あわいphytoncide
霙座
phyton cide
師走の深夜の脱衣所は寒い。ひとつだけぶら下がる白熱電球の下、一気に全部脱ぎ捨てた。半透明の樹脂パネルを開けば、もうもうと視界を遮る湯気がことさらに浴室の寒さを強調して、予想どおり石タイルの床から冷気が駆け上がった。かけ湯もそこそこに湯船に入る。
就職してから六年暮らす収入と家賃の折り合いで決めた住めば都の古い木造アパートは、冬が厳しいとはいえ、この浴室は気に入っている。洗い場も浴槽も、ひとり暮らしには贅沢すぎる広さだ。
四十度のお湯、眠ってしまえと言わんばかりに傾斜が付いた背面にもたれる。五分とたたないうちに熱くなり、足を浴槽のへりに投げだす。首の力を抜く。頭の重さは耳を潰して、水の音が自分の中に籠る。
意識は朦朧としている。霞んだ視線の先に、紅潮した太腿に接ぎ木したような不健康な白い脛と、足先の剥げかけたペディキュアのボルドーのグラデーション。
足の輪郭が揺れて、赤と紫が混ざりあう。そのうちだんだん色が消えていく。無彩色の濃淡だけが残る。
世界が、閉じる。
「みゆきさんっ」
ばたん、と浴室のドアがめいっぱい開いて冷気が押し寄せる。瞬間、目が覚める。
霧の中に突如現れた白金の髪の少年は、蜂蜜色の瞳を不安で潤ませていた。闇を貫くひとすじの光、神の世界から転がり落ちてきたのだろう、雲を割って真っ逆さまにこんな地上まで。アプリコットのような唇から紡ぎ出される鈴の音で、わたしの名前を呼ぶ。人を教え導くための清らかで純粋な声で、切実にわたしを呼ぶ。
少年は光の粉を纏いながら二歩で湯船に飛びこんできて、とっさに腕を広げる。流れ星を捕えるように飛んでくる少年を受け止める。ばしゃんと飛沫が広がった。
「どうしたの、わたしの天使」
強くしがみつく少年の濡れた頭を撫でて背中をさする。真新しいオーバーサイズの白色のロンTが肌に張り付いている。尋ねると、受けとめた乳房の間で少年は、お湯とも涙ともつかないずぶ濡れの顔を上げた。
「あんまり、遅いし、静かだから、しんじゃったのかとおもっ……」
しゃっくりを飲み込む。息を詰まらせて、唇をはむ。
愛おしい表情にぎゅう、と頭を抱きしめる。わたしにちょうど埋まる心地よい大きさをしている。柑橘の匂いがする。副交感神経が優位になる。なんて癒される重さ。
抱きしめてしばらくすると、平常心を取り戻した天使は、するりと離れてしまった。お湯の中、向かいあってお互い三角座りになる。このための広い浴槽だったのか。つまさきが触れる。
「シーナくん、落ち着いた?」
「ごめんなさい、焦りました。もう半月、こんなにみゆきさんに迷惑をかけたのに、失敗したと思ってしまって」
ちょっと長湯したかもしれない。もしかして湯船で寝てしまっていたのか。温かくなるとすぐ眠くなってしまう。
しゅんとしたシーナくんを見て、つい笑う。
「でも指定された場所はお風呂じゃないんでしょ」
「そうです。どうしてここだと思ってしまったのか。日がずれているのに、さらに場所までずれてしまったら、ぼくはもう冥府から首を切られます」
「それはシーナくんが悪いわけじゃないよ。システムのトラブルくらい、日常茶飯事」
まだ納得できずに眉をしかめるシーナくんをのぞき込む。仕事熱心で、まじめで融通が利かないところがある。
どうせずぶ濡れになったので洗ってあげようかと申し出たけれど、不要です、とざばっと立ち上がった。
シーナくんはお湯から上がると、舞のような動きで手のひらをくるりと回す。この一動作で、髪や服から滴り落ちていた水分は、たちどころに乾いてしまう。不思議なことに、何事もなかったように立っている。
照れではなくて、彼の場合、本当に不要なのだ。
「それから」
浴室を立ち去ったシーナくんのシルエットだけがすりガラスに映る。締め切っていないドアの細い隙間では、暖気と寒気が交換して、風呂場の温度は急降下していた。シーナくんは浴室のドアをきちんと閉めようとして苦戦する。古いドアに少年の勢いは負荷が高かったようだ。
