物語をやめる日

@zeppelin006

物語をやめる日

 僕には悪い癖がある。何でも『物語』にしてしまうのだ。


 朝、電車が遅延すれば「今日は何か起きる伏線だ」と思う。コンビニで最後の一個だった弁当を買えたら「運命に選ばれた」と感じる。仕事でミスをしても「これは成長のための試練」と解釈する。そうやって日常の断片を拾い集め、一本の筋道に並べ直すと、世界はとても分かりやすくなった。


 努力すれば報われる。失敗は伏線。恋は運命。


 そう言うと、生きやすい。少なくとも、僕はそう思っていた。


 いつからこうなったのかは覚えていない。気がついたときには、すべてがそうだった。小学生の頃に読んだ冒険小説、中学で夢中になった漫画、高校の図書室で出会った古典文学。物語は僕にとって、世界を解読するための辞書だった。主人公がいて、試練があり、成長があり、結末がある。その構造さえ知っていれば、どんな出来事も怖くなかった。


 現実は物語のように美しくない。でも、物語のように読み替えることはできる。


 僕はそう信じていた。


◇ ◇ ◇


 高校からの友人である拓也が鬱病と診断されたのは、去年の冬のことだった。


 彼は僕の物語化癖を知る数少ない人間だった。大学時代、僕が飲み会で得意げに「人生は三幕構成だ」と語ったとき、彼は笑いながら「お前、本気でそう思ってんの?」と訊いた。本気だった。彼はそれ以上何も言わず、ただビールを煽った。今思えば、あのとき彼が何を考えていたのか、僕は知ろうとすらしなかった。


 拓也は絵を描く人間だった。美大には行かず、独学でイラストレーターになった。二十代の前半は苦しそうだった。バイトをしながら作品を描き続け、コンペに落ち続け、それでも筆を置かなかった。僕はその姿を見て「才能が開花する前の雌伏の時期」だと思っていた。物語では、努力は必ず報われる。それが物語の文法だから。


 二十代後半でようやく仕事が安定し始めた。ゲーム会社からイラストの依頼が入るようになり、SNSのフォロワーも増えた。僕は「第二幕の始まりだ」と思った。これから彼の物語は上昇する。そう信じていた。


 だから、彼が病気になったとき、僕は混乱した。


 理由は分からない。いや、理由はあったのかもしれないが、彼は語らなかった。ある日、「最近、筆が動かない」と言った。その次に会ったとき、「病院に行った」と言った。それだけだった。


 僕は彼の話を聞きながら、頭のどこかで考えていた。


 ——これは『試練』だ。


 才能のある人間が一度挫折し、それを乗り越えてさらに飛躍する。物語ではよくあるパターンだ。主人公が谷底に落ちる展開。でも谷底があるということは、そこから上がっていく展開もある。拓也ならきっと大丈夫。彼の人生にはまだ『第三幕』が残っている。


 そう思うと、不思議と安心できた。彼の病気さえも、僕の中では物語の一部になっていた。


 だから僕は彼に言った。


「大丈夫だよ。お前の才能は本物だ。これを乗り越えたら、もっといい作品が描けるようになる」


 拓也は何も言わなかった。ただ少し笑って、頷いた。


 その笑顔を見て、僕は満足した。自分がいい友人であると、そう感じた。


◇ ◇ ◇


 三ヶ月後、拓也から久しぶりに連絡が来た。


「少し話せる?」


 僕たちは駅前のチェーン店の喫茶店で会った。拓也は痩せていた。頬がこけ、目の下に濃い隈があり、服が体に合わなくなっているように見えた。首元から鎖骨が浮き出ていて、僕は思わず視線を逸らした。


