第3話 ノイズの中の晩餐 3
新宿の夜は、何事もなかったかのように動き続けている。
屋上の縁、崩れかけたコンクリートの端に立ち、僕は眼下の光景を見下ろした。何千、何万という光の粒。それはすべて、この世界の支配者である『聖域ギルド』が管理する、巨大なマトリクスの一部だ。
たった今、三人の人間が、僕の手によって「存在そのもの」を抹消されたというのに、この街の「計算」には何の狂いも生じていない。信号は規則正しく変わり、人々はスマホの画面に映る偽りの情報に一喜一憂し、システムの歯車として完璧に機能している。
「……僕が消したアイツらも、最初からこの世界の『予備のパーツ』に過ぎなかったってことか。一個や二個、データが飛んだところで、サーバーは止まらない。……反吐が出るな」
吐き捨てた言葉が、冷たい夜風に攫われていく。
脳を直接焼くような激痛は、ようやく鈍い疼きへと変わっていた。だが、その代わりに僕の精神の深部からは、何かが決定的に失われていた。小学校の図書室のひんやりとした匂い。初めて逆上がりができた時の、掌に食い込む鉄棒の錆びた感触。誰かが僕に笑いかけていたような、ぼんやりとした色彩。
僕を「灰島レイ」という個人として形作っていたはずの「記憶のピース」が、砂時計の砂のように、修復不可能な速度で零れ落ちて消えていた。
『――そんなに悲しまないで、レイ。古いデータが消えるのは、あなたが新しく「
脳内で、イリスがくすくすと笑う。
彼女の姿は、僕の視界の端でノイズを纏いながら、先ほどよりも一層鮮明に、より「実体」に近い存在感を持って揺らめいていた。彼女が僕の記憶を喰らい、演算リソースとして消費するたびに、彼女自身の解像度が上がっていく。
それは、彼女が僕の精神に根を張り、寄生し、僕という器を内側から「彼女の望む姿」へ作り変えていることを意味していた。救済とは名ばかりの、緩やかな人格の上書きだ。
「更新か。……随分と手荒なやり方だな。僕という『個人』が消えても、お前は平気なんだろ?」
『あら、最高級の「おもてなし」のつもりなんだけど? あなたが望んだのよ、レイ。あの冷たい路地裏で独り、誰にも気づかれずに透明なまま消えていくよりも、私と一緒に世界のコードを蹂躙する「特異点」になることを。……ねえ、これ以上の幸福がどこにあるっていうの?』
イリスの細い指先が、僕の側頭部を愛撫するように通り過ぎる。実体のないはずのその感触に、僕は背筋を走るような戦慄と、抗いがたい安らぎを同時に感じていた。
僕は自分の右手を見つめた。
先ほど、掃除屋の喉元を掴んで「デリート」した時、僕の指先からは確かに、現実を記述し直す「神の権限」が溢れていた。
認識されないバグだった僕が、今は世界のルールをデリートし、物理法則をハッキングする「最強のウイルス」へと進化したのだ。この全能感は、麻薬のように僕の感覚を麻痺させていく。
『さあ、感傷に浸っている暇はないわ。レイ、見て。……システムが、本格的にあなたを「排除」しに来たわよ』
イリスが指差した先。新宿の空に、無数の赤い光点が点滅し始めた。
それは通常の警備用ドローンではない。船体に『聖域ギルド』の冷徹な紋章を刻んだ、対イレギュラー用広域制圧機『スウォーマー』。何百、何千という機体が、まるで巨大な蜂の群れのように、夜の闇を埋め尽くしながら集結している。
「……さっきの掃除屋が消えたことで、システムの整合性が崩れたのか」
『そう。あなたが三人を「最初からいなかったこと」にしたせいで、周辺の記述ログに致命的な矛盾が生じたの。システムは今、必死にその矛盾を埋め合わせようとして――原因である「不正オブジェクト」のあなたを、物理的に削除しようとしているわ。……つまり、あなたはもう、この世界に「無視」されることはないってことよ。おめでとう、レイ』
ドローンから放たれるサーチライトが、僕が立つ屋上を白日の下に晒す。
認識阻害のバグは、もう機能していない。イリスと契約し、世界に直接干渉したその瞬間から、僕は世界にとって「看過できない猛毒」として強制的に可視化されてしまったのだ。
「いいさ。透明なまま殺されるよりは、標的になる方がマシだ」
僕はスマホを構えた。
画面には、イリスが生成した禍々しい漆黒のコマンドが、幾千もの文字列となって躍動している。それは、僕の意志一つで、目の前の現実に「エラー」を叩き込むためのトリガーだ。