何度も言いますけど、と隙間から丸い瞳が覗く。
「ぼくは天使じゃなくて、死神ですよ」
ドアはぎゅっと押されて閉じた。
シーナくんは、死神だ。
死神とは、冥界の王に仕えており、人の死に際に現れて魂を刈り取るのが仕事だ。
本人曰く、出来損ないの死神で、死の瞬間に当人の前に現れればいいだけなのに、そのタイミングがわからないのだという。
付き合っていた人から短い電話一本で別れ話をされた日の夜だった。
仕事終わり、アパートに入る直前の電話、真っ赤な夕日とカードキーとスマートフォン、自宅ドアの色が白く飛んで、電話を切ったとか、部屋に入ったとかも覚えていない。
目が覚めると暗闇だった。今宵は新月だ。レースカーテンの外から灯りは入ってこず、暗く冷たいリビングの床で体を起こした。手探りで鞄からスマートフォンを取り出してボタンを押す。時間は零時。最後にスピーカーから聞こえた声が脳裏に甦る。
ごめん、なかったことにしたい——
あの人は、妻が離婚すると騒いでいる、弁護士の介入通知が届いた、証拠写真も抑えられていて、もう聞く耳もないからと、自分の事情を並べて電話を切った。
ほんの数分のできごと。
電話の前日、わたしにも奥さんの代理人から催告書が届いていた。損害賠償請求、七日以内に慰謝料の支払いがない場合には訴訟をすると。終にばれたのだと心臓が早鐘を打った。けれど、わたしは、乗り越えられると思っていた。
こんな風に別れを切り出されるなんて。
手の中で光る画面を見る。零時一分。電話の言葉を反芻して、気がつく。
別れようとも言われなかった。
始まらなかったことにされた。ただの上司と部下。
最初からひとりだった。ひとりきり。彼に与えられて奪われたいのちを思う。本当なら、今、ひとりじゃなかったかもしれないのに。
なかったことって、なんなの。どこからなくなるの。
奥さんに愛してもらえないんだって、奥さんと別れるって、君と出会う運命だったって、全部きれいになったら結婚しよう、一緒に暮らそうって、君の中が安心するって。どこから。
——違うな。
零時二分、スマートフォンの画面が暗くなり、すべては百三十八億年前の闇の箱に戻る。
頭のどこかでは理解していた。歪で、秘密で、だから破綻するのも当然の関係だった。信じていたのに、と思う一方で、最初から泡みたいなものじゃないかと切り捨てるわたしがいる。だったら全部失くしてしまおう。捨てよう、彼の痕跡も、自分の痕跡も。眩暈がして、また床に伏した。
『あっ、待ってください』
パタパタと床を跳ねる音が床を小さく振動させる。慌てたソプラノはトリルを奏でるような軽快さで耳元に近付いてきた。
『あれ、違いました。まだ死なないんですね』
違ったのだ。四年間なかったことになった。時間は過ぎているのに。二十四歳だったわたしはもういなくて、二十八歳のわたししかいないのに。もう死ぬのか、男に捨てられたくらいで死ぬなんて、すいぶんやわな人生だった。
ごとんとスマートフォンが床に落ちた。
もう握る力もない開いたままの手を、ひんやりとした柔らかい手が包んだ。
ようやくわたしは、何かおかしいと気が付いた。
ひとり暮らしのわたしの部屋に、誰かいる。
ぞっとして顔を上げたのに、無垢な笑顔がわたしを見ていた。電気の点いていない部屋でどういうわけかはっきりと顔が見える。
どん底の暗闇で少年がぼんやりと白い光を帯びている。まろやかな丸みを帯びた頬、左右対称で整然と丁寧に配置された目は飴細工のように甘く艶めいていて、中央につんとした鼻、薄い唇の両端がきゅっと上がっている。自制心を奪う蕩けて潤んだ笑顔の一方、禁欲的な黒の詰襟のコントラストが地上に存在し得ない美しさを描きだしている。ファンサみたいなこの手はなんだ。
