣いているのだと。
今回の3ワード
「涙」
「橋」
「影」
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