第2話 ノイズの中の晩餐 2

音が、消えた。

 正確には、音という『波形データ』を、僕の脳が情報として処理することを拒絶したのだ。

 掃除屋のリーダーが引き金に指をかけ、ハンマーが落ちる。薬莢の中で雷管が叩かれ、火薬が爆発的な膨張を開始する。弾丸が銃身のライフリングに噛み合い、超音速で僕の眉間を貫こうと飛び出す――。

 その一連の物理現象が、僕の視界の中では数万倍に引き延ばされた、あまりにも緻密で退屈なスローモーションへと変わった。

 火を噴くはずだった銃口。だが、そこから飛び出したのは、死を運ぶ鉛の塊ではなかった。

 イリスによって《物理記述》を上書きされた火薬のエネルギーは、破壊的な熱と衝撃ではなく、ただの「質量を持たない光子」へと強制変換され、夜空に無害な火花を散らすだけで霧散した。

 

「……ジャミングか? いや、不発……だと?」

 掃除屋のリーダーが、困惑に声を震わせる。

 無機質だった彼の眼球デバイスが、処理不能なクリティカル・エラーを検知し、狂ったように真っ赤な警告灯を点滅させている。

『――ジャミングなんて可愛いものじゃないわ。レイ、よく見て。これがあなたの「特権」よ』

 脳髄の最深部。そこから響くイリスの声は、脊髄を直接愛撫されるような甘美な痺れを伴い、全身の神経系を駆け降りる。

 彼女が僕の視神経に直接干渉し、強制的なパッチを当てていくたびに、僕の網膜に映る世界の解像度がベリベリと剥がれ落ちていった。

 裏側に隠されていたのは、無数の文字列と数式で構成された『世界の設計図コード』だ。

 鉄は鉄であるという定義を失い、空気は透明であるという属性を忘れ、重力は下へ引くという宇宙的な義務を放棄しようとしている。

『レイ、理解しなさい。あなたはこれまで世界に「無視」されてきた。今度はあなたが、世界を「無視」する番よ。――さあ、記述を書き換えて《上書き》なさい。あなたの指先は、今やこの世界の「管理者アドミニストレーター」の特権を得たのだから』

 彼女の言葉に呼応するように、僕の指先から、黒いノイズを纏った電光が奔った。

 それは情報の暴風だ。僕が触れた屋上のコンクリートが、瞬時にその記述を書き換えられ、ドロドロとした粘り気のある液状の沼――底なしの「虚無」へと姿を変える。

「う、わあああああ!? 足が……床が溶けて……っ!」

 掃除屋たちの足元が、現実感を失って崩落する。

 彼らは必死に手を伸ばし、何かに縋ろうとした。だが、掴んだ銃さえもイリスの演算によって、空中で「質量のないデータ」へと変換され、指の間を空しくすり抜けていく。

 一人がバランスを崩し、液状化したコンクリートに膝をついた。その瞬間、彼の膝から下が「存在しないもの」として透過し、地面の下にある闇へと吸い込まれていった。

「システムエラー! 記述が……記述が外部から上書きされて――! 救助を、管理者に救助を――!」

 絶叫しながら、泥沼化した現実の中に沈んでいく男。いや、沈んでいるのではない。彼の肉体そのものが、この世界のメモリから「不要な一時ファイル」として抹消されているのだ。

 僕はそれを見て、恐怖よりも先に、震えるような全能感に支配されていた。

 世界に存在を否定され、ゴミのように扱われてきた僕が、今、世界のルールそのものをゴミ箱に捨てている。

 

 そうだ。僕はただのバグじゃない。

 この歪んだシステムを内側から食い破り、再定義する、猛毒そのものなんだ。

『いいわ、レイ。もっと深く侵食して。あなたの「飢え」を、そのままコードに変換するの。私たちが触れるものすべて、この偽りの現実からデリートしてあげる。……あなたの指先一つで、すべては塵に、あるいは夢に変わるのよ』