ああそうだ。妙に納得した。お迎えが来たんだ、天使だ、とぽつりと零した。
首を横に振って彼は——はじめまして、死神です、と言った。
量産型のリビングの蛍光灯の下でも、シーナくんは輝いて見えた。バスタオルで髪をかき混ぜながら脱衣所から出てきたわたしに、シーナくんが冷蔵庫の前で赤と白、二本のワインボトルを掲げる。
ガヴィにしよう。赤はたくさん飲んじゃうと何もしたくなくなるから。
炊飯器を捨ててしまった台所の冷蔵庫の中もほぼ空で、帰宅時にコンビニで買ったおにぎりかシュークリームのどちらかを夕飯に選ばなくてはならない。シンクの前でふたつを並べる。悩むわたしの横顔を見上げてシーナくんがグラスを磨く。帆立の缶詰があったな、と第三の選択肢。動くと薄いスウェットに濡れた髪の雫が落ちた。
グラスに注がれた薄いグリーンを帯びた液体と、蓋が取り除かれた四角の缶詰をテーブルに運んでソファで休憩した。テーブルとソファ、テレビのほかには、大きな家具はない。テレビの横にあった大きめのモンステラの鉢も、今日玄関に運び出した。
シーナくんはわたしに付いてきて、テーブルの横でちょこんと正座する。緩やかにカーブを描く長い睫毛、端正な面立ちに知らずため息が出た。その顔に、膝の上で神妙に指を組んで、「十一月二十日、午前零時二分、二十八歳、自宅リビングで死亡が決定事項だった」と告げたあの日の表情を重ねる。
過ぎてしまった予定時刻。どうしてもわたしの魂を刈り取りたい死神は、ここに住むと言い出した。
おかしなことだけれど、なんとなく、彼の言っていることは真実だと理解できた。だからいいよ、と返事をした。
本来なら名前を告げることもしないルールだそうだが、同居に不便なので名前を知りたいとねだると「シーナと呼んでほしい」と答えた。それから、繰り返し、繰り返し、わたしを「みゆきさん」と呼んで、微笑む。
朝起きて隣にシーナくんが眠っていて、食事のテーブルにシーナくんがいて、出かけるときにはいってらっしゃい、帰ってきたらおかえりなさい、買い物に並んで歩いて、シーナくんのサイズの服を選ぶ。
おままごとのような数日が続いて、この部屋を片付けようと決めた。部屋にはあの人が使っていた食器も歯ブラシも、置いていったシャツや靴まであった。大人びたタイトな洋服も、着心地が悪い下着も、金属アレルギーを我慢したネックレスも、全部捨てたらクローゼットがすかすかになった。気がすいた。
残ったのは二本のワインボトルだった。
電話の翌日から上司は病休の申告で二週間、顔も見ていない。上司の欠勤理由は、瞬く間に拡散した。わたしに向けられる視線も冷ややかだった。ただ顧客には迷惑はかけられない。引継ぎは事務的に、迅速に行う。顧客台帳に付箋を付けながら、大変なことになったね、と同僚が呟いた。大変、かもしれない。だけど終わったことだし、わたしももうすぐ終わる。
テレビは真っ黒だ。グリーンを撤去して愛想もなくなった白い壁を見ながらグラスを傾ける。
「冥界って、どんなとこなの」
モノトーンの世界を想像した。シーナくんは二三度まばたきをして、ふんわり笑った。
「花畑です」
「花?」
思わず聞き返した。詩篇のような回答だった。
「冥界は、この世界と重なっている。死は、肉体に落ちた種が芽吹くとき。冥王は芽を育て、花を咲かせ、花がまた種を落とす時を待つ」
「シーナくんの仕事は、魂を刈りとるんでしょ」
「こちらの世界と切り離すだけですよ。魂は世界を巡るから」
ふうん、と息を漏らした。わたしを待っているのは、終わりではないのかもしれなかった。
シーナくんは、人間の世界の死神や冥界のイメージとずれていることはわかっているようだった。わたしが理解しにくいことを気にして、あまり人間に説明することもないし、と付け加えた。
「わたしみたいに、死神に出会う人間って、たまにいるの?」
「みゆきさんみたいに……世界の境界が曖昧になる死に際には、見えるでしょうけど」