 でも僕は努めて明るく振る舞った。物語の中で、友人が落ち込んでいるときは明るく励ますものだから。


「最近どう? 絵は描いてる?」


「うん、まあ……ぼちぼち」


「そっか。焦らなくていいよ。今は充電期間だと思えばさ」


 拓也はコーヒーをかき混ぜていた。スプーンがカップの縁に当たる音が、やけに大きく聞こえた。店内には他の客の話し声が低く響いていて、僕たちの沈黙を埋めてくれた。


「なあ、聞いていいか」


「何?」


「前にお前が言ったこと。『これを乗り越えたらもっといい作品が描ける』って。あれ、本気で言った?」


 僕は少し驚いた。そんなことを覚えていたのか。三ヶ月も前の、何気なく言った一言を。


「ああ、もちろん。本気だよ。お前の才能は——」


「俺は」


 拓也が遮った。初めてのことだった。彼はいつも人の話を最後まで聞く人間だった。


「俺は別に、いい作品を描きたくて絵を描いてたわけじゃないんだ」


「え?」


「ただ、描きたかっただけなんだよ。描くのが好きだった。手を動かして、頭の中のものが形になっていくのが好きだった。評価とか、上達とか、そういうのは後からついてきただけで、最初からそれを目指してたわけじゃない」


 彼はカップを見つめたまま、続けた。


「でも今は、その『好き』が分からなくなってる。手を動かしても、何も感じない。白い画面を見ても、何も浮かばない。まるで自分の手じゃないみたいに」


 彼の声は平坦だった。感情を押し殺しているというより、感情そのものが薄れているような声だった。水で薄めたインクのような声。


「それで——」


 拓也はコーヒーを見つめたまま、続けた。


「お前に『乗り越えたらもっといい作品が描ける』って言われたとき、俺は思ったんだ。ああ、こいつは俺のことを『物語』にしてるんだな、って」


 僕は何も言えなかった。


「悪い、別に責めてるわけじゃないんだ。お前の癖は知ってるし。俺だって、同じことを他人にしてきたと思う。ただ——」


 彼はようやく顔を上げた。目が合った。その目は乾いていて、どこか遠くを見ているようだった。


「俺の苦しみが、お前の物語の『試練パート』にされてる気がして、ちょっときつかった。それだけ」


◇ ◇ ◇


 帰りの電車の中で、僕は吐き気を覚えていた。


 揺れる車両に身を任せながら、自分が何をしたのか考えた。考えれば考えるほど、胃の底から込み上げてくるものがあった。窓に映った自分の顔は青白く、知らない人間のように見えた。


 僕は拓也の苦しみを『展開』として扱っていた。


 彼が鬱病になったのは『試練』。きっと乗り越えられる、なぜなら物語では『才能ある人間の挫折』は『さらなる飛躍』の前振りだから。そう解釈した瞬間、僕は安心した。彼の痛みが、物語の文法に回収されて、分かりやすくなったから。未来が予測可能になったから。


 でも違った。


 拓也の苦しみは『試練』ではなかった。ただの苦しみだった。意味もなく、理由もなく、どこへも向かわない、ただの痛み。それを僕は物語の部品に変換して、自分の世界観の中に収めて、それで『理解した』つもりになっていた。


 ——人生を物語にすることは、理解ではなく支配だったのではないか。


 その問いが、錆びた釘のように胸に刺さった。抜こうとしても抜けず、触れるたびに痛んだ。


 僕はずっと、世界を分かりやすくしようとしてきた。因果で結び、意味で満たし、起承転結で整理してきた。それは世界を理解するためだと思っていた。混沌とした現実を、人間が把握できる形に翻訳するための、正当な営みだと。


 でも違う。


 それは世界を『自分の物語』に従わせることだった。現実を物語に押し込め、はみ出た部分を切り捨て、都合のいい形に整形することだった。


 拓也の病気にも、僕は役割を与えた。『試練』という役割を。そうすることで、彼は僕の物語の登場人物になった。彼自身の人生を生きている一人の人間ではなく、僕の世界観を補強するための素材になった。