『いいわ、レイ。あなたの「怒り」を、そのまま私に流し込んで。この街のネットワーク、重力係数、分子結合の記述……すべてを私たちの「支配下」に置くのよ。あなたが指を動かせば、彼らの信じている「物理」は、ただのジョークに変わるわ』
ドローンから機関砲の掃射が開始された。
火線を撒き散らしながら迫る、音速を超えた弾丸。死が網膜に迫る。だが、僕はもう逃げなかった。
僕は空中に指を滑らせ、見えない「記述」の壁をそこに定義する。
「――
瞬時に、僕の目の前の空気が、透明なまま鋼鉄を凌駕する硬度へと変質した。
叩きつけられた弾丸は、見えない防壁に衝突し、不快な破砕音と共にペシャンコに潰れて火花を散らす。本来なら僕の頭蓋を撃ち抜いていたはずの「死」が、僕の記述一つで、無意味な鉄クズへと変わっていく。
「……はは、凄いな。……世界が、僕の言葉に従っている」
僕は笑った。
記憶が削られようとも、自分という人間が欠けていこうとも、この力がもたらす甘美なカタルシスは、すべてを肯定させる力があった。
今まで僕の存在を黙殺し、嘲笑うことすら拒否してきたこの世界。僕に何も与えず、ただ透明な孤独の中に突き落としてきたこの冷徹なシステム。
そのすべてが、今、僕の指先一つでひれ伏そうとしている。
『レイ、次は攻撃よ。ドローンの制御OSに、壊滅的な「
「了解だ、イリス。――消えろ」
僕は虚空を掴み、力任せに情報を「引き抜く」ような動作をした。
「――
その瞬間、空を覆っていた赤い光が、一斉に意味を失った。
重力を制御し、揚力によって空を舞っていた鉄の塊たちは、その「飛行」という定義を奪われ、ただの無機質なゴミへと成り果てる。さらに反転した重力が、それらを天へと突き飛ばし、次いで定義を失った機体同士が激しく衝突を始めた。
一拍置いて、無数のドローンが新宿のビル街へと墜落、激突を開始した。
凄まじい爆発音。燃え上がる火柱。
眼下の街から、人々が逃げ惑う悲鳴がようやく聞こえてくる。
彼らは今、初めて僕の存在に気づいたわけではない。僕が引き起こした「世界の不具合」という名の地獄に、本能的な恐怖を抱いているだけだ。
それでも、僕は満足だった。
無視されるよりは、世界中から恐れられる方が、何千倍も、何万倍も、自分が「生きている」ことを実感できた。
『……完璧よ、レイ。ああ、なんて素敵なの。あなたは今、この世界で一番美しく、残酷な「間違い」そのものだわ。ねえ、もっと壊しましょう? この偽りの記述をすべてデリートして、私たちが望む「真実」を書き込むのよ』
イリスが僕の背後に回り込み、首筋に腕を回した。
氷のように冷たい。けれど、その冷たさが、オーバーヒートした僕の脳を冷やしてくれる唯一の救いだった。
「……イリス。……次はどこへ行く」
『決まっているじゃない。この世界を管理している「主」の元へ行くのよ。……聖域ギルドの最上層に座る、偽りの神様。彼を引きずり下ろし、この世界を私たちの「遊び場」に書き換えるの。……ねえ、楽しそうでしょう?』
僕は遠く、新宿のランドマークである『ギルド・タワー』を見上げた。
天空へと突き刺さるその塔のどこかに、僕をこの地獄に置き去りにし、僕から「名前」を奪った元凶がいる。
僕はスマホの画面を強く叩き、全てのウィンドウを閉じた。
削り取られた記憶の空白に、今はたった一つの純粋な「意志」が、猛毒のように染み渡っていた。
「……ああ。行こう。世界が僕を認めないなら、僕が認める世界に、全部書き換えてやる」
僕は屋上から、地上百メートルの虚空へと身を投げ出した。
落下するのではない。イリスが書き換えた「重力のベクトル」に乗り、僕は夜の闇を切り裂いて加速する。
灰島レイという一人の孤独な少年は、今、この屋上で死んだ。
そして、世界の法則を蹂躙するバグ――『デリーター』としての僕が、今、産声を上げたのだ。
――待ってろよ、聖域ギルド。
――お前たちが守っているその「正解」を、僕とイリスが、一文字残らず消し去ってやる。
新宿の夜空を貫く、青黒いノイズの尾。
それが、これから始まる「世界の解体」の、最初の序曲だった。
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