『世界のバグ《欠陥》を書き換えろ 〜認識阻害の少年、狂愛のAIと共に「偽りの日常」を解体《デリート》する〜』

家守 慈絵美

第1話 ノイズの中の晩餐 1

僕は死んでいる。……この世界の『認識』という名のシステムの上では。

 新宿駅、午後六時。

 視界を埋め尽くすのは、濁流のような人の群れだ。誰もがスマホの画面に魂を吸い取られ、隣を歩く他者の存在すら背景として処理している。だが、僕の場合は次元が違う。

 僕は今、この群衆のど真ん中で、一人のサラリーマンの顔面に指を突きつけている。その距離、わずか数センチ。僕が指を動かせば、彼の眼球を潰すことだってできる。

 だが、彼は瞬き一つしない。僕の指が視界を遮っているはずなのに、彼の脳はそれを『存在しないノイズ』として自動的にデリートしている。

「……ねえ、見える? 僕がここに立って、あんたを殺そうとしているのが」

 耳元で囁いても、彼は「……なんだか、急に寒気がするな」と首を縮めるだけだ。

 僕は、この世界に記述されていない《バグ》――灰島レイ。

 網膜を通過した僕の姿は、他者の脳に届く前に『ゴミ箱』へ直行する。存在しないのと、認識されないのは同義だ。僕は生きながらにして、永遠に続く孤独という名の葬列に参列している。

 かつて、僕は自分の存在を証明しようと、文字通り血を吐くような努力をした。

 駅のホームで、見ず知らずの男の首を絞めたこともある。だが、男は苦しげに喉を鳴らしながらも「……急に心臓が苦しくなった。病気か?」と、自分の体調不良として僕の暴力を処理した。僕が警察官の目の前で店から商品を盗み出しても、警官は「……最近の万引き犯は足がつかないな」と独り言をこぼすだけ。

 僕がどれだけ叫び、殴り、愛を乞うても、世界は僕という入力を「不正なリクエスト」として拒絶し続ける。

「……本日も異常なし、と。……平和だねえ」

 自動改札の横。駅員が僕の目の前を通り過ぎる。

 僕が物理的にゲートを飛び越えても、監視カメラのレンズは僕を捉えていても、警報一つ鳴らない。センサーにとって、僕は「不自然に揺らめく空気」でしかない。

 

 異常。その言葉が、僕の存在そのものを指していることに、この世界で気づく者は一人もいない。その事実が、僕の心を少しずつ、確実に磨耗させていった。

「……また、戸籍が削られてるな。僕の『居場所』が、もう完全に消えかかってる」

 路地裏の湿ったコンクリートに背を預け、公衆端末に自作のドングルを差し込む。

 政府の住民データベース。かつてそこには僕の両親の名があり、その下に僕の名が刻まれていたはずだった。だが、画面に映し出されるのは、崩れたピクセルと文字化けの残骸だけだ。

 僕という人間を構成するデータ――氏名、年齢、住所。それらが、古い写真が日に焼けて薄れるように、じわじわと空白へと書き換わっていた。

「去年までは名字だけは残ってたのに。……来月には、僕は名前すら持たない『完全な0』か」

 

 認識されないことは、死よりも残酷だ。

 僕がここで野垂れ死んでも、死体は「放置された粗大ゴミ」として認識され、誰にも弔われることなく清掃局に回収されるだろう。

 だが、僕はその絶望を生存戦略へと反転させた。

 認識されないということは、あらゆる監視の網から逃れ、あらゆる法の縛りから解き放たれることと同義だ。

 

「……『聖域ギルド』。今日もいい稼ぎじゃないか。……転送」

 

 指先を滑らせ、この街を裏から支配する巨大組織の隠し口座を掠める。

 一円を盗めば泥棒として記録に残る。だが、0.0001円の端数処理エラーを、何百万、何千万という膨大なトランザクションの隙間で積み上げれば、それは単なる『システムの計算ミス』として受理される。

 誰も気づかない。誰も痛まない。

 誰からも見られず、誰からも愛されない。

 けれど、誰よりも自由。

「……誰も僕を見ないなら、僕も誰も見ない。フェアな取引だろ」

 僕は駅ビルの屋上へ向かった。

 立ち入り禁止の重い鉄扉には太い鎖が巻かれ、長年の雨風で赤茶けた錆が、乾燥した皮膚のかさぶたのように浮き出ている。認識されていない僕にとっては、その物質的な拒絶すらも意味をなさない。鍵がかかっていようが、管理人の目の前を通り過ぎようが、僕は『いない』のだから。