 そう気づいたとき、僕は自分が何年もの間、誰のことも見ていなかったことを知った。


◇ ◇ ◇


 それから数日、僕は何もできなかった。


 会社には行った。仕事はした。でも頭の中では、ずっと同じことを考えていた。自分がこれまでどれだけ多くの人を『物語』にしてきたか。どれだけ多くの苦しみを『展開』に変換してきたか。


 思い返せば、いくつも出てくる。


 大学の同級生が就活に失敗したとき、僕は「彼女の物語はこれからだ」と思った。後輩が失恋したとき、「この経験が彼を成長させる」と思った。祖父が亡くなったとき、「これで家族の絆が深まる章だ」と思った。母が病気で入院したときさえ、「これは家族が試される展開だ」と思った。


 それは優しさだったのだろうか。


 僕は当時、自分が前向きな人間だと思っていた。どんな困難も意味があると信じられる、強い人間だと。ポジティブで、タフで、人を励ますことができる人間だと。でも実際には違った。


 僕は困難に意味を『付けて』いただけだ。そうすることで、困難を直視しなくて済んだ。他人の痛みに無防備に触れなくて済んだ。『試練』という言葉で包装すれば、痛みは痛みでなくなった。物語の一部になった。そして物語の一部になった痛みは、いずれ報われる。そう信じることで、僕は目を背けていた。


 物語は鎧だった。世界の不条理から自分を守る、とても頑丈な鎧。


 でもその鎧が、僕と他者の間に壁を作っていた。僕は鎧の内側から、スリット越しに世界を眺めていた。そこから見える景色は整然として美しかったけれど、それは本当の景色ではなかった。


 現実の世界は、もっと雑然としていて、もっと不公平で、もっと意味がない。


◇ ◇ ◇


 一週間後、僕は拓也に連絡を取った。


 返信はすぐに来た。「会える」とだけ書いてあった。


 同じ喫茶店で、同じ席に座った。拓也は相変わらず痩せていたが、前より少しだけ顔色が良いように見えた。見えただけかもしれない。僕にはもう、それが本当なのか分からなかった。自分の目を信じることができなかった。


「この前はごめん」


 最初に口を開いたのは拓也だった。僕は首を振った。


「謝るのは僕の方だ。お前の言った通りだった。僕はお前のことを物語にしてた。勝手に『試練』にして、勝手に『乗り越えられる』って決めつけて——」


「いいよ」


 拓也は穏やかに言った。怒りはなかった。責める調子もなかった。


「お前だけじゃない。みんなそうだ。俺だって、他人のことを物語にしてた。そうしないと、分からないから。人の苦しみなんて、本当には分からないから」


「でも——」


「でも、お前は気づいたんだろ。それだけで十分だよ」


 彼の言葉に、僕は泣きそうになった。でも泣いたら、それもまた『和解の感動シーン』になってしまう気がして、必死に堪えた。涙にさえ、僕は意味を見出そうとしていた。


「僕はこれから、どうすればいいんだろう」


 情けない声だった。でも、それ以外の言い方を僕は知らなかった。


 拓也はしばらく黙っていた。コーヒーに口をつけ、窓の外を見た。冬の日差しが、テーブルの上に白い四角形を作っていた。外では知らない人たちが歩いていた。それぞれの人生を、それぞれのやり方で生きていた。


「俺も分からない」


 彼は言った。


「俺は今、絵が描けなくて苦しんでる。でもこの苦しみに意味があるのか、いつか終わるのか、何も分からない。医者は『焦らずに』って言うけど、焦るなって言われて焦らなくなったことなんて一度もない」


 僕は黙って聞いていた。口を挟まないことが、今の僕にできる唯一のことだった。


「お前が『乗り越えたらもっといい作品が描ける』って言ったとき、俺が嫌だったのは——」


 彼は少し言葉を探した。


「俺の苦しみに『オチ』をつけられた気がしたからだと思う。まるで、今の俺は本編じゃなくて、未来の俺に向かう途中の『前振り』みたいにされた気がした。でも俺にとっては、今この瞬間が全部なんだ。今、ここで、苦しいんだ。未来の俺がどうなるかなんて、今の俺には関係ない」


