第2話 責任、とります。
彼はわたしを待つことなく、すたすたとホームへ歩き出した。鞄をひっつかみ、慌ててその後を追う。ヒールの音が深夜のホームに虚しく響く。
改札を抜ける。駅前には街灯がぽつんぽつんと立っているだけで、コンビニの明かりすら遠い。十一月の夜風が冷や汗をかいた肌に突き刺さる。寒い。身も心も、寒い。
小さな駅だから、駅前ロータリーなどというものもない。ただ、タクシーくらいは何台か止まっているだろうと思っていた。が、甘かった。
「……居ないな」
工藤副部長が忌々しげに呟く。
タクシー乗り場には、わたしたちと同じように終電まで乗り過ごしてしまったであろうサラリーマンが何人か並んでいた。来る気配のないタクシーを待って並んでいる、ゾンビのような顔をした群れ。
最後尾に並べば、一時間以上は待つことになるだろう。
「ど、どうしましょう……」
アプリでタクシーを呼ぶことはできるかもしれない。それでも、並んでいるみんなもそうしているだろう。待つことに変わりない。それに、わたしの自宅までここからタクシーを使えば万札が二枚くらい飛ぶと思われた。
いや。
いやいや。違うでしょ、美月。
わたしのせいで終点まで動けなかった副部長の、ご自宅まで、だ。
どこだっけ、それ。たしか……わたしの家より、さらに都心寄り、だったかな。
震える手で財布の中身を確認する。給料日前で心許ない。涙が滲む。カード、使えればいいな……。
と、副部長がため息まじりに声を出す。
「佐倉」
「は、はい!」
「ついてこい」
それだけいい置いて、わたしを待たずにくるりと踵を返した。慌ててついてゆく。って、どこへ?
向かう先は、駅前の通りから一本外れた、薄暗い路地の方だ。
「ふ、副部長……あの、こんなとこにたぶん、タクシーって、いない……かな……って」
「タクシーじゃない。こんな寒空の下で探していられるか。とりあえず暖まれる店に行く」
「え、お店……?」
戸惑いながらも副部長の背中を追うしかない。
彼は迷いのない足取りで進んでいく。まるで自分の家の近所を歩いているかのように。
「あ、あの……副部長。この辺り、お詳しいんですか?」
「……すこし、な」
彼は歩みを緩めずに答えた。
「新入社員の頃、研修でこの近くの物流センターに配属されたんだ。半年間、さっきの駅の裏にあるぼろアパートに住んでいた」
「えっ」
思わず足が止まりそうになる。
あの、氷の工藤が? 最短コースで出世街道を走り抜けてきたエリート中のエリートである彼が、こんな都心から離れた場所で現場研修を受けていたなんて。いや、考えてみれば当たり前かもしれないけど、でも……ぼろアパート?
「意外か?」
「あ、いえ……その、いまの副部長からは想像がつかなくて」
「俺にも青臭い時代はあったということだ。まいにち必死に働いて、泥のように疲れて終電で帰ってきては安酒を飲んで寝るだけの生活だったがな」
ふ、と自嘲気味に笑う横顔が街灯に照らされる。どこか柔らかい、見たことがない表情。わたしの知らない、若き日の工藤副部長。
意外な一面に胸の奥がわずかにさざめいた。が、それも束の間、重大な事実に気づいてわたしは声を上げた。
「で、でも、いまからお店に入って始発まで飲んでたら……明日の仕事が」
時計を見れば、もう深夜一時。
始発で帰って、シャワーを浴びて着替えて出社したら、睡眠時間はゼロだ。
今日やり残した資料作りがある。調べ物もしなきゃいけない。なにより今から有休申請などできない。つまり、休めないのだ。
「あ、あの、わたし、やっぱりタクシーで帰ります! 少しでも寝ないと、明日の仕事、ミスをしてしまいそうで……」
踵を返そうとしたわたしの腕を、彼の手が掴んだ。ぐい、と強く引き寄せられる。
「その必要はない」
「え?」
「明日は休みにした」
「……は?」
思考が停止する。休みにした? 誰が、誰を?
副部長は片手でわたしの腕を掴みながら、もう一方でポケットからスマートフォンを取り出し、器用に操作して画面をわたしに見せた。会社の勤怠管理システムだ。
そこには『佐倉美月』と『工藤湊』の欄に、明日の日付で有給休暇の文字がしっかりと入力されていた。おまけに、すでに承認済となっている。
「承認者は俺だ。さっき通しておいた。君が寝ている間にな」
「え、えええっ! だ、駄目ですよ、公私混同は! それに、資料が……」
「資料なら今日の残業で八割方終わっているだろう。残りは明後日からでも間に合う。俺も会議があったが、リスケした。ついでに言えば、有給休暇はズル休みではない。公私混同などという批判はあたらない」
彼は涼しい顔でスマホをしまうと、わたしを見下ろした。口角を持ち上げる。
「そもそも、寝不足でふらふらしている部下を出社させたとあっては、俺の管理能力が疑われる。そう思わないか?」
「うっ……」
「それに」
彼は一歩、距離を詰めてきた。
ふわり。白檀と柑橘を混ぜたような、大人びた香水の匂いが漂う。その匂いはわたしの身体にもついていた。そう、わたしがさっきまで枕にしていた匂いだ。
「スーツの責任、取ってくれるんだろう?」
責任、という言葉を、彼は楽しむように転がした。低い声が夜気に溶ける。どきり、と、胸がちいさく跳ねるのを感じた。
「逃げ場はないぞ、佐倉。君の明日のスケジュールは俺が買い取った」
有無を言わせない、けれど抗いがたい引力を持った瞳。上司命令という名の、強引な誘惑。答えられないまま、わたしは小さく頷くことしかできなかった。
彼は満足そうに口角を上げると再び歩き出した。今度はわたしの歩幅に合わせるように、すこしだけゆっくりと。
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