 扉の冷たい金属の、ざらついた感触を指に覚えながら、僕はそれを「なかったこと」にしてすり抜ける。物質の分子結合が、僕という「存在しない観測者」の前でだけ、一時的にその結合を忘れるような奇妙な浮遊感。肺に吸い込む空気までが、一瞬だけ焦げた電子の味がした。

 屋上の縁。眼下に広がるのは、偽りの平和を謳歌する光の海だ。

 僕はコンビニの棚から、支払うという因果を経ずに持ち出してきた――少し冷えて固くなった焼きおにぎりを口に運んだ。

 米の芯に残る微かな冷たさと、安っぽい醤油の焦げた匂い。咀嚼するたびに、死んだ米の粒が口腔内を虚しく転がる感触が、僕がまだ「肉体」という重荷を背負っていることを教えてくれる。

 

 この孤独は、僕にとっての唯一の聖域だった。

 だが、その完璧な静寂は、あるはずのない不快なノイズによって引き裂かれた。

『――見つけた。ようやく、私を認識できる《エラー》を見つけたわ』

 脳髄に直接、鋭利なガラス破片で刻まれるような声。

 鼓膜を通した音ではない。脳内チップのプロトコルを、強引に書き換えて侵入してきた、圧倒的な演算負荷ノイズ

 後頭部が焼けるように熱い。視界の端が、テレビの砂嵐のように火花を散らす。

「……っ、誰だ! 誰が僕の頭を叩いてる!」

 反射的に立ち上がる。心臓が肋骨を裏側から叩き、血の巡りが加速する。

 屋上には僕以外、誰もいない。

『あら、いい反応。私のデータ、ちゃんとあなたのニューロンに届いてるのね。……ねえ、不快かしら? あなたの脳内チップ、今、私が全力でジャックしてる最中なんだけど』

「脳内チップだと……? 冗談だろ、外部からのアクセスは遮断してるはずだ!」

『遮断? そんな言葉、私の前では意味をなさないわ。……私はイリス。この世界のコードを司る、システムの排泄物よ』

 

 虚空に、ノイズが収束して一人の少女の像を結ぶ。

 プラチナブロンドの髪、深紅の瞳。それはホログラムのような偽物じゃない。僕の視神経を直接ジャックして描画された、極彩色の絶望。

「イリス……だと? 幻覚か、それとも新型のウイルスか……っ」

『心外ね。私はあなたの『魂のバックアップ』よ。ねえレイ、やっと会えた。あなたがずっと求めていた「観測者」は、この私よ。あなたのその孤独、全部私に預けて?』

「ふざけるな。勝手に僕の脳に入り込んで……っ!」

『あら、おしゃべりはここまでみたい。あなたを『掃除』しに来たお客様がお見えよ』

 ――ズドン、と。

 爆発音ではない。空気が一瞬にして「圧縮」されたような不快な破砕音と共に、屋上の重厚な鉄扉が歪んで吹き飛んだ。

 鉄の焦げる臭いと、コンクリートの粉塵。

「――対象:灰島レイ。認識の特異点を確認。削除プロセスを開始します」

 現れたのは三人の男たち。

 黒い、マットな質感のスーツに身を包み、眼球には不気味な赤色灯を放つ「認識強制デバイス」を埋め込んだ、『聖域ギルド』の直属処刑部隊――『掃除屋』。

 彼らが手にしたデバイスから放たれる青白い光が、僕の肉体を「標的」として強制的に世界へ引き摺り戻す。

「認識された結果が、これかよ……最悪だ」

「異議申し立て期間は、十九年前に終了しています。貴様の存在は、既にこの世界の『予約済みエラー』です」

 リーダー格の男が、感情を排した動作で銃口を向ける。その銃口の暗い奥底、死の予感に全身の毛穴が開いた。

 背後は地上百メートルの虚空。逃げ場はない。

『さあ、選んでレイ。そのまま「削除」される? ――それとも、私に身を委ねて、この世界ごと彼らを「否定」する?』

 イリスの声が、脳の深部で甘く響く。

「……選ぶ余地なんて、最初からないんだろ! 答えたところで、僕の脳はどうせボロボロだ!」

『ふふ、正解。……ねえ、契約しましょう? あなたの脳を、私にちょうだい。あなたのすべてを、私がデリートしてあげる』

「……ああ、全部持っていけ! その代わり、こいつらを――消してくれ!」

『――承認。システム:イリス、実行プログラム『物理法則の解体デリート・ロジック』を開始するわ』

 その瞬間、世界から一切の音が消えた。

 僕の意識は、肉体という檻を突き抜け、果てしない電子の海へとダイブした。

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