 その言葉が、僕の胸に深く沈んだ。


 今、ここで、苦しい。


 それは物語にならない。起承転結に収まらない。意味も教訓もない、ただの事実。でもそれこそが、拓也という人間がそこにいる証拠だった。物語の登場人物ではなく、僕とは別の人生を生きている、一人の人間がそこにいる証拠だった。


◇ ◇ ◇


 帰り道、僕は決めた。


 物語を、やめよう。


 それは簡単なことではなかった。物語化は僕の思考の癖であり、世界の見方そのものだった。二十年以上かけて身につけた習慣を、一朝一夕に変えられるはずがない。でも、少なくとも意識することはできる。意識するところから始めることはできる。


 目の前の出来事に、すぐ意味を付けない。因果で結ばない。教訓を探さない。オチを期待しない。


 代わりに、ただ見る。ただ聞く。分からないまま、隣にいる。


 それは怖いことだった。物語がなければ、世界は混沌としている。何が起きるか分からない。何のために生きているのかも分からない。努力が報われる保証はないし、失敗が伏線になる保証もない。その不安に、鎧なしで向き合わなければならない。


 でも——


 その不完全さの中にだけ、本物の他者がいる。


 物語の中の拓也は、僕の世界観を補強するための登場人物だった。僕が用意した『試練』を乗り越え、僕が予測した『成長』を遂げる、予定調和の存在だった。でも物語の外の拓也は、僕には理解できない、僕とは違う人生を生きている、一人の人間だった。何を考えているか分からない。何を感じているか分からない。これからどうなるかも分からない。


 僕はこれまで、後者を見ていなかった。前者しか見ていなかった。


 それを変えたい。


 たとえ世界が分かりにくくなっても。たとえ不安で押し潰されそうになっても。僕は物語の外に出たい。


◇ ◇ ◇


 駅で拓也と別れるとき、僕は言った。


「また会おう」


 それだけだった。『頑張れ』とは言わなかった。『きっと良くなる』とも言わなかった。『お前なら大丈夫』とも言わなかった。そういう言葉は全部、物語の言葉だったから。


 拓也は頷いた。


「うん、また」


 彼は改札を通り、人混みの中に消えていった。その背中を見送りながら、僕は思った。


 彼がこの先どうなるか、僕には分からない。病気が良くなるかもしれないし、長引くかもしれない。また絵が描けるようになるかもしれないし、描けないままかもしれない。描けるようになったとして、それが彼にとって幸せかどうかも分からない。


 分からないまま、僕は彼の友人でいる。それしかできない。


 でも——


 それでいいのだと思う。


 僕は物語作家ではない。彼の人生に筋書きを与える権利など、最初からなかった。彼の苦しみに『意味』を付ける資格など、最初からなかった。あるのはただ、彼が困ったときに手を伸ばすことだけ。その手を取るかどうかは、彼が決める。


 空を見上げた。冬の夕暮れは、オレンジと紫の境界が曖昧だった。美しい夕焼けではあったが、何かの暗示である必要はなかった。希望の象徴でも、新しい始まりの比喩でもなかった。ただの夕焼けだった。明日も、明後日も、同じように沈む太陽だった。


 僕はポケットに手を入れ、歩き出した。


 どこへ向かうのか、何が待っているのか、分からない。物語なら、ここでナレーションが入り、主人公の成長を総括し、読者に教訓を残すところだ。「彼はこうして、大切なことを学んだのだった」——そんな一文で締めくくるところだ。


 でも、そんなものはいらない。


 分からないまま、生きる。意味を保留したまま、歩く。


 それが、僕の選んだことだった。

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