普通に生きているひとには、死神は見えないし、こんなふうに一緒に生活をすることはないということか。納得して頷いたが、シーナくんはしょんぼりした。
「ぼくが出来損ないだから。周りは大鎌を担いでいるのに、いつまで経っても小さな鎌しか持てないし」
大きな鎌は大きな魂の根を刈る。世界の記憶が多ければ、根は硬い。名前がたくさん知られているひとはこの世との繋がりが太くなっていて、そういうひとは大鎌じゃないと切れなくて、うまく切れないと、魂がばらばらになる。
冥界で芽吹くためには、綺麗に刈らないといけない。
シーナくんは、大鎌を持てるのは優秀な死神だけだとうなだれた。
「心配しないで。世の中小さいひとばっかりだよ」
「ぼくにも仕事ができますか」
「もちろん。わたしはシーナくんじゃないと、いや」
心からそう思う。
早くシーナくんに仕事をさせてあげたいけれど、このままシーナくんと一緒にいるだけの日々が続くことを望んでいる気もしている。少し、心苦しい。
アパートの郵便受けに入り損ねていたのは、長三の茶封筒だった。
退職日は金曜の夜、深夜帰宅になってしまった。住宅街は眠りについてひっそりと、ときどき遠くで鳴る自転車のブレーキ音がやたらと耳に付いた。疲労感で朦朧として拾い上げた封筒を眺める。
誰もいない二階の外廊下にひとり。天井照明は薄暗い。
差出人は裁判所で、普通郵便。投函口が封じられているから、配達人が置いていったのか。ふうん、と声が漏れた。中身の察しが付いた。
すり、と指を動かすと、重なっていたもうひとつの封筒に気が付いた。白色の横型封筒の表には、見知らぬ硬い字でわたしの名前が書いてある。
切手は無し。裏を返すのを、躊躇う。
指に二通の封筒を挟んだまま、長く息を吐いて頭を振った。鍵を差し込む。モンステラが幅を取って狭い玄関で、脱いだパンプスを揃えもせず廊下に上がった。
スイッチに手を伸ばす先に、照明が点いた。
「おかえりなさい、みゆきさん」
愛らしく微笑んで、シーナくんが目の前に立っている。体の前で指を組んだ腕を伸ばし、ちょこんと肩をすくめて首を傾げる。
昼から化粧も直していない。皺にファンデーションが入りこんで隈も濃いわたしの顔を、シーナくんが一瞬で笑顔に変えた。
台所のカウンターに封筒を置いたつもりが、ぞんざいに投げたせいで端にあたり床に落ちた。やれやれ、と腰を折って拾う。視線の先は扉の開いた寝室の床で、物のないリビングとは対照的に、先週から広げたままの書類が乱雑に置いてあった。呼出状、訴状と証拠書類の束、それよりも日付が古い催告書が一番上になっている。催告書の送金先だけ撮って、そのままにしていたのだった。
「手紙ですか」
シーナくんが差し出した手に二通の封筒を渡した。シーナくんはくる、くる、と表と差出人を何度も見る。
開けてみて、と裁判所から届いた茶封筒を指す。シーナくんは茶封筒の端を上手に千切り、中から紙を出して広げた。封筒には訴訟の取下書が入っていた。
慰謝料請求は取り下げる——事務的だ。
先週裁判所から特別送達が届いた。四ページの訴状をひととおり読んで、ちょっと対応が遅くなったことを反省して、テレビの下の棚から、ひと月前に弁護士の事務所から届いたまま放置していた郵便物をようやく開いた。催告書に書いてあった代理人の口座に三百万円の送金をした。これで裁判は終わりになった。
支払能力があったから支払いができたのかもしれないけれど、シーナくんに会う前だったら上司の妻というひとへ払う意思はなかっただろう。こちらも弁護士に相談して、悪いのはあなたです、と言っただろう。
振り込み票を握り潰しながら、清々した、と笑えた。
と思っていたのだけれど。
もう一通の白い封筒は、代理人ではなく上司の妻本人からだった。領収証の可能性もあるだろうか。シーナくんに、白い封筒を開けてと頼んだ。