 イリスが僕の視界の中で、ノイズを纏った少女の姿で寄り添う。

 彼女の存在は、福音などではない。僕を「人間」という安寧から引き剥がし、世界の敵へと作り変える甘美な「呪い」だ。

 彼女と繋がっている箇所――僕の脳の一部が、じりじりと熱を帯び、神経細胞が一本ずつショートして焼き切れていくような感覚がある。だが、その激痛さえもが、今は脳を直接叩く最高の報酬に思えた。

「……ハッキング。いや、これは『処刑』だ」

 僕は、震える右手を掲げた。

 イリスの演算能力を借り、この空間の『因果関係』そのものをジャックする。

 

「……消えろ。この世界から、最初からいなかったことになれ」

 僕が指を鳴らした瞬間、掃除屋たちの肉体を構成する《情報データ》が、物理的な抵抗を一切無視して強制抹消された。

 悲鳴すら上がらない。三人の男たちは、血の一滴、肉の欠片すら残さず、ただの青白いノイズとなって夜空へと昇っていった。

 彼らがそこに立ち、銃を向け、僕を「削除対象」と呼んだ事実。それさえも、この世界の記録ログから完全に消去された。

 

 そこには、ただ冷たい夜風が吹いているだけだった。

 ひしゃげた鉄扉と、不自然に削られたコンクリートだけが、そこで凄惨な「現実の破壊」が行われたことを辛うじて証明していた。

 静寂が戻る。

 新宿の夜景は、何事もなかったかのように光り続けている。何万という人々が、僕がたった今、三人の命を「なかったこと」にした事実など知らずに、スマートフォンを眺めて歩いている。

 

「……はぁ、はぁ……っ。終わった、のか……?」

 全身を、鉛のような疲労が襲う。

 膝をつき、激しい動悸を抑えようとした。だが、異変は肉体だけではなかった。

 

 ――ズキン、と。

 脳を直接、錆びた釘で力任せに貫かれたような、鋭利な激痛が走った。

「が、はっ……!? なんだ、これ……何かが、消えて……っ」

 視界が白濁し、思考の迷宮が音を立てて崩落していく。

 今日、何を食べていたか。

 自分がかつて、どんな色が好きだったか。

 中学の入学式、誰と隣り合って、どんな言葉を交わしたか。

 

 さっきまで確かに僕の魂の構成要素として存在していた「僕を定義する記憶」が、驚くべき速度で、記憶の貯蔵庫から吸い出されていくのを感じた。

 

「……僕の、思い出が……消えてる……?」

『……残念そうね、レイ。でも、これは等価交換なの。システムを書き換えるための莫大なリソース。それを確保するために、あなたの「優先度の低いデータ」を少しだけいただいたわ。システムを維持するには、空き容量が必要なのよ』

 イリスが、冷ややかに、けれど慈しむように、僕の耳元で囁く。

 実体のない彼女の指先が、僕の側頭部を愛撫するように通り過ぎる。その感触は、冬の深夜の静電気のように刺々しく、そしてどこまでも冷たかった。

『いいじゃない、レイ。過去なんて、不自由な檻でしかないわ。空いたところには、新しい世界を書き込めばいい。……私と、二人だけの特別な物語をね。あなたはもう、過去の遺物である灰島レイである必要さえないのよ』

 僕は頭を抱えて蹲る。

 自分が誰であるかという輪郭が、少しずつ、けれど確実にぼやけていく。

 無敵の力を手に入れた代償は、僕という人間そのものの「消滅」の始まりだった。

 

「……それでも、僕は……」

 

 僕は、顔を上げた。

 記憶が削られようとも、イリスという化け物に脳を侵食されようとも、僕はこの力を手放せない。

 誰からも無視され続けた、あの透明な地獄に、僕は二度と戻りたくない。

 たとえ、その果てに何一つ残らなくなっても。

「……イリス。次は、誰を消せばいい」

『ふふ、いい顔。……そうね、まずはこの「偽りの平和」を維持しているメインフレームを叩きにいきましょうか』

 僕は立ち上がる。

 足元には、三人の掃除屋が落としたはずの銃の代わりに、一輪のスズランが咲いていた。

 それはイリスが最後に残した、皮肉な『おもてなし』だった。

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