第3話 知らない、表情。

 

 そこからしばらく歩いて、小さな雑居ビルに辿りついた。地下一階、重厚な木の扉の前に立ち止まる。

 扉に取り付けられている小さな板に『Bar NOCTURNE』と刻み込まれている。隠れ家のような、だけどどこか味のある店構えだ。わたしに味なんて、わかるはずもないけど。


 「ここ、ですか?」

 「ああ。こっちに住んでいた頃、給料日だけ通っていた店だ。マスターが口の堅いひとでな。愚痴を聞いてもらっていた」


 彼は懐かしそうに目を細め、ゆっくりと重そうな扉を押し開けた。カラン、と控えめなドアベルの音が鳴る。

 中から流れ出してきたのは、紫煙の香りと静かなジャズの音色、そして暖房の効いた柔らかな空気だった。


 「いらっしゃいま……おや、工藤くん。驚いた」


 カウンターの中にいた白髪のバーテンダーが、目を丸くして迎えた。

 くん、付けで呼ばれる副部長なんて、わたしは初めて見る。会社でも社長くらいにしか許されないんじゃないかな。


 「ご無沙汰しています、マスター。今日はふたりです」

 「おやおや、十年ぶりに訪ねてくれたと思ったら女性連れか。あの工藤くんがねえ。明日は猛暑日だな」


 マスターの言葉に、副部長は少しバツが悪そうに咳払いをした。その肩越しに、マスターは表情を緩めて、いらっしゃい、と口の動きだけでわたしに挨拶をくれた。

 十年ぶり。つまり、彼がここに住んでいた頃以来ということか。

 過去の彼を知る場所に、いま、わたしが連れてこられている。その事実に胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。


 「奥のソファ席、いいですか? 連れが疲れているので」

 「もちろん。ゆっくりしていくといい」


 副部長が示したのは、店の奥、少し狭いところにくの字に並べて置いてあるふたつのソファだった。身体が沈み込むような革張りのひとり掛け用。そこにゆっくりと腰を落とし、背を預け、ほっと息をつく。

 明日の仕事の心配は強制的に消滅させられた。つまり、今夜はもう帰る理由も断る理由もないのだ。思わず、あああ、という声が出た。伸びをする。


 と、副部長も大きく息を吐いた。

 長く細い指を首元へかけ、 緩みの一切なかったネクタイの結び目を無造作に引き下げる。シャツの第一ボタンが外された。露わになった喉に薄暗い照明が影を作っている。わたしは思わず息を呑んで目を逸らし、ついでにその視線の先に壁のハンガーに掛けられたジャケットを見つけてしまった。肩のシミはまだ消えていない。

 いったん伸ばした両腕をゆっくりと引き縮め、わたしは肩をすぼめて神妙な表情をつくった。

 そんな様子を眺めていた副部長は眉を上げ、ふ、という音を出した。


 「なにを飲む? ここはカクテルも美味い」

 「あ、じゃあ……お任せで……」

 「わかった。すみませんマスター、バーボンをロックで。それと、彼女に甘すぎないフルーツカクテルを」


 手を上げて注文を終え、彼はソファに深く身を預けた。

 オフィスの蛍光灯の下で見る彼は、冷徹な上司、という記号そのものだ。それ以上の目で見たこともないし、その他にこのひとを表現する言葉はないと思っていた。

 けれど。この薄暗い照明の下で、その柔らかな横顔を見ていると。

 副部長、という呼びかけが、どこかひどく場違いなもののように思えたのだ。

 

 と、額に落ちた前髪をかき上げ、彼は気怠げな瞳でわたしを捉えた。視線が逃げ場を塞ぐように絡みつく。

 ちょっと前言、撤回。やっぱり怖い。副部長は副部長でした。


 「さて」


 彼は運ばれてきたグラスを受け取ると、狩人のような目をわたしに向けた。


 「時間はたっぷりある。ゆっくりと聞かせてもらおうか。責任を、どう取ってくれるのか」

 「は、はひ……」

 「だが、その前にまずは乾杯だな。俺の古い巣へ、ようこそ」


 そういってグラスを持ち上げる。

 わたしも慌てて綺麗な色のコリンズグラスを持ち上げ、ほんの小さくあわせてみた。ちん、という軽い音。

 

 その音が、わたしの平穏な日常の終わりを告げるものだったというのは、ずうっと後になってわかることだったのだ。


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