『まさか請求額全額を振込されるとは思っていませんでした。
お話したいことがあります。お電話いただけないでしょうか。
電話番号 ×××-××××-××××
橘 奈々子』
神聖の象徴である光臨が頭部に描かれた二人の使徒は、それぞれ天国の門の鍵と聖書を手に穏やかな微笑みを湛えて立っている。優しい視線の先にはわたしがいる。元は由緒ある教会の聖堂に掲げられていた大きなイコンを見上げる。
乳白色の背景の上部には、天から聖使徒二人と、こうしてイコンに祈りを捧げる人々を祝福するようなキリストの姿がある。静かな美術館に館長が東欧のチェコなどを訪れた際に収集したコレクションが展示されていた。厳しい弾圧で消滅や散逸の危機にあった聖堂のイコンが遠く離れた場所で守られて、訪れる人に安らぎを与えている。
わたしが生きる世界のすぐそばに、神聖な世界が存在する。
人がいない夕方の館内の床は淡い橙色に染まっていた。中央ホールでイコンを見上げるわたしに近付いてくる足音がした。高い天井に石の床を蹴るヒールの音が響く。振り返らずに言う。
「こういうのって、ルール違反じゃないんですか。橘さん」
「あなたが示談書も交わさずに振り込みしたんじゃない」
わたしの隣に黒のヒールを揃えて立った橘さんはショートカットの背の高い女性だった。グレーのファージャケットにタイトなロングスカートを隙なく纏って、怜悧さが滲み出ていた。
「いい美術館でしょう。落ち着くから、好きなの」
手紙の電話番号にかけると、橘さんは面会の時間と場所を告げた。おおよそ話し合いには向かない閉館間際の美術館で、と。会うことを断ることもできたけれど、指定された場所にこうして来ている。
「どうして支払ったの。仕事もやめたんでしょ。どうやって生活していく気」
慰謝料を支払えと請求する訴状には支払先の口座は書かれていなかったから、先に届いた催告書の代理人口座に支払いしただけだった。この先の生活をどうやってと聞かれても、そんな先の人生を考えていない。不要だからだ。
だが、そのまま答えるわけにはいかなかった。
「……まあ、なんとでも」
橘さんは厚い銀行の封筒を鞄から出した。数日前に支払いした三百万円だった。
「ばかな子ね。受け取りなさい」
「どう、いう」
お金はいらない、謝ってほしい、とかだろうか。動揺したわたしを見て橘さんは、ふっと目尻を緩めた。
「子供がいるのね。あの人は下ろさせたなんて言ったけど。私にはいないから」
子供は、いない。あの人が望まなかったから。だけど。
橘さんはどうして——シーナくんの姿を見たのだろう。
橘さんは封筒を私の腕に押し付けた。返される予定なんてなかったわたしは受け取ることができずに、封筒は冷たい床に落ちた。ぱしんと乾いた音が壁を伝う。
しゃがんだわたしの身体の上を影が通りすぎた。顔を上げる。
「これから、どうするんですか」
「故郷に帰るの。向こうで起業するつもり」
出口に向かって橘さんの後ろ姿が遠ざかっていく。足取りは軽やかだ。コツ、コツ、コツと、リズムを刻むよう。
イコンの二人の聖使徒の間にシーナくんの姿が現れた。聖使徒よりも静謐に、ゆっくり面を上げる。
イコンは家庭にも置かれる。信者はイコンに触れ、口づけをして祈りを捧げる。シーナくんの腕にそっと触れる。
「きみの姿は見えないんじゃなかったの」
「……普通の人には、見えませんよ」
「そう」
不誠実な旦那に、ようやく気持ちを整理して新しい一歩を踏み出そうとした橘さんは、眩い西日の中に消えようとしている。
「侭ならないものね」
ぼんやり歩いて家に着いた。また新月が巡ってきていた。月もない。星もない。夜空には寂しさと虚しさが広がっていた。
「深雪」
急襲は静寂を裂いた。肩を掴まれた大きな手を振りほどいて家の中に飛び込む。アパート二階の外階段に大声が響く。乱暴にドアを叩く音。深雪、と何度も呼ばれる。鉢につまづく。倒れたモンステラの土に尻もちをつく。
奈々子が家を売ったんだ、深雪。不動産屋が来て。まだ財産分与の話もしていないのに。
もうお前しかいないんだ。深雪。悪かった。
深雪。
土がついた手のひらで耳を塞ぐ。
大好きだった、名前を呼ぶ声が、今は怖い。足元が沼に囚われて、もう前にも後ろにも進むことができない。
シーナくんはしゃがむわたしを刃から守るように、頭をぎゅっと抱いた。
「みゆきさん」
シーナくんの声が泥の中からわたしを導く。
汚れた顔を上げる。優しい蜂蜜色の瞳が恐怖を溶かす。背中を撫でられて、息を整える。暗闇で、シーナくんの姿だけがぼんやりと光る。
シーナくんがわたしに望む瞬間が早く訪れればいいのに。
「シーナくん、早く」
早く。
視線が静かに衝突して、シーナくんがけがを負ったように表情を曇らせた。
「ごめんなさい、ぼくが」
ああ、違う。
身を縮こまらせた悲愴なシーナくんの表情が痛くて、目を閉じた。力を抜く。再び、泥の中へ沈む。
「……おふろ、はいる」
玄関の向こうはずっと、どん、どんと大きな音が鳴っているけれど、わたしの耳には届かなくなっていた。
真っ暗闇だ。廊下には何も置いていない。遮るものはない。自分の家なのにどこへ向かえばいいのか迷い、すり足になる。もう何もしなくていい、思い出して手を伸ばす。台所のカウンターに置いた赤ワインのボトルを取る。
すりガラスのドアを開ける。
空っぽの湯船に入る。
暗い。
キュ、キュ、と蛇口を捻ると水がどうどう流れ出した。服が水を含んで重量を増す。腰ほど浸かると動くのも億劫になる。
でも乾杯しないと。
自分の右腕が重くて、ワインボトルを渾身の力で浴槽の縁に叩きつけた。
渋みのある赤色が砕け散った。
全身で赤を飲む。
「みゆきさん、ごめんなさい。ぼくが、だめな死神だから」
頭の中に直接響いたシーナくんの声は、くすんだ赤色の廃液に浸かるわたしを全部包み込んだ。
シーナくん、ごめんなさい。自分勝手なことを言った。あなたを傷つけたいわけじゃなかったの。
シーナくんはふるふると首を振った。
「ぼくのせいだった」
天が眩しい。シーナくんの白金の髪がきらきら光る。
いつの間にか仰向けで寝ていたわたしにシーナくんが覆いかぶさる。シーナくんの涙が頬に落ちた。彼は泣き顔も美しい。黒の詰襟は大人びて見える。わたしの好みで買う服に着替えてくれていたから、詰襟姿はひと月ぶりに見た。
美しい死神。
「みゆきさんに愛される時間が欲しかった」
十一月二十日午前零時二分、リビングの床でシーナくんを見上げたあのときから、わたしはシーナくんの世界にいた。
あの人に蔑ろにされたあとに、シーナくんの優しさは胸にしみた。シーナくんで満たされるこのひと月のためにわたしは生きてきた。
願わくは、このまま。
身体から芽吹いて、花が咲いて、また、魂の種が宿る。そうやって一巡する世界から、わたしは、シーナくんにしがみつく。
シーナくんはぎゅっと抱き締めて微笑んで、それからそっと身体を離して、わたしの指先を取って口づけた。
「ぼくはいつまでもこの小さな鎌しかなくて。でも、痛くないように切るから」
だからずっと、そばにいて。
最後の呟きは、どちらのものだっただろう。
小さな丸い鉢の上で、透明な藍白の芽が土の中から体を起こす。
シーナくんは口の細い水差しをとろとろと傾ける。注がれるたび内側に熱が籠る。芽はまっすぐ伸びてシーナくんのためだけに咲くだろう。白地に赤い斑をもつ小さな花だ。
祈りを捧げるようにシーナくんは恭しく鉢を持ち上げた。
腕に抱えて歩み寄った窓の外には冥界の花畑が広がる。蕾は色とりどり。果てはない。大輪の花を開かせては虹色の光の粉となり、煌々として白い空に、消えていく。
(終)
あわいphytoncide 霙座 @mizoreza
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